160001 - 雨依の足跡 (その日も穏やかな午後だった。俺はロキと向かい合ってチェスをしていた。) 人間さん: ぐぬぬ……そう来るか。なら、これだ ロキ: あら? 本当にそれでいいんですか?いえ、私は構わないんですけどね。 でも今なら特別にやり直しても…… 人間さん: え、うそ、やっぱり悪手だったのか……じゃ、こっちで! ロキ: あら、助かっちゃいました。じゃあ、私はこっち 人間さん: ぬああああぁぁぁ!? (穏やかといってもこの世界は昼間でも空気はどこかひんやりしている。 やはりここが北欧神話の世界だからだろうか。) ヴァナルガンド: またやってるんですか。何度やってもロキには勝てないのに。 お前もあきらめが悪いですね バルドル: がんばって、人間さんくん!諦めなければきっと勝てる日がくるよ 人間さん: そんな遠い未来なんだ…… スルト: 仕方ない、マスター。チェスにはスルトという駒がない。実戦なら余裕 人間さん: それ、何の慰めにもなってないんだよなぁ (こうしてゆったり過ごしながらμたちと親交を深めているが、 雨依の捜索については毎日続けている。 とはいっても捜索活動で重要なのは数と機動力だ。) (そのためエインヘリヤルの軍勢や、 フギンとムニンといったオーディン配下の力を借りたり、 あるいはヘルの従える死者たちに手伝ってもらっている。) (もちろん一般の信民たちにも周知はしているが…… ひとつも目撃情報は寄せられていない。 生きるために雨依が会った男は一人や二人ではないはずだがやはり世間体が悪いのだろう。) ヘル: ずいぶん楽しそうじゃない。こっちはいろいろ調べてきてあげたっていうのに ヨルムンガンド: おつかれさまで~す。どうでした? ヘル: 目立った成果はないけどね、今日も ヴァナルガンド: つまりさっきのは、持ち帰った成果に評価が見合わない、という話ではなく 仲間に入れてもらえなくて悔しかった、というただの感想ですね ヘル: 珍しくダラダラ長く話すと思ったらケンカ売りたいわけ……? バルドル: ま、まあまあ。ふたりとも仲良くね? スルト: マスター。スルトともチェスする? 人間さん: いや、だったら膝に乗っちゃだめだろ。向かい合ってするんだから…… オーディン: 皆さん、大変です! (ヘルに続いて、調査にあたっている現場からの報告を受けていたはずの オーディンが飛び込んできた。 その表情から、俺たちは今度こそ何か成果があったのかと腰を浮かせる。) オーディン: ムニンとフギンが雨依さんを目撃したとのことです。場所は…… オーディン: 『世界の果て』―― (部屋の空気が変わる。 俺とスルトだけがきょとんとしたままだったが、 オーディンとともに部屋に戻って来たトールが補足してくれた。) トール: アースガルズの果てのほうに濃い霧が立ち込める場所があるの。 その霧は晴れたことがなくて、誰も足を踏み入れないわ スルト: 誰も入らないのに、雨依は入った? バルドル: ま、まさか自殺―― ロキ: めったなことを言うものではありませんよ 人間さん: そこに入ると、どうなるんだ? トール: あたしは度胸試しで1回だけ入ったことがあるんだけど…… 力が失われていく感じがしたわ。さすがに危険だと思って引き返したけど ヴァナルガンド: 人間さん、まさかお前、追いかけるつもりですか? 人間さん: ……そのために行方を探してたんだしな ヨルムンガンド: 危険ですよぉ~?トールさんが危なかったって言ってるんですから相当…… ヘル: ひとりでは行かせられないわね。だから…… ヴァナルガンド: ああ。私がついていってあげましょうか。それで解決です ヘル: いま私がそう言おうとしたでしょ!? ヴァナルガンド: そうでしたか? スルト: わたしはマスターの持ち物だから、ついていくというより、持っていかれる スルト: そうでしょう? 人間さん: ……トールの話を考えるとμが立ち入るのは危険じゃないか ロキ: それは人間さんだって同じでは? 人間さん: 雨依が入れたのだとすれば、同じオトギノクニから来た俺は入れる可能性が高いだろ オーディン: あるいは、μとしての力が失われる感覚があるとのことですから 補充ができる人間さんがそばにいれば…… バルドル: でもそれだとひとりが限界じゃない? 人間さんくんだって全員に補充しながらは無理だと思うよ スルト: なら、わたししかいない。マスター ヘル: そもそもついていくって話をしたのは私なんですけど。 別に、ついていきたいってわけじゃないけど…!! オーディン: バルドルの言う通り……そ、その……役割もありますし…… やっぱり誰かひとりに決めてもらったほうが…… 人間さん: (ちょっと前に考えてたことが現実になったなぁ。 だとすると、あのとき考えた通り、俺の気持ちは……) 人間さん: それじゃあ、オーディン。一緒に行ってくれないか オーディン: え……わ、わた、しっ……!? 160002 - 「世界の果て」のその先 トール: この先が『世界の果て』よ 人間さん: 本当に、ここからきっかり霧が立ち込めているんだな ヨルムンガンド: ヨルちゃんも一緒に行きたかったですけど……仕方ないですよねぇ ヴァナルガンド: オーディン相手にあまりキモいことはしないでくださいね トール: オーディンも気をつけなさいよ。後のことは、あたしに任せておけばいいから。 本当はオーディンの代わりにあたしが行くつもりだったんだけどね ロキ: これが人間さんの決断ですからね。 ふふっ、本当にそれでよかったんでしょうか……? バルドル: ロキさんってば、やめなよう。 送り出すのは心配だし寂しいけど、こういうときは笑顔でだよ? スルト: やだ。マスター、離さない。一緒に行く ヘル: 子どもみたいなこと言うんじゃないわよ。 人間さんが困ってるでしょ スルト: ヘルはマスターと離れても平気? 冷たい ヘル: 平気じゃないわよっ 私だって一緒についていきたいけどっ、困らせたくもないからっ……! ヘル: ……あ 人間さん: ……戻ってこれるかもわからないけど、でも本当にみんなありがとう。 全員、俺にとっては大切な仲間だから ヘル: ……オーディン。人間さんのこと、頼むわよ オーディン: は……はいっ、こ、この身に代えてもっ、ま、守りますっ トール: あんたも無事に帰ってきなさいっての。わかってると思うけど オーディン: う、うう……が、がんばります……っ (みんなに見送られて出発した俺とオーディンだったが、 間もなくしてオーディンは違和感を訴え始めた。) オーディン: やはり……少しずつ力が失われていく感じはします…… (それから更に進むと、霧は少しずつ晴れていき、荒れた風景が広がる。) 人間さん: 俺は特に何も感じていないからμだけに影響があるのかな オーディン: き、きっと……そうなんでしょうね…… 人間さん: じゃあ手を出して オーディン: は、はいっ! オーディン: …… オーディン: ……え、えっと、あの、なんか、 手をつないでこうして、一緒に並んで歩くなんて、その、で、で、ででででで オーディン: っ!?人間さん、危ない!! (ふいにオーディンに突き飛ばされる。 と、先ほどまで自分がいた場所を巨大な爪が抉った。) 人間さん: な、なんだ!? オーディン: 魔物……とは少し違うようですが、少なくとも友好的ではなさそうです (それは何かの動物のようであったが、禍々しい気配に満ちていた。 何よりこちらに向ける敵意は明らかで、ここはオーディンに頼るほかない。) 人間さん: (ひとりで来ていたらここで終わっていたな……) オーディン: ここはお任せください。こういうときのためのわたし、ですから……っ! (敵の攻撃を華麗な槍さばきでいなすオーディン。 さすがの実力だが、しかし……。) 人間さん: (確かに槍さばきは見事だけど……攻撃が、あまり通っていない……? 敵の防御が固いのか……?) (客観的に見れば、明らかに戦闘は有利に進んでいる。 しかし、オーディンならもっと圧倒的に戦えるのでは、と かつて対峙した立場としては考えてしまう。) オーディン: ここで決めます……っ!はあああぁぁっ!! (とはいえ、とどめの一撃で敵を無事に倒すことができた。) オーディン: ……そこにいるのは信民ですね。 どこの誰の信民かは知りませんが、大人しく表に出てきなさい (オーディンに気配を捉えられたのは、鎧で武装した者たちだった。 どうやら彼らはオーディンによれば信民らしい。) 兵士1: ティアマト様の魔獣を倒すとは……一体、何者だ オーディン: ……そちらから名乗るべきでは? 兵士2: なんだと! 兵士1: おい、よせ! (オーディンはさほど挑発的だとは思えなかったが、ひとりの兵士が激昂する。 血の気が多い連中なのか、それを皮切りに数名が続いた。) (しかし信民の兵士程度なら数名がかりと言えどもオーディンは難なく薙ぎ払う。) 兵士2: ぐわあああっ!! オーディン: 安心してください。私の武器は当たってはいません (吹き飛ばされ、近くの木の幹にしたたかに身体を打ち付けた兵士は その場で痛みに悶えながら倒れる。) 兵士1: 当たってないって、まさか風圧で……!? (ざわつく兵士たちから視線を外さないまま、オーディンがそっと俺に近づく。 そして緊張した面持ちでささやいた。) オーディン: やはり……本調子ではなさそうです。この程度の相手ならなんとでもなりますが…… 人間さん: そうか……なら、なんとかして逃げないとな…… ???: 何の騒ぎかと思ったら……見慣れないお客さんね オーディン: この気配、まさか……μ!? (兵士が道を開けると、そこにはひとりの少女がいた。 そしてかっと目を見開いた瞬間――) オーディン: ――っ! (足元の地面が急速に隆起し、オーディンと俺の身体を拘束する。) ???: 怪しいやつら……城に引っ立てるわよ 160003 - 新世界のμ オーディン: ひとまずまともな扱いをしてくれるようで、一安心ではありますね (世界の果てを越えた先にあった荒野で、 俺とオーディンは謎の少女率いる軍勢に捕縛されてしまった。 オーディンによれば、少女はμの気配がしたというのだが――) 人間さん: そうだな、食事も出してくれたし、見たところちゃんとした部屋で…… (ただ、足首に付けられた重りが自由な移動を阻んでいる。 俺たちが客ではないことだけは間違いない。) ???: だって……別に何も、悪いことしてないんでしょ……? (ふいに聞こえた声に振り向くと、 俺たちを捕えたのとはまた別の少女が伏し目がちにぼそぼそとつぶやいていた。) オーディン: いったい、いつの間に……。わたしが気配に気づかないなんて ???: 別に普通に入って来たんだけど……。 変な特殊能力も使ってないし……まあボクは影が薄いからね…… はぁ、病む…… オーディン: え、え、そ、そんなつもりじゃなくてっ……! いまはちょっと、話し込んでいたので気が付かなかっただけなんですっ 人間さん: それはそうと、悪いことしてないって分かってくれてるなら解放してはもらえないのかな ???: だってどこの誰だかわかんない、怪しい人たちではあるし…… オーディン: わたしはオーディン。こちらは人間さんです。 アースガルズを統括する立場にあるといえば、おわかりいただけますか ???: は……? ううん、お分かりいただけないけど…… (気弱そうな少女が怪訝な顔をしたところで、部屋の扉が豪快に開かれた。 先ほどとは違い、俺もオーディンもはっきりと認識する。) ???: アプスー! うかつにそんなのに近づいちゃだめよ!何されるかわかったもんじゃないんだから アプスー: ティアマト……でもさ、頭はおかしいみたいだけど、悪いことはしてないんだから…… オーディン: あ……頭だって、おかしく、ないですっ……たぶん…… アプスー: なんか知らない国の名前を出して、 そこを統括してるとかって偉い人っぽい雰囲気出したりとかして…… ティアマト: そういう設定なのよ。気にしなくていいわ。 人の上に立つ感じにはどう考えても見えないでしょ オーディン: 設定って……うう…… (悪気はないのだろうが、ことごとく彼女たちの言葉がオーディンの心を抉る。 しばらく戻ってこれそうにないので、代わりに俺が口を開いた。) 人間さん: いきなり魔物みたいなやつに襲われたから身を護っただけなんだ。 解放してはもらえないのか? ティアマト: 魔物とは失礼ね。あれはアタシが召喚した、可愛い魔獣よ 人間さん: 召喚…… (オーディンがμだと予想していたが、おそらくその通りだろう。 あんな強力な魔獣を召喚できるなんて。) アプスー: もしかして……遠い国から来たのかな? 人間さん: まあ、そうなるのかな。だから、このあたりの事情はよく分からなくて アプスー: いま、ここは戦争中なんだ。 ボクたちを潰すために……エンリルの軍が押し寄せてきていて…… オーディン: 戦争中、ですか……! ティアマト: あんたたちがうろついていたのは、両軍がにらみ合う緩衝地帯近く。 こっちからしたら、敵軍の斥候か何かと思うわけよ オーディン: い、いえ、違いますっ、わたしたちはただ旅をしていて…… ティアマト: 目的地は? オーディン: えっと…… 人間さん: 人を探している。金髪でロングヘアの女の子だ。名前は、雨依 ティアマト: ……それではい、そうですか、って解放はできないわよ。 だいたい、あんたたちμよね。アタシたちが知らないμがいるはずないのよ 人間さん: (オーディンのことはまったく知らない様子だけど、 μという存在は共通しているのか……) アプスー: で、でも……ティアマト。 こっちの人は、なんか、μとは違う感じするんだけど…… オーディン: そ、そうなんです。 人間さんはμでも信民でもない、まったく違う世界から来た人なんです。 ですから、あなたたちの敵とはまったく関係がありません ティアマト: はあ……? (ティアマトは俺の顎をつかみ、まじまじとこちらの顔を観察する。) ティアマト: 確かに……μでも信民でもない……なんなの、あんた 人間さん: オーディンが説明してくれた通りだよ。 というか、俺はともかく本当にアースガルズもオーディンも知らないのか? ティアマト: 知らないわね (にべもなく言い捨てると、ティアマトは俺たちに背を向ける。) オーディン: あ、ちょっと…… ティアマト: まだ完全に疑惑が晴れたわけじゃないわ。 しばらくここに留まってもらって、情報を聞き出させてもらう ティアマト: 妙な動きをしたら……わかってるわね 人間さん: ……! (振り向いた彼女の視線は、こちらを射殺すかのような鋭いものだった。 俺は思わず息をのんでしまう。) アプスー: そういうことだから悪いけど……しばらく、我慢していてね…… (アプスーも、これ以上は俺たちの解放をかけ合うつもりはないようだ。) 人間さん: どうやらしばらく足止めを食らいそうだな…… 160004 - 謂れのない責め (翌日も、相変わらず俺とオーディンは捕虜生活を送っていた。 もちろん捕虜と呼ぶには待遇はいいのだが、 本来の目的である雨依探しに出かけられないのでは……。) アプスー: ね、ティアマト……この人たち、いつまで閉じ込めておくの……? 本当にエンリルたちのこと、何も知らないみたいだよ ティアマト: なら、ずっとここにいてもらうわ。 エンリルたちの情報を吐くまで、あんたたちはここにいるのよ オーディン: そんな無茶な…… (できる限りのことはこちらも答えてはいるのだが、 本当に何も知らないことばかりなので答えようがない。 むしろ、それなら――) 人間さん: なあ、どうして戦争なんかしてるんだ? ティアマト: はあ? 質問するのはこっちよ!そっちに情報なんか渡せるわけないでしょ! 人間さん: 俺たちをエンリルとかいうやつの手先だと思ってるんだろ? もしそうなら、戦争している理由なんて秘密でもなんでもないんじゃないのか? (せめて、この世界の情報を聞き出したい。 もし解放されたときの動き方はイメージしておくに越したことはない) ティアマト: ……っ、生意気な奴ね! 口が減らないっていうか アプスー: この戦争はね…… ティアマトがボクのためにやってくれてるんだ ティアマト: ちょっとアプスー。こんな奴に騙されちゃだめだってば アプスー: 騙されてなんかないよ。この人の言う通りだし ティアマト: …… アプスー: 元々はね、なーんにもない場所だったんだ。 それをボクが地道に……こつこつ切り拓いて、町ができていったんだ 人間さん: …… (ティアマト、そしてアプスーという名前からして予想はしていた。 やはりここは、メソポタミア神話の世界らしい。) (オトギノクニは複数の物語が交差する形で絡み合っていたが、 少なくとも北欧神話とメソポタミア神話の間では、繋がりは一切ないようだ。) 人間さん: (もちろんオトギノクニにいる仲間とも関わりはない…… もしあれば、ギルガメッシュやイシュタルの名前が効いて楽できるんだけど) アプスー: そのうちティアマトも手伝ってくれるようになって…… 町から国みたいに、大きくなったんだ……なのに ティアマト: 連中はアプスーのことを追い出したのよ!わけわかんないイチャモンつけて! オーディン: ええ……? だ、だって、この国は……アプスーさんが作ったんですよね? ティアマト: そうよ! だったらアプスーが一番上であるべきでしょ!? なのに、あいつら偉そうにっ! アプスー: ティアマト……落ち着いて……。創ったのがボクでも。 上に立つ感じじゃないっていうのはボクも自分で思うし、みんなだってきっと…… ティアマト: そんな弱気でどうするのよ! あいつらはそれを謙虚だなんて言わずに弱みを見つけた気になって、 どんどん攻めてくるんだから! アプスー: う、うん…… オーディン: そんな……それはひどすぎます……っ ティアマト: そうでしょ!? (オーディンの寄り添う発言にティアマトが被せてくる。 妙に感情移入しているようだが、オーディンも似た経験があるのか。 あるいは、未来視で疑似的に経験したのかもしれない。) 人間さん: それで仲の良かったティアマトも巻き込まれたってわけか? アプスー: ティアマトは……残ろうと思えば残れたんだ……。 なのにボクのために怒ってくれて…… ティアマト: 別に。アタシはただ、自分が気に入らないことはハッキリ言っちゃうだけ。 そしたら一緒に、反逆だなんて言われたから逃げたわけ ティアマト: けどね、アタシはやられっぱなしでいるつもりはないわよ! 必ずあのエンリルのやつを、玉座から引きずり降ろしてやるわ! アプスー: ティアマト…… ティアマト: これまではずっと逃げて来たの。 あいつらの手先が追ってきて……何もしていないのに、疑いだけかけられて、 たったふたりで追いかけ回される気持ち、わかる? オーディン: え……あ、そ、そう、ですよね…… はい…… (ふいに歯切れが悪くなるオーディン。 権力の座から引きずり降ろされる話では感情移入していたようだが、 追われる段階になると様子が変わる。) 人間さん: (ちょっと……雨依に対するオーディンの行動にも通じるものがある、 とか思ってるんだろうな……。 まあ、確かにちょっと似てるけど……) ティアマト: けどね、ここからよ!もう逃げるのは終わり。 こうやって城も手に入れて整備したし、ついてきてくれた信民たちもいるし! ティアマト: ここから反撃よ!一気に巻き返して、逆にあいつを叩きだしてやるわ! (鼻息荒く戦いを誓うティアマト。 そんな姿を、アプスー困り顔で見つめているのだった。) 160005 - 権力の中枢 (人間さんたちがティアマトに捕まっている頃――) (遠く、この国の中心に位置する城の中でのこと。) エンリル: アヌ様。途中経過のご報告にあがりました アヌ: ああ、エンリルかぁ。もう、そんなのいいってばぁ。私は隠居した身だよ? (その部屋は玉座のある中央棟から離れた位置にある、南棟の最上階にあった。 安楽椅子に深く腰掛けるアヌの前で直立したエンリルは、神妙な表情でかぶりを振った。) エンリル: 私はアヌ様からこの国をお任せいただいていると認識しております。 返せと仰ればすぐにでも アヌ: だめだめ、もう譲ったんだから。まあ話くらいは聞くけどね? エンリル: 例の……アプスーたちの件です アヌ: はいはい。なんか動きあったの~? エンリル: いえ、大きな動きはありません。戦線は膠着状態です。 これはあくまでも定期報告となります アヌ: そっかー。思ったよりも潜伏中に力を付けていたのかなぁ。 ま、そのへんもエンリルに任せるよ エンリル: ……承知しました アヌ: ま、うまくやってちょうだい。ノイズは少ないほうがいいんだからさ エンリル: はっ。では、失礼します (アヌの部屋を退出したエンリルは、その足で執務室へと向かう。 彼女は仕事が山積みだった。 既に陽が落ちてしばらく経つが、休んでいる暇などない。) (扉を開けると、ほのかに花のような香りが漂っている。 誰が来ているかは既に予想がついていた。) エンリル: エンキ、来てくれていたのね エンキ: お帰りなさい、お姉様。アヌ様のところですか? エンリル: ええ。定期報告にね エンキ: ……少しお休みにならないと、顔色が良くないですよ エンリル: そうも言ってられないわ。やることは山のようにあるのだから エンキ: 全部、お姉様がご自分でやらなくても良いのではないですか? エンリル: いくらかエンキが手伝ってくれているでしょう エンキ: でも、本当に少しですし、それに私以外にも…… エンリル: それはダメよ。 エンキの一番の役目は、私が留守中の守り…… あまり負担を増やしすぎたくはないわ エンリル: そしてエンキ以外の者になど、任せられないわ エンキ: お姉様…… 信頼してくれるのは嬉しいけれど、 もしも倒れてしまったりしたら、私はとても悲しいです エンリル: 大丈夫よ。エンキがそばにいてくれれば、私はそれだけ力が湧いてくるんだから エンキ: …… (現在の最高権力者たるエンリルは多忙を極める。 姉を案じるエンキとのこのやり取りは、今に始まったことではなかった。) (しかし決まって、最後はこうして言いくるめられてしまう。) (ドアをノックする音にふたりが意識を向けると、 エンリルが応答するよりも先に扉が無遠慮に開けられる。) イナンナ: あー、いたいたー。ね、ちょっと服貸してくんない? エンキ: ちょっとイナンナちゃん。ノックしたら返事があるまで開けちゃだめですよ? イナンナ: いや、いないならカギ閉まってるだろうし、いいかなって。それより服よ、服 エンキ: もうイナンナちゃんったら…… エンリル: 服というのは? イナンナ: ちょっとパーティーのお誘いを受けちゃって~。 ほら、わたくしってば美しいから! でもわけあって、居候の身でしょ?持ってる服も少ないし エンリル: 私のお古でいいなら構いませんよ。好きなものを着ていってください イナンナ: やったぁー!助かるー! エンリル: それにしてもさすがの貫禄ですね、イナンナ。 居候の身だと自覚がありながら、何もせずにドレスを借りにくるとは イナンナ: えっ?な、なにもせずにってことは…… エンリル: いまがどういう状況か、知らないわけではないでしょう? 国が傾くかもしれないのですが? イナンナ: あ、あの、アプスーたちのことよね? もちろんわかってるわよ! エンリル: 働かざる者…… イナンナ: わかってるってば!そうね、明日から行動しようと思ってたところなの。 えーと、ちょっとあの子たちの城でも偵察してくるわ!ねっ? エンリル: そうですか。それを聞いて安心しましたが イナンナ: そ、それじゃ、ドレスは借りていくから! お疲れさま~! (旗色が悪いと見たイナンナは、早々に執務室を後にする。 ドレスはエンリルのために専用の衣装室があるので、そこに取りに行くのだろう。) エンリル: どう、私がエンキ以外を信用しないのは異常だと思う? エンキ: このタイミングでその質問はずるいですよ エンリル: 衛兵 兵士: はっ エンリル: さきほど衣装室にイナンナが向かいました。 今夜からしばらく、イナンナの行動を見張っておいてください。気づかれても構いません 兵士: かしこまりました エンキ: お姉様?イナンナちゃんはああいう子ですが、我が家の居候です。 追い出されたら行くところもないのに、裏切りませんよ エンリル: 裏切るとは思っていないわ。ただ、彼女が何かしでかさないか心配なだけ 160006 - エンリルの苦悩 (城を出て、エンリルは町の雑踏へと身を投じる。 信民たちはそれを恭しく頭を下げて出迎えた。) (そんな姉の背中に、エンキはどこか不安をおぼえる。 生真面目に過ぎる彼女は、こんな場面ですら何かしらの 責任感を強く再認識しているに違いないからだ。) エンキ: (お姉様は強い……けど、μの能力としてであって、決して心の強さではないのに) (エンリルのメンタルがことさら脆いとは思っていないが、 彼女の、たったひとりですべて背負ってしまう気質は いつか自身を壊してしまうのではないかとエンキは危惧していた。) エンキ: お姉様、今日はどちらに行きましょうか エンリル: そうね。西街区のほうに足を延ばしましょう (ふたり並んで街並みを眺めながら歩く。 町の巡回と称してエンリルがこうしてエンキを連れて行くのは 忙しい中でも、姉妹の時間を大切にしてくれているから。) エンキ: (それに、お姉様には私にしか話さないことが多すぎます。 ここで私が聞かなかったら吐き出す場所もなくなってしまいますから) (信民たちが開いている市場から離れると、町の喧騒は少しやみ、 並んで歩く互いの声くらいは聞き取れるようになる。) エンリル: なかなか、うまくはいかない…… アプスーだけならまだしも、ティアマトがついていったのは誤算だったわ エンキ: そうですね…… (エンキとしては、半ば予想していたことではあった。) (ティアマトとアプスーは長年、一緒に国作りをしてきた間柄。 ひとりにはしないだろうと。 ただ、ここまで徹底抗戦に出たのは予想の範疇外だったが。) エンキ: (お姉様はそういった心の機微には疎いところがありますからね……) エンリル: おかげでまったく鎮圧作戦は進んでいないわ。 呼応した信民もかなりの数で、ほぼ国を二分してしまったと言っていい エンリル: この状態を続ければ信民も疲弊し、μも弱体化していく一方。 お互いに臨まない事態のはずだけれど…… エンキ: (そして、心の機微に疎いことがここでも影響してしまっている……) (エンキにはわかる。 ティアマトたちを衝き動かしているのは意地だ。そこに合理性などない。 だが、それをエンリルに説いたところで理解を得られるだろうか。) エンリル: バビロンの守りを任せているマルドゥークも、 敵の攻撃を防いではいるけれど、討伐には至っていない。 イナンナに至っては、さっきの通り エンキ: ええ…… マルドゥークちゃんは真面目にがんばってくれていますが、 やはり相手の魔獣には手を焼いているみたいです エンリル: もし、この状況で冥界にいるイルカルラが動いたら……。 味方であれば良いけれど、まかり間違って敵方についたりすれば 一気に形勢は苦しくなる…… エンリル: いや、まさかもう……? エンキ: お姉様、あまり悪い方に考えないほうがいいですよ。 思い通りの展開ではないかもしれませんが、それでも戦況は拮抗しているのですから (エンリルは嘆息し、かぶりを振った。) エンリル: 拮抗ではいけないわ。圧倒的な戦力で即座に叩き潰さなくてはいけなかった。 反乱分子なのだから エンリル: そうすることで秩序を示し、この国はさらに発展できる…… こんなところで躓くわけには……! ???: 何か困っているみたいね エンリル: ん…… 貴方は……? (ふいに声をかけてきた相手に、姉妹はぴたりと足を止めた。 一見して、何かが違うと思える相手だった。) ???: よかったら相談に乗るわ。いい方法があるのよ エンリル: ……詳しく聞かせてもらいましょうか エンキ: お姉様……? いきなりこんな誰だかもわからない人に…… エンリル: 話したでしょう。 イナンナもマルドゥークもこの状況を打開する切り札にはならない…… それならば エンリル: 多少のリスクは覚悟の上です 160007 - 切り札の提案 (ティアマトに連行されてから数日が経った。 決して悪い待遇ではないとは言え、本来の目的を1%も達成できない現状がもどかしい。) オーディン: とはいえ、あの……強行突破とかは、その、無理かなと…… こ、こうしてついてきたのに……不甲斐なくてごめんなさい…… 人間さん: いや、気にしなくていいって。オーディンが悪いわけじゃない (ひとつわかったことがある。 どうやらこの世界ではオーディンはμとしての本来の力を 存分には発揮できないらしい、ということだ。) (存分に、というのがポイントで、ゼロというわけではないらしい。) オーディン: で、でも……うう…… ティアマト: なに、今日もまたうじうじやってんの? 鬱陶しいわね (ドアを乱暴に開けたティアマトは、こちらに近づきながら吐き捨てるように言った。) 人間さん: そんな言い方はないだろう。 こっちはずっと閉じ込められて精神的にまいってるんだ。 気に入らないなら解放してくれよ ティアマト: あんたたちは捕虜だって言ってるでしょ。 戦争が終わらない限り解放なんかしないわ (今日はアプスーはいないらしい。俺は逆に、これはチャンスだと思った。) (確かにアプスーはこちらに多少好意的で、フォローもしてくれる。 しかしティアマトは戦争を始めた経緯からしても アプスーに対してある種の建前を持っている気がしたのだ。) (強気で、好戦的な面を敢えて見せているような……。 ならばティアマト単体ならどうだろうか。試してみる価値はあると思った。) ティアマト: ただ……あんたたちにちょっと興味も出てきたのよね。 特にそこの男、人間さんだっけ?μでも信民でもない存在って、なんなの? 人間さん: 何度か説明したとおり、異世界から来たんだって (メソポタミア神話の世界とでも呼ぶべきか、ティアマトたちが住まうこの世界。 ここにもμと信民という概念が存在していた。) (となればおそらく、エネルギーに関する理屈も オーディンたちがいた世界と同じなのだろう。) ティアマト: まだ何か隠してるでしょう オーディン: ……っ 人間さん: (そしてもうひとつわかったこと。オーディンは意外と嘘が下手だ……) (アースガルズを統べる存在ということで、 清濁併せのむような強かさを兼ね備えているのでは、と当初は思ったりもしたものだが。) 人間さん: (まあオーディンも限界だろうし……ここらで種明かしをしてみるか……) 人間さん: 実は、言っていなかったことがある オーディン: 人間さんっ……!? 人間さん: そろそろ言っておこうかと思ってさ。もう秘密があることはバレてるわけだし オーディン: で、でも、それを言ってしまったら 人間さんがこの人たちにいいように利用されてしまうかもしれませんっ…… ティアマト: 人をあまり悪役扱いしないでもらいたいわね。 ま、利用できるものはするだろうけど ティアマト: それで? 言ってみなさいよ 人間さん: 条件がある。前から話している通り、俺とオーディンは人探しという目的がある。 それに協力してもらいたい ティアマト: はあ? 捕虜が条件なんか出せる立場だと思ってるわけ!? オーディン: い、言っておきますが……事を荒立てないほうがいいと、 わたしも、人間さんも、我慢しているだけ…… オーディン: 本気でやり合うなら覚悟してください (普段は気が弱いオーディン。 初対面では知らなかったそんな一面が、実は通常運転だったのだが……。 やはりこういう瞬間では、さすがの迫力を見せてくれる。) ティアマト: ……っ、わかったわよ。ただし城から出すつもりはないわ。 信民たちに手配書を配るとか、そういう形の協力でいい? 人間さん: ま、とりあえずそれでいいよ ティアマト: だから捕虜のくせに生意気なのよ! それで、ここまで言うからには有益な情報なんでしょうね 人間さん: 戦況はどうなんだ? 一進一退、っていうところなのか? ティアマト: ……そうね。 アタシの魔獣で押しても、マルドゥークがいる限り突破するのは難しい……。 バビロン攻略が当面の課題になってるわ ティアマト: あとひとつ、何か攻略の鍵が見つかれば…… (そこで言葉を切って、ティアマトは俺をじっと見る。 当然、その切り札を持っているんだろうな、という圧力を感じる。 むろんそのつもりだ。) 人間さん: 俺はμにエネルギーを与えることができる。 信民から得られるものに似てはいるが別物だ。 ただ、同じように戦う力にはなるらしい ティアマト: なんですって!? オーディン: 新たな能力が開花するわけではありません。 ただ、エネルギーが補給されるということは―― ティアマト: 継戦能力が飛躍的に向上するわね 人間さん: μの能力にもよる。たとえば一度に扱える数が増えるとか…… ティアマト: それは使いどころね。 超強力な魔獣を作ったほうが、対マルドゥーク戦では有効かもしれないし ティアマト: でも、それをどうやって証明する? 人間さん: 俺を信じてもらうしかないな。手を出してみて ティアマト: …… 人間さん: 少しでも悪意を感じたら殺せばいい。できるんだろ? ティアマト: ……なかなか肝の据わった男ね。いいわ、やってみて (こうして俺はティアマトの手を握り、エルマイトを送り込んだ。 彼女の表情が急変したのは言うまでもない。) 160008 - オーディンとの夜 (俺からエルマイトを受け取ったティアマトは、しばし言葉を失っていたが、 やがて我に返るとわざとらしく咳払いをしてみせた。) ティアマト: なるほど……。これなら、確かにエンリルどもと戦えるかもね 人間さん: さっきマルドゥークの名前が出ていたが、エンリル以外にもμは敵勢力にいるのか? ティアマト: もちろんよ。 エンリルの妹であるエンキ、裏に控えるアヌ、 それにイナンナだってエンリルの言いなりに…… (そこまで言いかけたところで、ティアマトは口をつぐんだ。) ティアマト: だからあんたは捕虜なんだってば。情報を聞き出そうとするんじゃないわよ ティアマト: まあいいわ。 あんたの利用価値は十分理解したから、これから上手く使わせてもらうわね オーディン: 利用とか、使うとか、人間さんをなんだと……! ティアマト: はいはい。あんまり騒がないで。 それじゃ、調査の件は約束通りアタシも動いてあげるから 人間さん: ああ、頼むよ…… (夜になるとずいぶん静かだ。 窓の外からは酔っ払いが騒ぐ声どころか野犬の遠吠えも聞こえない。) (連行されてから、ずっと閉じ込められている身としては 窓から見える庭の風景がすべてだ。 庭のその先、高い塀の向こうはどんな風景なのだろう。) オーディン: 人間さん……ご不安ですか? 人間さん: ん? ああ、感傷的になってるように見えちゃったかな。 窓の外なんてぼんやり眺めてたら、そう思うよな オーディン: あ、いえ…… もちろん、そう見えたこともあるのですが、それだけでなくて…… オーディン: どちらかというと、 わ、わたしが……不安、なんです…… 人間さん: それは無理もないよ。 μとしての能力も制限されているみたいだし、 それに元の世界での地位なんかも保証されてないんだからな オーディン: そうなんです。 今まで積み上げてきたもの、持っていたもの、それどころか私を知る友人まで…… 誰もいないんです オーディン: だから……と、とても不安ですし……怖い、です…… 人間さん: 月並みな言い方になるけど、俺がそばにいるから オーディン: 人間さん…… 人間さん: いや、かっこつけすぎだな。普通に自分でキモいわ オーディン: 本当にそうなんです! 人間さん: えっ、ショックが隠し切れない オーディン: あ、違います、その、キモいことは一旦おいといてですね 人間さん: う、うん。俺はいま震えているよ オーディン: 改めて、気づいたんです。 人間さんは……こんなに、心細かったんだなって…… (オーディンの言葉に、俺は北欧神話の世界に迷い込んだ当時のあの心境を思い出す。) オーディン: あ……頭で分かってはいるつもりでした。 でも、実際にこうして体験すると、その……本当に、よくおひとりでがんばって…… オーディン: でも、わたしには人間さんがいます。完全なひとりじゃない…… 当時の人間さんはもっと辛かったはず…… 人間さん: ああ、そういうことか。それで……本当にそうなんです! っていう…… (キモかったわけではないらしい。心のなかで安堵のため息をつく。) 人間さん: でも俺も、完全にひとりだった期間はそう長くないよ。 すぐにヘルに出会えたし、ヘルは警戒してはいたけど捕虜扱いではなかったし オーディン: ふふっ、その話をヘルさんが聞いたらどんな顔をするでしょう。 きっと赤い顔でムキになって否定しますよね (実際、ロキやバルドルも俺をさほど危険視せず、 すぐに共闘することができたのは大きい。 別世界で味わう孤独というなら俺よりもむしろ――) 人間さん: 本当に独りだったのは、雨依なんだよな オーディン: ……っ!! (オーディンの表情がこわばる。 彼女にとってあまり好ましい話題ではないかもしれない。 でも雨依の名前をわざわざ避けるのも違う気がした。) 人間さん: 世界に来てからずっと独りだったし……きっといまも オーディン: そうですよね……。 しかも、この国の情勢は不安定ですから、わたしたちのように捕虜になっているかも オーディン: そんな雨依さんを、わたしは未来の可能性を恐れるあまり、深く傷つけてしまった…… (雨依に対するオーディンの姿勢が気になっていたのだが、 確かめるいい機会になったようだ。) オーディン: わたし、会ったらまず謝らなくちゃ。 自分のことばかりで、雨依さんのことを何も考えてあげられなくて、 そういうの全部……謝りたい、です…… 人間さん: うん……きっと、伝わるよ (オーディンの隣に寄り添い、そっと肩を抱く。 彼女はこつん、とこちらに寄りかかり、俺の胸に顔を埋める。 改めて、彼女の華奢な体躯を実感した。) (こんな細腕で世界の終わりという重責を抱えていたのだ。 他者を思いやる余裕などなくても責められるだろうか。) 人間さん: (でも……雨依にはそれは関係のないことだしな……) オーディン: ごめんなさい、人間さん…… わたし、本当は、人間さんのこと支えなきゃなのに…… 人間さん: 気にしなくていいよ。 それに、甘えてもらえるのもうれしいし、活力にもなるから オーディン: そうなんですか……? じゃあ、もうちょっとだけ……甘えさせてください…… 160009 - 空からの襲撃 (深夜の静寂は唐突に破られた。) 人間さん: なんだ、この音は!? (けたたましく打ち鳴らされる鐘の音。ここに連れて来られて初めて聞くものだ。) (事情を何も知らなくても、 何かイレギュラーなことが起きているのだろうことは想像できる。) オーディン: 窓の外…… 兵士が慌ただしく動いていますね。やはり警報のような意味合いなのでしょう (さすがというべきか、 オーディンは既に身なりを整え、いつでも動ける体勢になっていた。 俺も慌てて服を着て、彼女の隣に並び立つ。) 人間さん: 普通に考えると敵襲ということになるけど…… オーディン: ティアマトさんの話では、中間地点くらいで一進一退の状況だというお話でした。 いきなりここまで敵の手が及ぶでしょうか…… アプスー: ふ、ふたりとも……大変なんだ……! (いきなり乱暴に開かれる扉。そこにはアプスーの姿があった。) アプスー: ここに危険が迫ってる。猛スピードで突撃してくるやつがいて…… オーディン: 本拠地に単独で……!? 何者なんですか、そんなことするのは! アプスー: たぶん、イナンナ……エンリルに味方するμのひとりだよ 人間さん: イナンナ…… どんなやつなんだ アプスー: 詳しいことはわからないんだ。 これまで前線にまったく姿を見せなかったから、 味方しているといっても口だけかもしれないと思ってた…… アプスー: それより……早く、ふたりとも外に オーディン: 逃がしてくれるんですか? アプスー: うん、逃がしてあげてもいい。けど、条件があるんだ 人間さん: 条件? アプスー: きみの特殊能力、ティアマトからも聞いてる。 それをボクに貸してもらえないかな 人間さん: アプスーに、俺の力を……? オーディン: そんなこと、ティアマトさんが許さないんじゃ…… アプスー: ティアマトなら、いないよ オーディン: えっ、こんなときにお留守なんですか? アプスー: マルドゥークの偵察に行くってバビロンに向かったの。 こんなときに来るなんて……! 人間さん: つまり、ここを守れるμはアプスーだけ、ってわけか アプスー: うん……でもボクなんか使い物にならないかもしれない。 だからきみの力を借りたい……! オーディン: 人間さん、どうしますか……? 人間さん: …… (この場に策略家の諸葛亮がいてくれたら、 もっと良い駆け引きの仕方を指南してくれたのかもしれない。) (しかし、俺には選択肢など見えていなかった。) 人間さん: わかった。協力しよう アプスー: ほんとにっ……? よ、よかったぁ…… オーディン: 人間さんがそう決めたなら、わたしも全力でサポートします アプスー: そ、それじゃ……こっちに来て……! 広くて空が見やすい場所に移動したほうがいいと思うから…… (アプスーに導かれたのは城からしばらく歩いた、湖のほとりだった。 ここなら多少、激しい戦闘になっても町に被害が及ばない、という配慮だという。) アプスー: それと……ボク、水を操る能力だから…… 人間さん: 水辺で待ち構えていた方がいいってわけか アプスー: それにしても…… どうして、このタイミングでイナンナが…… オーディン: 何か情報をつかんだのでしょうか。 確かに、ティアマトさんの留守を狙ったタイミングというのも出来すぎている気がします 人間さん: どうだろうな。 ま、そのへんはイナンナに勝ってから考えても遅くはないだろうし アプスー: そうだね。 目の前の……この脅威をなんとかしないと、その先なんてないんだから…… (アプスーは緊張した表情でそうつぶやく。 あのティアマトが認めた実力者、と考えていたのだが本人は自信なさげだ。) アプスー: 来る……! あと、数分だよ オーディン: ……っ! わたしにもわかります……! すごいスピードで近づいてきていますよ 人間さん: よし……じゃあ、もう始めようか (俺はアプスーとオーディンの手をそれぞれ取って、強く気持ちを込める。) 人間さん: (このふたりなら……どんな困難も必ず乗り越えてくれる……!) (こうして具体的なイメージを持ったほうが、 どうやらより多くのエルマイトを渡せるらしい。 それはヘルやヴァンたちと共に戦った経験からも明らかだった。) アプスー: こ、これは……っ! 160010 - イナンナ襲来 アプスー: これが……人間さん、キミの力……!? (俺からエルマイトを受け取ったアプスーは、驚きに満ちた表情で俺を見つめる。) 人間さん: 戦えそうか? アプスー: これなら、たぶんボクでも…… オーディン: 来ます! あれですよね!? (割って入るように声を上げ、オーディンが指し示した方角。 その遥か上空に光る何かが見える。) (アプスーに聞くよりも先に、迫りくる相手が人型であることに気づく。 つまり、あれがイナンナ――) アプスー: ここは通さないっ! (アプスーが両手を地面につけ、クラウチングスタートのような姿勢をとる。 その途端、足元が小刻みに揺れ始めた。) オーディン: この地響きは……? アプスー: 止まって!! (湖の水はまるで意志を持った生き物のように 空中に飛んでいくと飛来するイナンナの目の前に壁を展開する。) オーディン: すごい……これがアプスーさんの能力なんですね 人間さん: けど、止められるか……? アプスー: 止めてみせるよ……ティアマトがいない間はボクがやらなきゃ…… 町のみんなを守るのは、ボクしかいない……っ (水の壁を突き破って滑走を続けるイナンナ。 しかし次の壁がまた作られる。 何重もの水壁を突破するごとに徐々に速度が落ちっていた。) (やがて――) オーディン: 止まりました!! (イナンナと思しき飛来物が勢いを失って落下していくのが見える。) アプスー: よかった、これで町への直撃はなんとか避けられた…… オーディン: でも、勢いを止めただけで倒したわけではないですよね アプスー: うん……落ちた場所に急ぐよ (俺たちが走って向かった先では、 ずぶ濡れになった少女が忌々しそうに舌打ちしながら立ち上がるところだった。) アプスー: やっぱりイナンナ……キミだったんだね……! イナンナ: まさかわたくしのマアンナを止められるなんて完全に想定外だけど…… (彼女の傍らには半透明の小舟のようなものが転がっている。 どうやらそれがマアンナという名前のようだ。) イナンナ: でもさぁ、もうちょっと止め方なかったぁ!? 下着までびっちょびちょなんだけど!! 人間さん: …… (敵とはいえ美少女なわけで、下着とかびちょびちょなどと言われると ついつい邪念が入ってきてしまう。 俺は素数を数えた。) イナンナ: まいったなー。 あの勢いで城とか町にどかーん!ってやれば、 なんかこう、仕事した感が出るかなって思ってたんだけど オーディン: なんかすごく投げやりな感じがしますね…… アプスー: イナンナも、やっぱりエンリルに味方するんだね イナンナ: えー? そんな顔しないでよ。 わたくしは正直、どっちでもいいの。だって美の象徴にして光輝の女神、イナンナよ? 醜い争いに肩入れして戦うなんて、輝きが曇ってしまうわ アプスー: 美の象徴……? イナンナ: その通りよ! なんで疑問形なのよ、疑問の余地ないでしょ! 特に男なんてもう、わたくしの香り立つむんむんの色気に 脳髄が焼かれて一撃ノックアウト!ねぇ? 人間さん: 59、61、67…… オーディン: ……? オーディン: ふ、ふふん、人間さんはあなたなんかに惑わされたりしません。 見てください、この落ち着きぶり。よくわかんない数字を数えてますけど…… イナンナ: はあ!?何よあんた、ムカつくわね! この美オブ美のわたくしを前にして興味ゼロですってぇ!? イナンナ: いいわ、そういう態度ならわからせてあげる……。 どっちにしても、このまま帰るわけにはいかないし…… (イナンナは双剣を手に、こちらに向かって構える。 わからせるというので、俺にお色気攻撃でもしてくるのかと思ったが ここは正攻法を選ぶようだ。) アプスー: どっちでもいいのに、このまま帰ってはくれないの? イナンナ: わたくしも居候……じゃない、日ごろからお世話になっている恩もあるし 自分の思想とは別にやらなきゃいけないときもあるのよ オーディン: 居候っていいましたよ 人間さん: μもいろいろなんだなぁ イナンナ: 黙りなさいっ! アプスー: やるならボクだって……戦うよ! (湖から呼び寄せた水が凝縮され、弾丸のようにイナンナに襲い掛かる。 しかしイナンナは素早い身のこなしでそれをかわすと、アプスーに向けて切りかかった。) (それもまたアプスーの水の盾で防ぐ、一進一退の攻防。 そこへオーディンも飛び込んで、槍を振るう。) オーディン: やあああぁぁっ!! イナンナ: ひぅっ!? な、なによアナタ、そんな戦闘民族みたいな! (オーディンの勢いに押されるイナンナ。 しかし、完全に仕留め切る前に、イナンナは半透明の小舟に手をかけた。) イナンナ: 仕方ないわね。本気を出そうじゃないのっ! 人間さん: これはっ……! (イナンナを乗せた小舟は予備動作なしに高速で移動を始める。 縦横無尽に動き回るその機動性にアプスーもオーディンも振り回され、 捉えきれずにいるうちに――) イナンナ: はい、発射ぁ! アプスー: うあっ! オーディン: くううっ!! 人間さん: ふたりとも、大丈夫か! (イナンナの小舟についている砲台から光線が発射されたが、 ふたりとも、すんでのところでかわせたようだ。) (しかし……。) アプスー: う、うん……キミからもらった力、ちょっとうまく使えてないんだ……。 すごい力なのは確かなんだけど、馴染んでないというか…… オーディン: わたしも……この世界の空気にまだ慣れていなくて……。 最初よりは、ちょっと順応してきているのですが…… イナンナ: まだまだいくわよ! (イナンナの砲撃が続く。オーディンはまた、なんとかかわすが――) アプスー: あっ! (足がもつれたアプスーが地面に倒れこむ。 それを見逃さないイナンナの砲台が彼女に照準を合わせた。) (俺は、考える暇もなく咄嗟にアプスーに向かって走り、 身を投げ出す――) イナンナ: 発射!! (続く砲撃の衝撃に耐えようと奥歯を噛み締めながら、 アプスーの身体を抱え込むようにして庇う。) (が、衝撃は起きなかった。 正確には自分の身体から遠いどこかで起きて風圧だけがわずかに届いた。) 人間さん: ……? (俺とアプスーの前に立ちはだかる背中、それはまぎれもなく――) ティアマト: ふざけたことしてくれてるわね、イナンナ アプスー: ティアマト……! 60081 - ふたりの出会い ティアマト: あんた、何してんのよ アプスー: え。なにって、道作ってるんだけど…… (それは人間さんたちが迷い込むよりも遥かに前のこと。 μたちも互いに面識はなく、それぞれ何人かの信民たちと暮らしていた時代だった。) (現在のような家々や畑もまばらで、 ましてや城などは作られておらずただひたすらに荒野が広がっていた。 アプスーとティアマトが出会ったのは、そんな場所だった。) ティアマト: 道ぃ? これが? 穴掘ってるようにしか見えないわよ アプスー: えっと……ボクたちの道じゃなくて、水の道、なんだ ティアマト: 水? アプスー: あそこに畑を作ろうってことになったんだ…… でも、お水がないと作物は育たない、から…… アプスー: 川から水を桶で運ぶのは大変だし…… 水の通り道を作ってみようって考えたんだ ティアマト: へえ、確かにあのあたりは畑にするにはいい場所ね アプスー: え、わかるの……? ティアマト: アタシ、一応こういうことできるくらいだし (ティアマトが地面に手をつくと、その途端、地面が抉れ、 アプスーが掘っていた水路の続きが川のほうへと伸びていった。) アプスー: う、うわ、すごい……キミって、μだよね?こんなことできちゃうんだ…… ティアマト: ティアマトよ アプスー: え? ティアマト: 名前。あんたは? アプスー: あ……ボクは、アプスー…… (このふたりの出会いが、すべての始まりだった。) ティアマト: へえ、こんな小屋なんて作ってあるんだ。家じゃないんでしょ? アプスー: うん……作物とか、とっておく場所がいるでしょ……? 畑仕事の道具も置き場所に困るし…… ティアマト: ふうん。そんなの信民の連中が勝手に作ると思ってたわ アプスー: も、もちろん信民のみんなも作るけど…… お手伝いしてあげたら、喜んでもらえるし…… ティアマト: あんたってお人よしなのね アプスー: ボ、ボクにもメリットがあるんだよ。 信民のみんなが喜ぶと、ボクのμとしての能力を使えるから ティアマト: え……何よ、それ (このとき、アプスーはなんとなく感じとっていた。 信民をμとしての能力で助ければ、自分のエネルギーに変わると。 しかしティアマトは、そんなことを想像もしたことがなかった。) ティアマト: そうやってエネルギーを受け取ったら、また能力を使える。 信民のために使えば、また……。 無限に循環するってわけね アプスー: たぶん、ね……。 ボクがそう感じるってだけで、何の証拠もないし ボクなんかが何か言っても信用なんてできないだろうけど…… ティアマト: え? なにごちゃごちゃ言ってんのよ。信じるわよ。疑う理由もないし アプスー: ……そうなの? ティアマト: ねえ、それアタシも参加させてよ。 水を使うアプスーと、土を操れるアタシ、組んだら最強じゃない? アプスー: え……ボクと、いっしょに……? ティアマト: そう。信民の生活をどんどん快適にしちゃうのよ。 いろんなもの作って、この荒地ばかりな場所を開拓するの。 どう、楽しそうでしょ? アプスー: う、うん……! やってみたい……! ティアマト: じゃあ決まりね。今日からアタシたちは相棒よ! (信民たちとアプスーの関係は良好ではあったが、決して友人ではない。 彼らからすれば不思議な力を使いこなす、雲の上の存在だ。) (親しみを込めて感謝を伝えながらも、どこか畏怖している。 それはアプスーに限らず、μ全般と信民の関係性だった。) (だから、μと初めて出会った彼女にとって、『相棒』なんて初めて遭遇する存在だった。) アプスー: ティアマト。そろそろ今日は切り上げようか ティアマト: そうね。お腹もすいたし アプスー: ティアマトのおかげで、みんな喜んでるよ。たくさん供物が届いてた ティアマト: ふうん。じゃあ食べるものには困らないわね アプスー: ティアマトって……あんまり信民に興味ないよね ティアマト: そう? 別に興味がないわけじゃないんだけど…… あいつらを充実させてやるのは、手段でしかないっていうか アプスー: 手段…… ティアマト: 言葉が悪かったかしら。 別に雑に扱うつもりはないのよ。アタシなりに大事にしてるわ。 ティアマト: ただ……最終的に見たいのは、アプスーが喜んでるところだし アプスー: え、ボク……? ティアマト: あんたが喜んでると、なんかうまくいってるなぁって実感するの。 信民が喜ぶとあんたは嬉しそうだから、それでね アプスー: そ、そうなんだ…… う、うん、うれしい、よ…… ティアマト: ………… ティアマト: 待って!? アタシ、いまくっそ恥ずいこと言ったわよね!? アプスー: ううん、恥ずかしくなんかないよ ティアマト: いや無理!! 絶対だめ!! いますぐ忘れてー!! アプスー: ぜったい、忘れないよ ティアマト: 信じらんない!! ???: お、ずいぶん賑やかだねぇ。 ふたりが噂のティアマトとアプスーかな? ティアマト: え? あんた誰? アヌ: 私はアヌ。あなたたちと同じμだよ 60082 - 目指すもの ティアマト: アヌ……? アヌ: あなたたちと同じμだよ。たぶん、感覚でわかるとは思うけどね アプスー: え……えっと……ど、どういう、用件で……? アヌ: 単純なことだよ。 あなたたちの評判を聞いて、ぜひ一緒にやれないかと思ってねぇ ティアマト: 評判? そんなにアタシたちって有名になってるの? アヌ: 水のアプスーに土のティアマト…… このふたりのμによって、この地域は目覚ましい発展を遂げた…… なーんて言われてるよ~? ティアマト: へぇ、悪い気はしないわね アプスー: でも……その、手を組むっていうのは…… アヌ: ふたりじゃ限界があると思うんだよねぇ。 というかまず私自身が限界を感じて、 こうして他のμと協力できないかと思って会いに来てるんだし ティアマト: 手を組むと、どんないいことがあるわけ? アヌ: 規模が大きくなるよね。 よりたくさんの信民に対処できると思う。 それに得意なことはそれぞれ違うんだから助け合えるし ティアマト: たくさんの…… ティアマト: いいんじゃない? 一緒にやってみましょうよ アプスー: え、本当に? ティアマト: たくさん信民を応援できるんだったら、そのほうがいいんじゃない? アプスー: ティアマトがやりたいなら、ボクも……いいよ アヌ: では、決まりだねぇ。 他にも声をかけている仲間はいるから揃ったらみんなで顔合わせでもしようかぁ (それからしばらくして顔合わせが行われた。) (エンキ、エンリル、イナンナにマルドゥークといった面々とは そのときが初めての対面だった。 そして集まったμたちの得意分野を活かすようにそれぞれの分担も決められた。) (アヌが主導したこのやり方は見事にハマり、 これ以降、めざましい発展を遂げることとなるのだった。) (建てられた城の窓から、アプスーはぼんやりと外を見ていた。 最上階からは、はるか先まで見渡せる。) ティアマト: なにぼーっとしてんのよ アプスー: ティアマト…… ティアマト: 最近、なんだか元気がないみたいね。何かあった? アプスー: 何かあった、ってわけじゃないんだけど (アプスーは顔を伏せる。) アプスー: ずっと昔から一緒にがんばってきた信民がいるんだ。 信民のまとめ役みたいなことをやってくれてて ティアマト: なんとなくわかる気がする。 アタシも会ったことあるわよね アプスー: もちろん会ってるよ。それで…… その人が今度、大臣に昇格することになったんだ。 さっきその挨拶に来てくれて ティアマト: へえ。よかったじゃないの。がんばってたんだし アプスー: そう、よかったんだよね。これは、いいことなんだ (その言葉とは裏腹にアプスーの表情は晴れない。そして深々とため息をついた。) ティアマト: なんか思ってたのと違う? アプスー: え? ティアマト: あんたの顔見てたら、そんな感じがしたから。 ていうか、いまに限らず最近のあんたはつまんなさそう アプスー: そんなふうに……見えた……? ティアマト: なんとなくよ。 アタシは付き合いも長いからわかるつもりだし。 そんなに露骨に出てるわけじゃないから安心しなさい アプスー: なんかね…… みんなの長所を伸ばして活躍してるんだから、 それっていいことなんだと思うけど、でも アプスー: うまく言えないなぁ……。 なんか、ボクが住みたかったの、こういう雰囲気の場所じゃなくて…… ティアマト: 距離が遠いわよね アプスー: え…… ティアマト: アタシはどうでもいいけど、あんたにとって信民ってわりと重要な要素でしょ。 あの連中との距離はすごく開いた気がするわ アプスー: うん…… うん、そ、そうなんだよ…… ティアマト: 役割分担はいいけど、 あまりにもきっちりされすぎちゃってみんなで作ってる感じがしないんじゃないかしらね アプスー: うん……! ティアマト: それに、こんなふうに立派な城を作ってふんぞり返って ……っていうのがやりたかったわけじゃないんでしょ? のんびり土いじりしてたい、みたいな アプスー: そう……! ティアマトって言葉にするのが上手だね……! ティアマト: ていうか、アタシも似たようなことは考えてたから アプスー: あ……そっか、のんびり『土』いじりって、それ…… ティアマト: いつか言ったこと、覚えてる? アタシ、あんたが喜んでるところが見たいのよ アプスー: うん、覚えてるよ ティアマト: でも信民どころかアタシたちですら顔を合わせなくなってる。 ま、どうすればいいのかはアタシもわかんないけど アプスー: たとえば、だけど……この国を半分こして…… アヌたちとは別々にやっていく、とか…… ティアマト: ……なるほどね。 今度、話してみてもいいのかも ???: ………… ティアマト: ん? そこに誰かいるの? (ティアマトは柱の陰に気配を感じたが、誰の姿もなかった。 見誤るとは思えなかったが、さほど気にも留めずアプスーのもとへ戻る。) アプスー: どうしたの? ティアマト: ううん、気のせいだったわ 60083 - 向けられた疑惑の目 (互いに考えを話し合い、意思を確認したアプスーとティアマト。 しかし、それを正式にアヌたちに申し入れるよりも先に……。) (事件は、起きた。) 大臣: な、なんだと……!? い、いや、アプスー様とはもう、ずいぶん前からお会いしていないぞ 兵士: しかし、関係のあるものはすべて取り調べるようにと。これはエンリル様のご命令です ティアマト: ちょっと、なんの騒ぎ? (ティアマトが宮殿を歩いていると、 数名の兵士に囲まれて大臣が連行されていく場面に遭遇した。) (アヌが主導して作った信民たちの組織は国家と呼ばれ、 明確な上下関係や組織のしがらみを生んでいた。) (その中で、大臣はほぼ最高位の役職であり、 そう簡単に捕縛されるような立場の者ではない。) 兵士: ティアマト様……。 恐れながら、μの方については別途お調べがあるものと思います。 ただ、自分ごときではお連れするようなことは…… ティアマト: お調べってなんのよ (これもまた環境の変化の弊害だった。 信民は畏怖を持ちながらも、もう少しざっくばらんに話せたのだが 昨今では奥歯にものが挟まったような言い回しを多用する。) (ティアマトが少々苛立ちながら問いただすと、 兵士は無言で顔を伏せるも、大臣が声を荒げた。) 大臣: 謀反ですよ! アプスー様がアヌ様やエンリル様を裏切ってこの国を転覆しようと企てられたのです! ティアマト: 謀反!?あのアプスーが!? 大臣: 国を割り、独立しようという動きがあったと密告が入ったのです。 既にアプスー様も拘束されていると聞きます。 おそらく早晩、処刑されてしまうに違いありませんぞ ティアマト: 何よそれ、冗談じゃないわ!あのアプスーに限ってそんなこと 兵士: しかし実際に証言が出ているのです。 確かに国を分割して半分程度、統治しようなどと…… ティアマト: 分割……? ティアマト: (まさか……それってあのときの……!? あんななんでもない会話を誤解されたって……) ティアマト: ちょっとエンリル!! エンリル: どうかしましたか、ティアマト ティアマト: どうもこうもないわよ!アプスーをすぐに解放しなさい! エンリル: そういうわけにはいきません。彼女には反乱の嫌疑がかけられているところです ティアマト: そんなの誤解だってあんたもわかるでしょ! あのアプスーがそんなこと考えるわけがない! エンリル: それはなんとも申し上げられませんね。きちんと調べないことには ティアマト: あんた、この前アヌから代表者を引き継いだんでしょ。 一存でなんとでもなるでしょうが エンリル: 代表者?ああ、王位ですね ティアマト: 呼び方なんてどうだっていいでしょ エンリル: 申し訳ありませんが、いくら王と言えど簡単に理由もなく 反逆者を解放することはできませんよ ティアマト: だからアプスーは……! アヌ: ずいぶん騒がしいねぇ。落ち着いて話したほうがいいよ? ティアマトだってアプスーの友人として、まったくの潔白というわけじゃないんだから ティアマト: アヌ……! エンリル: アヌ様。ようこそおいでくださいました ティアマト: (こいつら……もしかして最初からアプスーをハメるつもりで……?) ティアマト: (最初期から国造りをしていたアプスーは、信民から根強い支持を受けている。 後から参加したこいつらにとって都合が悪かった、とか……?) ティアマト: (今回のことも口実にすぎなくて、単純に邪魔になったアプスーを…… だとしたら、処刑って話も本当に……) アヌ: とにかく話を聞いてみないことにはね。 反乱計画なんてとんでもないこと…… 他の誰かが真似したら大変なんだし……ねぇ ティアマト: ……っ、もういいわ (ティアマトは部屋を出ると、廊下を足早に進む。 既に彼女の頭の中では計画は出来上がっていた。) ティアマト: (このままだと本当になし崩しに犯人にされちゃうわ。そしたらアプスーは……) ティアマト: (あの子を助けなくちゃ。問題はいつやるか。 準備する時間を与えちゃいけない。いますぐやるしかないわ!) (その後間もなく、城や城下町に数多くの魔獣が出現した。) 兵士1: た、大変だ!応援を頼む! 兵士2: バカいえ、こっちのほうが大変なんだよ! ティアマト: よし……アタシたちを敵に回すことがどういうことか、 しっかり全員に覚えさせておかないとね ティアマト: 恐ろしさを思い知れば、逃げたことに気づいても追いかけてはこないでしょ…… アプスー: わっ……!?な、なに……?何が起きてるの……? ティアマト: アプスー! アプスー: ティアマト!?どうしてここに…… ティアマト: 話は後。まずはここから出るのよ アプスー: でも…… ティアマト: アタシを信じて。あんたのことは必ず守るから (力を見せつけるために複数体の魔獣を同時に使役し、 城下町の各所で暴れさせるティアマト。 狙いが分かりづらくなった結果、地下牢への対応を遅らせることに成功して――) (彼女たちは無事に、遥か先まで逃げおおせることができたのだった。) (だが――恐れをなして動かない、というティアマトの読みは大きく外れることになる。) 60084 - 逃避行の末に (城下町からどれほど歩いただろうか。かなり距離は稼げたはずだ。) アプスー: ティアマト…… (アプスーは重い口を開いた。その気配で、ティアマトもなんとなく話題を予測する。) (この逃避行の間、アプスーは自分の疑惑のことや ティアマトが助けに来てくれたことについて話題に出さなかった。 だからティアマトも触れなかったのだが。) アプスー: ボク……どうして捕まったのか、よくわからないんだ。 なんか国家に対する反逆だって言われて。その意味も、よくわからない ティアマト: 覚えてる?前にアタシと話したときのこと。 たぶんあの会話を誰かに聞かれていたのよ。信民の誰かにね アプスー: 国を半分こして、ボクたちはやりたいようにやるっていう…… ティアマト: そう。あんな雑談を計画だなんて言われたら、たまったものじゃないわ アプスー: …… ティアマト: それよりアプスー。あれを見て アプスー: あれ……あんなところに、お城……? ティアマト: 誰かいるかもしれないわ。ちょっと見てみましょ (この地の深くに存在する、死せる者たちの世界。 辿り着いた城は、その冥界にほど近い辺境の地にあった。) (その立地については後から知ることになるのだが、 ティアマトはここを拠点にしようと早々に考えていた。) ティアマト: どうやら廃城みたいね。ちょうどいいわ、使わせてもらいましょ。 とりあえず片付けは明日から始めるとして、このあたりに寝床を確保しないと…… アプスー: ティアマト、いいの……? ティアマト: 誰も使ってないのは明らかだし、とりあえず拠点が必要でしょ。 ずっと歩いてるわけにはいかないんだから アプスー: それもだけど、あの…… ボクなんかといっしょに、こんなふうに逃げてきちゃって……いいのかな、って アプスー: その、い、いまさら、だけど…… ティアマト: ほんと、いまさらよ。ここまで来てるのに アプスー: ごめん…… (軽口を正面から受け止め、うなだれるアプスー。 そんな様子にティアマトは苦笑を漏らし、 寝床のスペースを作るために動かしかけていた木箱を床に置く。) ティアマト: ……気にしなくていいわ。 アプスーのことは大事な友達だしそれを助けたいっていうのが素直な気持ち ティアマト: でもそれはアタシのエゴみたいなもの。 昔のあの、一緒に国造りをしていたときの楽しかった思い出をアタシは忘れられないから アプスー: でも、きっとエンリルたちは追いかけてくるよ ティアマト: そうみたいね (実力を見せつけ恐怖を与えれば追ってはこないのでは。 そんなティアマトの考えはすぐに打ち砕かれていた。) (主要都市では信民の兵士たちが目を光らせ、恐れるどころか、 かなりの兵力を投入して捜索していることがうかがえた。) (だから彼女たちは、彼女たちが信民とともに作った街道を使わず荒れ地を通り、 洞窟で休みながら、過酷な移動を続けてきたのだ。) ティアマト: というか、アプスーがどうしたいかに任せるけど。 もしアプスーが帰りたいっていうんなら従う ティアマト: けど、アタシのために降伏する、なんていうのはだめよ。 ちゃんと納得できる、自分のための理由じゃなきゃ アプスー: うん……なんか、ケンカになっちゃったけど、 でも……いまのこれって、やりたいって言ってたことだし アプスー: だから……ティアマトがいてくれるなら、ボクは…… 一緒にがんばりたい…… ティアマト: ん、素直でよろしい (ティアマトは、意識を目の前のイナンナに向ける。) ティアマト: (そう……あの頃からアタシは、ずっとアプスーと、 アプスーの大事なものを守るために、戦ってきたのよ) イナンナ: ちっ……留守だと思ってたらティアマトもいたのね? まあいいわ。どっちにしろアナタも標的なんだし ティアマト: ふん、アタシとやり合う自信があるわけ? イナンナ: 当然っ!わたくしのような光輝の女神が、 アナタたちのような反逆者に後れを取るはずがないのよ! ティアマト: …… (自信あり気なイナンナからふと視線を移すティアマト。 その先には人間さんの姿があった。) ティアマト: 人間さん、それにオーディン。 囚われの身であるはずのあんたたちが、どうしてここにいるのか…… 詳しい話は後で聞くわ ティアマト: とりあえず、お礼は言っておく。アプスーと一緒に戦ってくれて、ありがとう オーディン: い、いえ…… 人間さん: こっちこそ助かった。もうだめかと思ったよ ティアマト: ……あとは、引き受ける 60085 - イナンナの戦略 ティアマト: 満たせ―― バシュム!ムシュマッヘ! (ティアマトが声を上げた瞬間、地面が振動しひび割れる。 そしてその隙間から巨大な蛇たちが姿を現した。) (額に角を生やした蛇、 そして複数の頭を持つ蛇の二体はそれぞれ素早い動作でイナンナに迫る。) イナンナ: んなーっはっはっはーっ!このわたくしを捕まえようだなんて1000年早いのよ! イナンナ様のマアンナは神速っ! (本人の宣言通り、彼女を載せた小舟は 蛇の素早さを上回る速度で機敏に移動して攻撃を回避する。 俺の目では、瞬間移動したようにしか見えなかった。) オーディン: あれがティアマトさんの魔獣を呼び出す力、ですか…… アプスー: うん。あの子たちは魔獣の中でもすごく強い、眷属たちなんだ。 全部で11体いるの。いま使えるのは9体だけらしいんだけど…… オーディン: あんなのが、あと7体もいるんですか…… アプスー: ただ、ギルタブリルとかは、バビロン近くに逗留させてるんだ。 呼び戻すことはできるんだけど、かなり距離があるから…… ティアマトの消耗が激しくなっちゃう オーディン: ……魔獣が不在となれば、 バビロンでの戦線にも影響しますし判断が難しいところですね 人間さん: 消耗を恐れて戻すのをやめても、こっちが陥落すれば本末転倒。 ギリギリまで見定めたいが、ティアマトが消耗するのなら あまり判断が遅くなってもまずいか…… (かなり複雑な判断が要求される局面だが、 どの程度の消耗なのかの肌感覚が俺達にはないし、 そもそも素直に意見を聞き入れてもらえるとも思えない。) オーディン: 戦闘勘とでも言いましょうか、 ティアマトさんのそういう感覚に委ねるしかなさそうですね (オーディンも同じ結論に達したのか、俺が考えていたことをほぼそのまま口にした。) 人間さん: (できることと言えば、エルマイトの補給くらいだが…… ティアマトはそれさえも受け入れるかどうか) ティアマト: ちっ……ちょこまかと! イナンナ: 逃げているだけだと思わないことね!いけぇっ!! ティアマト: くううっ!! (イナンナの方舟に搭載された砲台が火を噴く。 ティアマトはなんとか身をかわしたが、 機動力だけでなく火力もあるとなると、なかなかに厄介だ。) ティアマト: ふん……これしき、なんでもないのよ。 要はその船から叩き落とせばいいんだから!! (ティアマトが地面に手を触れると、 一瞬にして岩が隆起しイナンナの船の舳先をかすめる。) イナンナ: ――っ!! (さすがの機動力でかわすが、隆起した岩の先端が急速に形を変え、 数匹のトカゲへと姿を変えた。) イナンナ: きゃっ!?な、なんなの、こいつら! オーディン: あれは…… アプスー: あれは眷属じゃなくて、普通の魔獣。 普通のは弱いけど、ティアマトが元気ならほぼ無限に作り出せる オーディン: 無限に……もしかして、戦争の主体になっているのって アプスー: ほぼティアマトの作った魔獣だよ。信民も手伝ってくれる人はたくさんいるけど (船に乗り込んだトカゲをつまんで放り出すイナンナ。 その集中が切れたと見てか、ティアマトは再び同じ攻撃を繰り出す。 しかし、やはり一瞬にして移動して岩の隆起をかわした。) イナンナ: きゃっ、また……! イナンナ: くっ……遊んでいるヒマはないようね。 ちょうど誘い込めたことだし勝負に出るとしましょうか! アプスー: 誘い込む……? オーディン: ――っ!? 人間さん: どうした、オーディン (不意に息を飲んだオーディンを見やる。) オーディン: いけません、この場所は……っ!なにか、罠が―― ティアマト: なんですって!? (その左眼が、淡く輝いていた。 彼女には、この先の光景が視えているのだろう。つまり――) イナンナ: 気付いたところでもう遅い! 地の底で後悔するがいいわ――弾けろっ!! 人間さん: な、なんだっ……!? (地鳴りとともに、次々と爆音が聞こえる。これはまさか。) オーディン: 地下……!?足元で爆発が起きているようです……っ アプスー: ティアマト、危ないっ ティアマト: アタシは大丈夫!アプスー、伏せてっ! (すさまじい爆発が次々と発生する。 なんとか身をかがめて爆発が収まるのを待つしか手はないのだが――) 人間さん: まずい、地面が崩れるっ……!? イナンナ: んなーっはっはっは!じゃあわたくしは、このあたりでお暇す…… イナンナ: んごっ!? (俺達を見下ろしたまま、小舟を急旋回させたイナンナは 先ほどの戦いでティアマトが隆起させたままになっていた岩に思い切り直撃し、 ひらひらと墜落していった。) オーディン: えっ……う、嘘でしょう……? こんな術まで使っておいて、まさかの自滅……? 人間さん: いやでも、アプスーに撃墜されてもピンピンしてたし…… それよりいまは、俺達のことだ! アプスー: だ、だめだ、もう足元が持たないよ。範囲が広すぎて、逃げ切れない……! ティアマト: また爆発が来るわ!全員バシュムの影に隠れて!! (次に起きた爆発は、ひときわ大きいものだった。) (同時に、足元が一気に崩れ、身体がふわりと浮く。 それは遥か下方への自由落下だった――) 160011 - 冥界の主 (長い自由落下の最中は、 この後に訪れる全身への衝撃を予想しいよいよかと覚悟していたのだが――) オーディン: 大丈夫ですか、みなさん (地面に到達しようかというとき、強烈な風圧が俺たちの身体を浮かせた。) (それがオーディンのグングニルに秘められた嵐の力だとは 彼女の言葉を聞くまで思い当たりもしなかった。) オーディン: 大丈夫です。わたしにまかせてください ティアマト: ……助かったわ。アタシの力じゃ、どうしようもなかったから アプスー: うん……!ボクが操る水なら衝撃を吸収できるけど、ちょっと近くに水が見当たらないし……。はぁ、やっぱりボクは役に立てないんだね…… ティアマト: そうやって暗い顔しないの。アプスーのすごいところは、他にいっぱいあるでしょ。 ていうか、ここどこ? オーディン: それですよね。いきなり地面が割れて、その後は…… アプスー: たぶん、冥界じゃないかな。噂には聞いたことある ティアマト: この大地の遥か奥深く、地底にあるって言われている……あの冥界? 人間さん: その説明だけで、戻るのにだいぶ苦労しそうで気が滅入るな ティアマト: 確かイナンナが冥界に縁があってどうのこうの……って話を聞いたことがあったわ。 つまり、冥界に落とすのがイナンナの狙いだったんじゃない? アプスー: でも自分もなんか巻き込まれてたよね。 あれ、そういえばイナンナは?まさか地面に叩きつけられて……!? オーディン: 大丈夫です。イナンナさんもちゃんと保護しています。ただ、気を失っているようですね (イナンナの身体が近くの地面に横たえられているのをオーディンが指さした。) (確かに目立った外傷はほとんどない。) (額にちょっとコブができているが、落ちてくる途中でぶつけたのか。) (気を失っているのもそれが原因かもしれない。) ティアマト: とにかく、ここにずっといても仕方ないわ。奥に進んでみない? オーディン: ええ、そうですね 人間さん: じゃあ、悪いけど何か出てきたら戦闘は任せる。俺はこいつを……よいしょっと (ぐったりしたままのイナンナの身体を背負う。) (酔いつぶれた先輩に肩を貸したことはあるが、 意識のない人の身体を背負うのは初めてのことだ。なかなか重い。) ティアマト: 背負っていくわけ? 人間さん: 置いていくわけにもいかないだろ アプスー: やさしいね (そこからの道のりは、ひたすらに岩がちな道が続くばかりだった。) (道ともいえない洞穴だが、足場の悪さ以上に辟易させられたのが――) ティアマト: なんなのよ、もう!キリがないんだけど! オーディン: これは死者の魂……ここが冥界というのは、どうやら本当ですね。 ヘルヘイムに集まるものと、似たような気配があります (無数の魂がまとわりついてきて、思うように進めなくなってしまうのだった。) (相手が魂では、オーディンやティアマトも思うように戦えない。) アプスー: 何か違う方法を考えるべきなのかな……? ???: 亡者たちがうるさいと思ったらお客さんでしたか。うぇるかむ、です ティアマト: あんたは……!? イルカルラ: 冥界の主、イルカルラ。聞いたことあったりしませんか? さあ、久しぶりのお客さんですから歓迎しましょう。にこーっ オーディン: え、えっと……?そう言いながら無表情なのはどうして……? (唐突に現れたその女性はイルカルラと名乗った。) (その名は言わずとしれたメソポタミア神話における冥界の支配者だ。) 人間さん: 助けてくれるのか……? イルカルラ: ええ、地上に戻る道をご案内しましょう。でも、その前にせっかくですから私の城でお茶でもどうですか?れっつ・てぃーたいむ、です アプスー: 信じてもよさそうじゃないかな ティアマト: イルカルラがエンリルに味方してるって話は聞かないし、 やるつもりならとっくに襲ってるはずだし…… イルカルラ: ただし (イルカルラが俺に視線を向ける。) (いや、俺ではなくこれは――) イルカルラ: イナンナ……彼女は以前から何度も冥界に攻撃を仕掛けていた存在。 やすやすと城内に招き入れるわけにもいきません イルカルラ: 彼女はここに捨てていってください。亡者の餌食としますから オーディン: 人間さん、どうしますか……? 人間さん: どうもこうも、怪我してるかもしれない女の子を置いていけないだろ。 亡者の餌食にするって断言されてるんだし ティアマト: だってそいつ、敵よ!? 人間さん: どういう事情で襲ってきたかもわからないんだし アプスー: 人間さん……やっぱり、優しいね イルカルラ: なるほど。なかなか情に厚い方のようですね。わかりました、それでは監視付きにはなりますがイナも城内に招き入れましょう。ただし、少しでもおかしなことをしたら―― イルカルラ: わかっていますよね?というか、起きていますよね、イナ? 人間さん: えっ 160012 - 中立勢力 (イルカルラの言葉と同時に、背負っていたイナがぴくりと動いた。) (どうやら起きているというのは本当のようだ。) イナンナ: ふふっ……バレてしまっては仕方ないわ。 久しぶりね、イルカルラ!我が宿命のライバル! イルカルラ: いいえ、ライバルではありません。早々に冥界から退出してください イナンナ: ちょっとぉ!?あまりにも冷たくない!?ひどいよねっ、ねぇっ 人間さん: えっ、俺に言ってる? イナンナ: 他に誰がいるのよ。あなた、どうやらわたくしの価値を正しく理解しているみたいね。 なかなか見る目があるわ、将来性もありそう 人間さん: はあ イナンナ: いいのよ、可愛がってあげるわ。 さあ、イルカルラを倒して冥界をわたくしのものにするのよ! 人間さん: いや、なに言ってんの? イナンナ: なにって、だってさっきわたくしのこと庇って…… 人間さん: そりゃ怪我人だと思ったからだろ。元気だってわかれば、もう別に…… イナンナ: えっ!! ティアマト: ぶふっ アプスー: だ、だめだよティアマト……笑っちゃ、悪いって……くすくすっ オーディン: 人間さんがそう簡単に好きになると思ったら大間違いですよ イナンナ: なんなのよ、よってたかって!いいわよ、本来の役目をまっとうするだけだわ。まとめてあんたたちのことをぶちのめしてあげる。来なさい、マアンナ! (イナンナは両手を振り上げて叫んだが、何も起きない。) (さっきの崩落で、あの小型の船のようなものは壊れてしまったのだろうか。) イルカルラ: 忘れたのですか、イナンナ。この冥界ではあなただけは力を発揮できません。 私がそのように結界を張っていますからね イナンナ: はっ!そう言えばそうだった! イルカルラ: そうしないと毎日のように現れて本当に邪魔だったので ティアマト: さーて。誰が誰をぶちのめすって? イナンナ: いやーっ!?ねえ、人間さんとか言ったわよね。 助けてっ、ね、ほら、おっぱい揉む? 人間さん: 結構です イナンナ: オニーっ!! (イルカルラはイナンナを除く俺たち全員には親切にしてくれた。) (城へ案内し、お茶やお菓子も出してもてなしてくれたのだった。) (イナンナは目を離せないということで、一緒に連れて来られてはいるがイルカルラに睨まれ、当然お茶もない中で黙って座っている。) オーディン: あ、あの。なんだかティアマトさんのお城と似ていませんか? イルカルラ: そのお城も元は私の支配下にあったものなんです。 冥界の外にもいくつか拠点を持っていまして イルカルラ: ただ、管理しきれなくなって放ったらかしにしていたものもあって。 ティアマトたちが使っているのも、そんな城のひとつです ティアマト: そうだったの!?落ちてたから平気だと思って、勝手に使っちゃってたわ! アプスー: 落ちてた、って……お城だからね、ティアマト。お財布とかじゃないんだよ イルカルラ: 構いませんよ。逆に、お城は要らなくなっても捨てるのがとても難しいものですから。 有効活用してくれているのは助かります オーディン: あの、イルカルラさんはティアマトさんたちの、味方……ですか? ティアマト: そうなの!? イルカルラ: いいえ。私はあくまでも中立ですよ。 地上のことは地上で、冥界とは関係ないものとして捉えています イルカルラ: こうして迷い込んだお客様はちゃんともてなしますし、捨てた城をどう使おうと私は困っていないので抗議もしません。でも、それと味方することとは別です オーディン: その理屈で、相手方は納得してくれるんでしょうか イルカルラ: アヌ様は、私のこういう考え方は理解しているでしょうから。 敵でも味方でもない、と解釈されていると思いますよ 人間さん: そうなんだよな……ここで起きている戦い、 俺たちはティアマト側の一方しか知らないんだよな オーディン: 私のことだって知らなかったじゃないですか 人間さん: だから戦いに発展しちゃっただろ。 なんか、うまく戦いを避けて平和的に解決できたほうがいいんだけどな イルカルラ: なるほど。面白いことを言う人ですね (イルカルラは無表情な顔で、こちらをじっと見つめてくる。) (なんだか居心地が悪くなって、思わず視線を逸らしてしまうのだった。) エンリル: ……ずいぶんもったいぶるのね。それで、いい方法っていうのは? (人気のない路地裏で、エンリルは目の前に現れた女をじっと見つめる。) (なんともつかみどころのない、不思議な女だとエンリルは思った。) (μでもない、信民でもない。) (彼女はなんと形容すべきだろうか……。) 雨依: 私は、雨依。別の世界から来た存在よ エンリル: 別世界……!? 雨依: いい、誰のことも信じてはだめ。常にあなたの周りには、その権力や立場を利用したい人しかいないんだから。絶対に、心を許さないこと エンリル: あなたには何かが見えてるの……? 雨依: それと (雨依はエンリルの問いかけを無視して、にやりと笑う。) 雨依: わけあって表には出られないけど、協力してあげる。きっと、力になれるわ 160013 - 結晶石板 (扉を開けて部屋に入るなり、 エンキの視線が刺さるのを感じエンリルはふと顔をそむけてしまった。) (思わずとった自分の行動に気付き、エンリルは自分の心の内も垣間見る。) エンリル: (ああ、そうか……私は後ろめたいと思っているんだな……。 エンキの顔を正面から見られないくらいに……) エンキ: お姉様、どちらにいらしたんですか? 御姿が見えないということで少々心配しておりましたのに エンリル: ううん、気にしないで。ちょっと夜風に当たってきただけよ。 いくら戦時中とはいっても、こんな城のそばには来ないわ エンキ: だといいのですけど…… お姉様がもしいなくなってしまったら、この戦いはもう維持できませんから エンリル: ……! (エンキの何気ない言葉に、エンリルは心の内を見透かされたようでぎくりとしてしまう。) (しかし、そんな動揺は表には一切出しておらず、エンキも気づいていない。) エンキ: もちろん、戦いが早く終わることには異論はないのですけどね エンリル: それは私だって同じ。 ティアマトとアプスーが折れてさえくれれば、それでいいのだけど…… エンキ: もちろん彼女たちだって戦いたいわけではないはずです。 どこかで折り合えるところが見つかれば進展するかもしれません エンリル: もちろん、その可能性はあるけど…… この戦いは秩序を取り戻す戦いでもあるのは忘れないようにね エンキ: 秩序…… エンリル: 私も長く戦っていると本来の目的を見失いそうになるわ。戦いのための戦いであってはいけない、そう戒めているけど同時に何故戦い始めたのかも忘れてはいけない エンキ: お姉様、アプスーの立ち回りは本当にあんな過激な…… エンリル: その事実を明らかにするためにも、 彼女たちをこの城に引っ張ってこなければならないのよ エンキ: …… (半ば、自らに言い聞かせるかのようにエンリルは静かに言った。) (エンキも強い決意を感じ取ったのか、それ以上は口を開かない。) エンリル: ああ、そうだ。頼まれてほしいのよ エンキ: 私に? (少し重くなった空気を振り払うように、エンリルは努めて明るく切り出した。) エンリル: これをバビロンにいるマルドゥークに届けてもらえない? エンキ: これは……石板……? エンリル: 結晶石板よ (エンキはエンリルから受け取ったそれを丹念に確かめる。) (手触りは従来の石板とあまり変わらず、ざらついた素材に感じられた。) (しかし、見た目は半透明になっていた。) (手をかざしてみると、石板に描かれた紋様などで輪郭に歪みが生じるものの、石板の裏で開いた手の形はしっかり見てとれる。) エンリル: 本来なら、信民から得て私たち自身の身体に溜めておくエネルギーを 石板という形で封じ込めてあるの エンリル: とても貴重なものではあるけど、マルドゥークは最前線でかなり長く戦ってくれているし……役立ててほしいと思って エンキ: わかりました。確かにお預かりしました。 それでは早速、明日にでもバビロンに向けて出発しますね エンリル: ええ、お願いね (中立だからと言いながらも、俺たちをもてなしてくれるイルカルラ。) (その彼女に甘える形で、すっかり城でくつろいでいたのだが。) ティアマト: そう言えば未来が見えるんだっけ? オーディン: ええ、まあ…… (ティアマトのいかにも雑なフリに、この後の展開が予想できてしまったのかオーディンがあまり気乗りしない様子で応じる。) ティアマト: じゃあちょっとアタシたちの戦いの行く末も見てよ。どうやれば勝てるわけ? オーディン: あの……未来視というのは、見たいテーマが選べるわけでもなく、具体的な時系列に沿って見られるわけでもなく、望む結果を引き寄せるのにはまったく使えないんです (普段はおどおどしている態度のオーディンだが、 思いのほか淀みなく自分の能力について補足説明をする。) (もしかすると、これまで何度も繰り返してきたフレーズなのかもしれない。) ティアマト: えー、そうなの?なんか見えるかと思ったのに イナンナ: じゃあ、なんでもいいからちょっと見てみなさいよ。もしかしたら、わたくしが全信民から崇め奉られている様が見えるかもしれないじゃない アプスー: 未来は誰にもわからない、って意味ではそうかもしれないけど…… イナンナ: 引っかかる言い方するわね! イルカルラ: それを言うなら、イナが当然のように会話に参加していることも 私は引っかかっていますよ イナンナ: なんでよ!いいでしょ、お菓子には手を出してないんだから! オーディン: じゃあ、ちょっと見てみますね…… (オーディンは仕方ないといった様子で目を閉じると 集中力を高めるようにゆっくりと深い呼吸を繰り返す。) (やがて――) 160014 - オーディンの見たマルドゥーク (その手に携えた二振りの大槍で、次々に信民たちが倒れていく。) (戦闘に参加している武装した信民だけではない。) (背を向けて逃げ惑う老人や女性、子どもまでもが地に伏していた。) (槍の先端が血に濡れていることに気が付くと、彼女はそばに倒れていたもう動かない子どもをつかむと、その身体ごと先端にこすりつけ、服で血を拭う。) (そして満足げに笑みを浮かべると、 ぼろ布を捨てるように子どもの身体を放り捨て、ゆっくりと構え直した。) ???: さて、再開するか アプスー: マルドゥーク……きみ、狂ってるよ マルドゥーク: 私の何が狂っていると? オーディン: それに気づけないなら重症ですね マルドゥーク: いいからさっさと武器を取るがいい。勝負は、終わっていない オーディン: はあっ!? (目を閉じていたはずのオーディンは、 びくんっと身体を震わせると自分を落ち着かせるかのように胸の前で手を組む。) (唇も微かに震えていて、どうやら不吉なものを見たのだろうとすぐに察せられた。) 人間さん: 大丈夫か。イルカルラ、水をもらってもいいかな イルカルラ: ええ、すぐに用意します (ただ事ではない雰囲気に、ティアマトやイナンナもさすがに口を挟めず、しかし彼女が見た未来は気になるようで、固唾をのんで見守っている。) オーディン: マルドゥーク……というのは、確かバビロンにいる敵方のμ、でしたよね……? ティアマト: あいつのこと見たの?やった!弱点はわかった!? オーディン: それが…… (オーディンは、自身が見た未来視の一部始終を語って聞かせた。) (そのおぞましいまでの戦闘狂っぷりにさすがに俺も顔が引きつる。) 人間さん: 子どもを……?エグすぎないか……? オーディン: そ、そうですよね。わたしも、見ていてこれはひどいと…… 人間さん: そんな未来を迎えるわけにはいかないな。 そんな危ないイカレた奴を野放しにはできないし アプスー: ま、待って。それ本当にマルドゥークだったの? オーディンはマルドゥークの顔は知らないよね オーディン: ええ。ですから本当にマルドゥークだという確証はありません。 でも見た映像の中で名前を呼んでいましたから アプスー: ボクが、だよね……。どういうことなんだろう 人間さん: 呼んでいたなら決まりじゃないのか?何か気になることが? ティアマト: アタシたちが知ってるマルドゥークと、あまりにも違うからよ アプスー: 確かにマルドゥークは強いし、戦闘能力に特化されたμだよ。 でも、だからって信民に対して冷酷ってわけじゃないんだ イナンナ: わたくしも同じ陣営にいる立場として、ちょっと信じられないわ。 そもそも未来が見えるなんて嘘なんじゃないの? 人間さん: おい、言葉に気をつけろよ イナンナ: ひぃんっ!なんかわたくしにだけ当たり強くない!? オーディン: 信じていただけないのも無理はありませんが…… わたしが見たのは事実です。それが真実かはさておきですけど ティアマト: そんな……あのマルドゥークが……? エンキ: 久しぶりですね、マルドゥークさん マルドゥーク: エンキか (エンキが彼女を訪ねたとき、 ちょうど市中の見回りをするというので後をついてきたのだった。) (マルドゥークはぴくりとも表情を動かさずに、エンキの姿をさっと一瞥した。) マルドゥーク: ここは最前線の町だ。お姫様がおいそれと来ていい場所ではない エンキ: お姫様だなんて……私、そんな立場ではありませんよ マルドゥーク: 同じことだろう。エンリルは世界の覇権を握る王。その妹は姫君みたいなものだ エンキ: それより……状況はどうなんでしょうか マルドゥーク: 相変わらず膠着状態……だったが、少々動きがあった エンキ: それは、どんな? マルドゥーク: それは、そちらのほうが把握しているのでは? といっても、エンキ個人は知らない可能性が高いか…… (エンキは居心地悪そうに肩をすくめた。) (マルドゥークが言った通り、エンリルはエンキを大切にはしているが 政治的なことについては蚊帳の外に置きがちだ。) マルドゥーク: イナンナが奇襲をしかけた。しかも、なんだか知らないが大技を発動したらしい エンキ: なるほど…… (最後にあったイナンナの様子を思い出すエンキ。) (確かに、巧を焦って暴走しそうな雰囲気はあった。) マルドゥーク: 結局、何が起きてどういう結果になったのかは、私も把握できていない。 信民たちの斥候部隊ではやはり調査に時間がかかるからな エンキ: かといってマルドゥークさんが行くのは無理ですものね マルドゥーク: ああ。私を釣り出すための罠だという可能性もあるからな エンキ: わかりました。それなら、私が様子を見てきましょう マルドゥーク: ……できるのか エンキ: 私だってμですから マルドゥーク: 無理はしないようにな 160015 - 冥界の奥へ アプスー: ね、ねえ、未来視のことは一旦おいておくとして……そろそろ地上に戻してもらわない? オーディン: そうですね。あまりいない時間が長くなってしまうと そちらの信民たちも心配するでしょうし イナンナ: その言い方、本当にμなのね。 このわたくしが、顔も名前も知らないμがいるなんて、ちっともピンと来ないけど オーディン: ……わ、わたしのこと、なにか、疑ってるんですか……? イナンナ: だって、よくわからない未来視なんて能力を振りかざして、 しかも人間さんには優しくされてるし アプスー: それ、ただのやっかみなんじゃ…… イナンナ: おだまり! ティアマト: ただね、地上に戻る前にちょっと見てみたいものがあるのよね。 せっかくここまで来たんだし ティアマト: 冥界に眠ると言われている『大結晶石版』……あるんでしょう? 案内してもらうわけにはいかないかしら イルカルラ: あれを見たいんですか? 人間さん: ここにしかないもの、か。俺もちょっと興味はあるけど イルカルラ: そうですか。まあ、見るだけなら別に構いませんけど ティアマト: やった! オーディン: なんですか、その大結晶石版というのは ティアマト: 普通、アタシたちが使うエネルギーは信民から、 知らないうちに送られているって言われてるんだけど アプスー: た、たまに、イレギュラーで、結晶化しちゃうものがあるんだ。 それをボクたちは、結晶石版って呼ぶんだけど ティアマト: 大きさもすごいし、もちろんエネルギーも特大…… そんな石版が冥界にあるって伝説があったのよ イルカルラ: じゃあ、さっそく案内しましょうか。 あまり、のんびりしているわけにもいかないんでしょう? エンリル: 失礼します アヌ: ふう……なかなか難しいねぇ、これ。エンリルならできるのかなぁ (手にしている札をぱらり、とめくりため息をつくアヌ。) (彼女は顔も上げずに、部屋に入ってきたエンリルに投げかけた。) エンリル: それは、なんですか? アヌ: 町で売ってたカードゲームだよ。 一人遊びできるっていうから私にちょうどいいかなって思ったんだけどねぇ エンリル: はあ……そうですか アヌ: あ、思ったね?そんなにヒマを持て余してるなら、 自分のことを手伝ってくれればいいのにって エンリル: い、いえ、そんなことは アヌ: 定期報告にかこつけて、そうやって私を咎め立てしたいのかと 思っていたんだけど、違うの~? エンリル: まさか。アヌ様を咎めるなどと、そのようなことは決して アヌ: それで~?進展はあったの? エンリル: ……いえ。ただ、このままにはしておけませんから、 私も違った手を打とうと現在、画策しているところです エンリル: やはり、カギはティアマトとアプスーの関係性ではないかと。戦闘時の連携はもちろんですが、互いに裏切らないと信じる、いわば絆のようなものが…… アヌ: 絆、かぁ…… エンリル: いえ、少々主観的すぎる報告内容でした。 引き続き相手の出方は注視しつつ、この強みを崩す作戦を考えていきたいと思います アヌ: うん、まあ任せるよ エンリル: それでは、失礼します (退出するエンリルの足音を聞きながら、 アヌはまた物憂げな表情でめくったカードを指ではじいた。) アヌ: 絆……ね。私たちも昔はあのふたりみたいに、 ずっと一緒にやってきた相棒だったんだけどね…… アヌ: どこですれ違ってしまったんだろうね……キ…… アプスー: この奥に『大結晶石版』があるの? イルカルラ: 道は複雑です。私から離れないように気をつけてくださいね。 特にイナ、あなたはちょろちょろしそうなので特に イナンナ: あら、私が迷って行倒れにならないか、心配してくれるの? イルカルラ: いえ、迷ったことを口実にして何か盗みそうなので イナンナ: だから私、どんなイメージよ! 人間さん: しかし、結晶石版かぁ。オーディンがいた世界には、そういうものはなかったよな オーディン: さ、探したら見つかるのかも……?考えたこともなかったですから イルカルラ: そうかもしれませんね。一度見つけてしまえば、同じ場所に発生しやすいものですから ティアマト: あ、そうなの?アタシ、あんまりそのへんの仕組みとかよくわかってなかったのよね イルカルラ: 信民から漏れたエネルギーは、何らかの法則で流れていきます。 それが滞留する場所にできやすいんです アプスー: じゃ、じゃあ、冥界もそうなの? イルカルラ: ええ。冥界は特に、集まった魂から漏れていると考えられます。肉体以上に、エネルギーを覆う『殻』が少ないので集まりやすい環境なんですよね イルカルラ: そういう事情ですから、触れたりするのは厳禁ですよ。 純度の高いエネルギー体ですから、何が起こるかわかりません オーディン: な、なるほど……エネルギーといっても度が過ぎれば危険なものになるんですね…… ティアマト: そこまでのエネルギー体……やっぱり見るだけでも見てみたかったのよ イナンナ: なるほどね。やはり冥界を制すれば世界を制する、 というわたくしの考えは間違っていなかったようだわ 人間さん: 本当に口ばっかり大きいなぁ イナンナ: ぐぬぬ…… イルカルラ: さて、ここから先が冥界の最深部です。私がいれば大丈夫だとは思いますが、くれぐれも死者の魂が放つ瘴気にあてられないよう、ご注意くださいね。にこーっ 60091 - はじめてのともだち アプスー: ねえ、ティアマト。どうして急に大結晶石版が見たいなんて言い出したの? きっと何か目的があるんでしょ ティアマト: アプスーには嘘つけないなぁ。ま、つくつもりもないけど (冥界の奥へと進む道中。) (冥界の主であるイルカルラの案内をもってしても、それなりに長い道のりになるとあって、小休止をこまめに挟んでいる。) (そんな休憩時間に、アプスーはティアマトのそばにそっと近寄り、 小声でささやいたのだった。) ティアマト: 結晶石版の情報をもう少し詳しく知りたいのよ。私たちは1枚もそんなもの持ってないけど、地上でも見つけられればかなり有利に戦えるでしょ アプスー: そうだよね。見つけ方とか、探し方とか ティアマト: 作り方とか、ね。ま、それだけじゃなくて、できれば冥界をうまく味方につけたいんだけどね。そしたら戦いもずっと有利になるだろうし アプスー: (……そんなに無理に戦わなくてもいいんだけどなぁ。 でもティアマトがやるって決めてるなら……) アプスー: (ティアマトは本当に、行動力の塊だからボクとは正反対。 初めて出会ったときも、そうだったっけ……) ティアマト: あんた、何してんのよ アプスー: え。なにって、道作ってるんだけど…… (その出会いはアプスーにとって運命的だったとも言える。) (ただ地道に信民たちと少しずつ環境を整えていたアプスーがまったく別の能力のμと出会ったことで国造りは一気に加速した。) ティアマト: へえ、確かにあのあたりは畑にするにはいい場所ね アプスー: え、わかるの……? ティアマト: アタシ、一応こういうことできるくらいだし (ティアマトが地面に手をつくと、その途端、地面が抉れ、 アプスーが掘っていた水路の続きが川のほうへと伸びていった。) アプスー: う、うわ、すごい……キミって、μだよね?こんなことできちゃうんだ…… ティアマト: ティアマトよ アプスー: え? ティアマト: 名前。あんたは? アプスー: あ……ボクは、アプスー…… アプスー: こんなところまで来てどうするの? ティアマト: あんたが言うには信民たちが快適になればアタシたちも エネルギーをたくさん受け取れるって理屈なんでしょ アプスー: う、うん……でも、このあたりには信民のみんなも住んでないよ ティアマト: 住んでいる場所だけが便利になっても広がりがないでしょ アプスー: 広がり…… ティアマト: この山の向こうにも信民たちの住処があるじゃない。えーと、町っていうんだっけ? ティアマト: この険しい山道が歩きやすくなれば、それぞれの交流だってできてくるんじゃないの。穫れる作物も違うんだから、お互いに行き来したほうがお得でしょ アプスー: そ、そっか……すごいや、ボクよりよっぽど信民のことを考えてあげてるんだね ティアマト: べ、別にそんなんじゃないわよ。ただ損得を計算して突き詰めたらこうなった、ってだけ (照れたようにそっぽを向くティアマト。) (その横顔にアプスーは思わず目を奪われていた。) アプスー: (ティアマトはすごいなぁ…… ボクには考えもつかないことをさらっとやっちゃうんだから) アプスー: (信民には興味ないってずっと言ってるけど…… 結果的にはボクよりずっと貢献してるんだもんなぁ……) アプスー: ティアマトのおかげで、みんな喜んでるよ。たくさん供物が届いてた ティアマト: ふうん。じゃあ食べるものには困らないわね (こともなげに言うティアマト。) (信民からの供物は確かに大事な食料源ではある。 でもアプスーは、それがエネルギーとは違って可視化される信頼の証と捉えていた。) (エネルギーという代価があるとは言え、信頼関係を構築したい。) (お互いに必要として存在し続ける、それが彼女の理想だった。) アプスー: (どうなんだろう……信民のことを考えているようで、 どこか冷めていて……ティアマトはどう考えてるのかな) アプスー: ティアマトって……あんまり信民に興味ないよね ティアマト: そう?別に興味がないわけじゃないんだけど…… あいつらを充実させてやるのは、手段でしかないっていうか アプスー: 手段…… ティアマト: 言葉が悪かったかしら。別に雑に扱うつもりはないのよ。アタシなりに大事にしてるわ。ただ……最終的に見たいのは、アプスーが喜んでるところだし アプスー: え、ボク……? (予想しなかった言葉にアプスーは思わずオウム返しする。) ティアマト: あんたが喜んでると、なんかうまくいってるなぁって実感するの。 信民が喜ぶとあんたは嬉しそうだから、それでね アプスー: そ、そうなんだ……う、うん、うれしい、よ…… アプスー: (そっか……ティアマトが一番見ているのはボク、なんだ…… ボクが信民を大切にしているから、それで……) (厳密に言えば、ふたりは同じ方向を向いているわけではなかった。) (理念に完全に共感しているわけでもなかった。) (でも、たとえ考えが少々違っても手を取り合って協力できる。) (アプスーは思った。) アプスー: (これが友達、ってことなんだ……きっと) 60092 - ヒーローみたいに (それは、あまりにも唐突だった。) アプスー: えっ……は、反乱?ボクが? 兵士: そ……そうです……っ。 こ、こ、これは、エンリル様が既に、命令されていることでっ……! (事実を伝える兵士の身体は小刻みに震えていた。) (信民の立場でμと対決することがどれほどの恐怖なのか。) (アプスーは考えたこともなかったが、目の当たりにするとあまりにも気の毒に思えた。) マルドゥーク: そういうわけだ。私も貴方に恨みはないが、自分の仕事をまっとうしなくてはいけない アプスー: うん…… (もちろん信民だけで取り押さえにくるはずはない。) (戦神とも評される武闘派のマルドゥークが後に控えていた。) (そんな心強い援護があってもなお、アプスーと相対するのに膝が笑う。) (それが信民から見たμなのだなと、彼女は初めて知った。) アプスー: (そっか……μって怖い存在、なのかな……。 自分たちよりずっと力があるんだもんね……) アプスー: ねえ、待ってよ。ボクがそんなことするはずないって、 みんな想像つくんじゃないのかな。どうして? マルドゥーク: そう言われても、私たちは判断する役割にないからな。 申し開きなら、この後エンリルに直接すればいい アプスー: う……うん…… (アプスーは一瞬だけためらった後、 素直に兵士たちに従い牢獄へ続く道へと自ら足を進めた。) (戦闘に特化した能力を持つマルドゥークを相手に戦える自信はないし戦闘になってしまったら兵士たちを傷つけるかもしれない。) (それは本意ではなかった。) (だが……申し開きどころか、 エンリルの顔を見ることすらかなわずアプスーは牢獄に閉じ込められていた。) アプスー: (いまは忙しいだけかも……。落ち着いたらきっと話を聞いてくれるはず……) (確かに直近では、方向性の違いを如実に感じる機会が多かった。) (とはいえ、信民を幸福にすることで自らも潤う、 そういった活動に共感してくれた仲間だ。) (きっと話せば分かってくれる。) (アプスーはそう自分に言い聞かせていた。) アプスー: (ティアマトは……心配してるのかな……) (ティアマトのことを考えながら、本当は心配しているのは自分自身なのだと気づく。) (こうして囚われて、自分が今後どうなってしまうのか。) (まったく先行きが見えない状況に不安を感じるのは当然だった。) アプスー: (ボクは……このまま世界からいなくなってしまうんだろうか) アプスー: わっ……!?な、なに……?何が起きてるの……? ティアマト: アプスー! アプスー: ティアマト!?どうしてここに…… ティアマト: 話は後。まずはここから出るのよ アプスー: でも…… ティアマト: アタシを信じて。あんたのことは必ず守るから (アプスーはいつかと同じように、彼女の横顔に見とれていた。) アプスー: (ティアマトはすごいや……ボクの、ヒーローみたいだ……!) (結局、逃げ続けたふたりは冥界に近い城にまで逃げ続けることとなった。) ティアマト: さあ、まずは片付けから始めるわよ。忙しくなるわね! (ティアマトは張り切っている。エンリルたちに復讐するのだと息巻いているのだった。) (一方のアプスーは、この段階でもまだエンリルたちに憎しみはなかった。) (もちろん生来の彼女の性格も理由のひとつだ。) (しかし……。) アプスー: (あまりにも対応が早すぎる。あんなに大きな組織になったのに、ボクを捕まえるところから、逃げたときに追いかけるまでも……) アプスー: (それに、ティアマトによればボクたちの会話を誤解してそれで反乱の疑惑が出てきたって話だったけど……あまりにも雑すぎる気がする) アプスー: (本当に起きているのは何なのか……ちゃんと調べないと) 人間さん: アプスー?ぼーっとしてどうしたんだ? アプスー: え?あ、ううん。なんでもないよ。お兄さん、何かボクに用? (冥界の奥にあるという大結晶石版を求めて進む道中、 俺達は何度目かの休憩をとっていた。) (そこでアプスーがひとりたたずんでぼんやりしていたので、 伝えたいこともあったので声をかけたのだった。) アプスー: 伝えたいって、ボクなんかに何か言っても役に立てないよ 人間さん: そんなに卑下するなって。でもまあ、お願いごとじゃなくてさ 人間さん: たぶんアプスーは、ティアマトがノリノリだから任せてるんだろ? エンリルたちと戦うのかどうかを アプスー: え……う、えっと、それは 人間さん: でもティアマトはきっとアプスーのために戦ってる。ティアマトが納得するまで戦えばいい、なんてアプスーが考えてたらあいつは報われないぞ アプスー: ……! 人間さん: だから……アプスーはちゃんと、自分の気持ちを大切にしたほうがいい アプスー: 自分の……気持ち…… 60093 - 大結晶石板 (ティアマトの居城から少しばかり離れたその場所には巨大な穴が口を開けていた。) エンキ: これは……!? (穴周辺を信民が数名、警戒にあたっているもののこちらには気づいていないようだ。) エンキ: イナンナさんが何かやらかしたって話でしたけど…… (穴を覗き込むと、かなり深い穴のようで底はまったく見えない。) (真っ暗な闇だけがそこにはあった。) エンキ: 周りにμがいる気配はありませんね。イナンナさんも含め、 この穴に落下したとみるべきでしょうか エンキ: 偶然にも地盤が脆弱で、イナンナさんの大技に耐えきれなかった……といったところでしょうね。まさか自分からこんな穴を開けて飛び込むはずがないですし (エンキはほんのわずか黙考したが、すぐに穴に近づいた。) エンキ: 虎穴に入らずんば虎子を得ず…… この穴の中に入らなくては調査をしたことにはならないでしょう エンキ: それに……いざとなれば、私にはこのメがありますからね…… (エンキは深く息を吸い込むと、穴に向かって躊躇なく飛び降りた。) イルカルラ: もう少しで最深部に到達しますからね。にこーっ (まったく表情を変えないイルカルラが、 おそらくにこやかな笑みのつもりでこちらを振り返って案内してくれる。) 人間さん: (敵意がないことはわかってるんだが、まだちょっと慣れないな……) オーディン: 人間さん……もしかしてですけど、そ、その……結晶石板に、も、元の世界に帰る手がかりがあるんじゃないか、とかか、考えてたりしますか……? 人間さん: あくまで可能性だけどな。でも何がどう作用するかわからないから、 珍しいものは一通り見ておきたいと思って オーディン: そ、そうですよね…… 人間さん: 別に、すぐ帰ろうとしてるわけじゃないよ。だから、そんな顔はしないでくれ オーディン: え……あ、いえっ、わたし、そんなつもりじゃ…… 人間さん: それに、手がかりがある気配がする場所は、 もし同じ情報を得ていれば雨依も同じように考えるだろうから オーディン: あ……そうか、雨依さんが…… 人間さん: イルカルラの様子からしても、地形的にも、 雨依がここに既に辿り着いている可能性はかなり低いけどな オーディン: そうですね……わたしも、雨依さんには会わなくちゃ…… イルカルラ: お待たせしました。こちらですよ イナンナ: お、おおっ、これが!?ものすごく大きいのね!想像してた通り……ふぎゃっ!? (石板に向かって走り出そうとしたイナンナが思いきりすっ転ぶ。) (見ればイルカルラが足を出していた。) イルカルラ: イナは近づかないようにお願いしますね。あなたのその光輝なパワーとかで近づかれるとなんとなく石板に汚れがつく気がしますので イナンナ: あんまりだわ!そうでしょ、人間さんっ 人間さん: なんで俺に振るんだよ……。いや言い方キツいなとは思うけど、イルカルラもイナンナだけにだし、きっとふたりにしかわからない歴史があるんだろうから…… イルカルラ: その通りです。イナにこれまでどれほどの手間をかけさせられたか。 例のあの岩盤を砕くのも、今回で5回目ですよ ティアマト: え?じゃああの大穴、初めてじゃないってこと?でも塞がってたわよ イルカルラ: 私が塞いだんです。時間をかけて、手間をかけて、エネルギーをかけて。 わかりますよね?おこです アプスー: そりゃあこういう対応にもなるよ…… ティアマト: あんたが悪い イナンナ: わたくしの冥界侵入チャレンジはもはやライフワークなのよ! (騒がしいイナンナたちを横目に見ながら、俺は目のまえにそびえる巨大な壁を見上げる。) (洞窟の終点である壁面こそが、巨大な結晶石板ということのようだ。) (薄ピンク色に濁った半透明の壁面は、明らかに他とは違う。) (それに、そこはかとなくエルマイトに似た気配を感じる。) オーディン: これが大結晶石板…… (いつの間にかオーディンも隣に立って、同じように眺めていた。) (と、そこで急に金属音が鳴り響いた。) ティアマト: ――っ!?な、なんの音!? イルカルラ: これは侵入者があった報せです……! アプスー: あ……そっか、穴が開いたままだから、誰か入ってきちゃったのかも。 心配した信民が勇気を出して、とか…… イルカルラ: いいえ。普通なら冥界に入り込んだ時点で死者の魂に取り囲まれてしまい動けなくなります。これは、対象者がそれをくぐりぬけて城に近づいている報せです オーディン: ということは、つまり…… イルカルラ: ええ。侵入者は、μです ティアマト: まさかマルドゥークが追って来たとか? アプスー: マルドゥーク……こんなところまで追ってくるなんて……。 まさか本当に未来視の通りに、おかしくなってるんじゃ……? 60094 - アプスーの決意 (響く金属音がわずかに音が変わったように感じる。) (半音高くなったような……。) (それをイルカルラに聞くと、彼女は表情を変えずにうなずいた。) イルカルラ: ええ。この報せは冥界に住む魂たちによって行われています。青銅製のシンバルを叩き鳴らしているのですが、城からの距離によって音程を変えています 人間さん: じゃあ、音が高くなってるってことは…… ティアマト: 確実に近づいてきてるってことね……! (身構えるオーディンとティアマト。) (この冥界の主であるイルカルラも、相変わらず表情は動かないもののどこか 緊張感を漂わせているように思えた。) (中立を唱えているとはいえ、それはイルカルラの主張にすぎない。) (エンリル側からすれば中立勢力を攻撃してはいけない理由はないし何よりいまのこの状況が中立を保っているとも言い難い。) 人間さん: (俺たちが甘えて世話になってしまったことで、イルカルラのピンチを招いている……。ここは責任を持って彼女を守らなくては) (親切にしてくれたイルカルラへの心情は当然ながら、戦略的にもここは退けない。ここで撤退したら二度とティアマトたちに味方するμは出てこないだろう。) オーディン: 人間さん、エルマイトをお願いしていいですか 人間さん: ああ、もちろん (オーディンも、既に戦闘モードになっているようで、口調や態度も変化していた。) (彼女の手を取り、俺はできる限りのエルマイトを込めていく。) 人間さん: ティアマトと、アプスーも ティアマト: ……まだあんたのこと信用するって決めたわけじゃないけど。 そういうつまんない意地張ってる場合じゃなさそうだから (ティアマトもマルドゥークを警戒しているのだろう。) (こちらに差し出した手を、うなずきながら握り返す。) ティアマト: ……!アプスーも言ってたけど、これって本当に……あたしたちが使えるエネルギーになってるみたいね……。なんとなく、感じるわ (μたちの感覚はこちらにはわからないが、 渡した時点で何らかの判別はつくものだと聞いていた。) (それはこの世界でも同じようだった。) オーディン: それでティアマトさん、勝算は ティアマト: さあね……普段通りなら五分の戦いになるところだけど、 もしあんたの予知みたいに、おかしくなっているのだとしたら…… 人間さん: アプスー? (立ち尽くしたまま動かず、何か考えを巡らせている様子のアプスー。) (声をかけても、彼女は顔を上げずに考え込んだままだった。) アプスー: (このままで……いいのかな……。マルドゥークはすごく強い。もしかしたらティアマトが怪我しちゃうかも……ううん、怪我で済まなかったら……?) アプスー: (でも……もし降参するっていっても、オーディンが見たように何かの理由で暴走状態みたくなってたら、たぶん意味がない。だったら倒すほうが確実に安全なのかも……) 人間さん: どうかしたのか、アプスー アプスー: ……ボク、やらなくちゃ (アプスーはようやく顔を上げたかと思うと、俺の手をぎゅっと握った。) (彼女もエルマイトを必要としている、つまり戦線に立つつもりなのだろう。) ティアマト: 無理しなくていいわよ。アプスーは戦闘向きの能力じゃないんだし アプスー: そうかもしれない。けど、黙って見ているのは嫌なんだ オーディン: アプスーさん…… アプスー: 未来を変える余地はあるんでしょ?ボク、戦うよ。ティアマトを傷つけさせはしない アプスー: いつだってティアマトは、ボクのことを助けてくれた。カッコいい、ヒーローみたいな存在だったけど……ボクだって守られてばかりじゃだめなんだ。だって (アプスーはティアマトに向かって微笑みかける。) (少なからず慣れない戦闘に際して恐怖や緊張がないはずはないのに、 それはとても柔らかい表情で。) アプスー: ティアマトは、ボクの友達だから オーディン: 素敵ですね、おふたりとも ティアマト: んなっ……ば、ばか、みんなが見てる前で何をそんな恥ずかしいことを イナンナ: 見てる前って、ふたりきりならいいってわけ?なんだかいかがわしい気配を感じるわね イルカルラ: いい場面なのに最低なことを言いますね。さすがイナ、品性の欠片もありません イナンナ: だから何で1回ずつオーバーキルしてくるのよ! 人間さん: よし、それじゃアプスー、いくぞ! アプスー: うん! アプスー: んぅあっ!?う、ああああっ!! 人間さん: !? (しまった、目の前でエモい会話が展開されてしまったせいで、 つい力が入りすぎてしまったのかもしれない。) (エルマイトの受け渡し自体は初じゃないというのも油断した原因か。) (しかし、一気に注入したからといって、こんな反応になるとは……?) イルカルラ: な、なんてことでしょう……!こ、これは……!? (イルカルラが背後を振り返って声を上げる。) (洞窟の入り口側を警戒していた俺たちにとっての背後、 それはつまり最奥部にある大結晶石板――) イルカルラ: 石板と、共鳴しています――! 60095 - イルカルラの試験 (揺れと同時に、キィンという高音が耳を貫く。) (不快さに顔を歪めるが、どうやら俺とアプスーしか聞こえていないようだ。) ティアマト: ちょ、ちょっとどうなってるのよ イルカルラ: 人間さんのエネルギーと結晶石板が共鳴しているようです。でも、こんなこと初めてでどうしていいか……あせあせ (しかし、共鳴している当人だからわかるのだろうか、 振動は少しずつ落ち着いてきている気がした。) 人間さん: アプスー、身体は平気か? アプスー: うん、たぶん大丈夫だと思う オーディン: 誰か、来ます。ティアマトさん、アプスーさん、警戒を イナンナ: ふふん、わたくしの力は借りないつもりかしら。 いまなら土下座して足を舐めるなら手伝ってあげなくもないけど ティアマト: え、あれは…… (通路から姿を見せたのは、穏やかな顔つきの女性だった。) (戦闘特化にはあまり見えない……とティアマトの顔色を窺う。) アプスー: あれはエンキだよ。どうしてエンキがここに……? ティアマト: エンキ!あなたひとり!? エンキ: ええ、そうよ。待って、武器を下ろして。私は戦うつもりはないわ イルカルラ: なるほど、納得しました。力押しで霊を退けたのかと思いましたが、 どうやらエンキさんのメを使われたのでしょう エンキ: いきなり立ち入ってしまって申し訳ありません、イルカルラさん。どうしても大穴の中と、皆さんの所在を確かめなくてはいけなくて オーディン: どうやら本当に戦うつもりはなさそうですね。敵意は感じません (しばらく様子を見ていたオーディンも、槍を下ろした。) (確かに、油断させて不意打ちするつもりにしても、 既にいくつかチャンスはあったはずだが、彼女は何もしていない。) ティアマト: 信用していいと思うわ。アプスーが捕まったときも、エンキが一番、 理性的だったし止めてくれようとしていたのを覚えてる アプスー: そうだったんだ。確かに、あんまり争ったりするの好きじゃないもんね イナンナ: な、なにやってんのよ!わたくしはがんばって戦ったというのに、こんな扱いを受けてるのよ!?エンキっ、わたくしのために戦おうという気はないのっ エンキ: すみません、戦うつもりはないんです イナンナ: んなーっ!? 人間さん: こんな扱いっていうけど、さっき力を貸してやるから靴なめろとか すごい態度だった気がするんだが…… イナンナ: それは忘却の彼方に飛ばしてちょうだい! ティアマト: 様子を見に来たっていうのは、エンリルに言われて? エンキ: いえ、お姉様にはマルドゥークさんへの届け物を頼まれただけです。そこで、バビロンを離れられないというので代わりに偵察に来まして イルカルラ: そういうことなら安心しました。ほーっ オーディン: では、そろそろ本当に地上に戻ったほうがいいのではありませんか?今回来られたエンキさんがたまたま穏健派でいらしたからよかったですが ティアマト: そうね。マルドゥークが穴を気にしているのは事実なんだし アプスー: ティアマトならすぐに穴を塞げると思うよ イルカルラ: それはとても助かります。ありがとうございます、にっこにこ イルカルラ: ただし……このまま帰すわけにはいかなくなってしまいました ティアマト: は?なんでよ。大丈夫、イナンナならちゃんと置いていくわ イルカルラ: いえ、要らないですけど イナンナ: なんで全員わたくしの扱いが悪いわけーっ!? アプスー: じゃあ、どうして?さっきはいいって言ってたのに イルカルラ: 先ほどと状況が少々変わってしまいました。すなわち…… (イルカルラは真っすぐにアプスーを指した。) (当のアプスーは予想していなかったらしく、目を白黒させている。) アプスー: ええっ、ごめんなさい、ボクなにか粗相した!? イルカルラ: いえ、そうではなく―― 人間さん: 結晶と共鳴してしまったから、か イルカルラ: ご名答です。冥界の結晶の力を地上に持ち帰ってしまうことになります。もし、それがコントロールできずに暴走してしまったら…… イルカルラ: 冥界の主として見逃すわけにはいきません。 私の責任において、きちんと管理しなくてはいけないんです。きりっ ティアマト: 微妙にそれ、緊張感がなくなるんだよね アプスー: でも力を返すなんてできないよ イルカルラ: 承知しています。ですから、コントロールできることを証明してください (イルカルラの目が細くなり、周囲には大量の霊魂が集まってくる。) (どうやらこれが彼女の戦闘態勢のようだ。) イルカルラ: 先ほど見せておられた覚悟を、ほんの少し私にも教えていただければ それで問題ありません。さあ、いつでもどうぞ アプスー: ……そう、だね。考えたら返すわけにもいかないんだ。 未来視のことは何も解決していないし、ボクはティアマトを守るんだから アプスー: それじゃあ、行くよ……イルカルラ……っ! 160016 - 譲れない イルカルラ: ………… アプスー: こ、これで……信用してもらえる、かな……? イルカルラ: いいでしょう。 あなたならその力を持ち帰っても、制御できると判断しました。にこーっ (俺からエルマイトを受け取った影響なのか、大結晶石版と共鳴してしまったアプスー。) (冥界から地上に戻るにあたり、 その安全性を確かめるためにイルカルラに試されることになったのだが……) (どうやらお墨付きをもらえたようだ。) イルカルラ: ただ、私は皆さんに協力したわけではありません。 大結晶石版と共鳴してしまったのはあくまでも偶然です ティアマト: それはもちろん、わかってるわよ。 アプスーだって狙って共鳴させたわけじゃないんだから イルカルラ: その通りです。冥界側として特にマイナスはないので、通行を許可したに過ぎません オーディン: お城では結構、お茶も出してくれて親切だったのに…… なんだか急に冷たくなりましたね…… 人間さん: 冥界は中立、っていうのはずっと強調してたからな。立場っていうのがあるんだろう アプスー: あ、あの……大丈夫だよ。わかってるから、ね イルカルラ: エンキも、いいですね? エンキ: え、ええ…… イルカルラ: まず、無断でエンキが冥界に侵入したことが、 間接的にアプスーの共鳴につながっているのですから エンキ: わ、わかっています。お姉様にもそのように報告しますから イルカルラ: なら、安心ですね。にこーっ オーディン: 無表情なイルカルラさんに言われると、かなりの圧ですね…… イルカルラ: ふと思ったのですが、完全なる中立地の冥界で、 両陣営の関係者が顔を合わせたわけですよね ティアマト: まあ、そういうことになるわね イルカルラ: これを機会に仲直りというのはいかがでしょう? ティアマト: は……? イルカルラ: もちろん、いきなり全面解決というわけにもいかないでしょう。 ですからまずは、お互いに対話を試みるところから始めては エンキ: あ……!そ、そうですよね、私もそれが―― ティアマト: ありえないんだけど エンキ: ……! イルカルラ: だめ、ですか? ティアマト: 自分たちが何をしたのか考えてよね。アプスーを無実の罪で叩きだしたくせに! アプスー: ティアマト…… ティアマト: この場は見逃してやろうと思ってたけど……やっぱり気が変わったわ。 いますぐここで叩きのめしてやる ティアマト: あんたたちがやったことの重みを実感するといいわ エンキ: そんな…… イルカルラ: そこまでです ティアマト: なっ……!?私の力が……? イルカルラ: ちゃんとお返ししていますよ。盗ったりしていません。 放出していたエネルギーを元に戻しただけです イルカルラ: お話合いが無理なのはわかりましたけど、 この冥界で、ケンカすることは許しませんよ。ぷんぷん アプスー: だ、だめだよ……冥界の中では、イルカルラはどんなことでも できちゃうって話なんだから……か、かないっこない…… オーディン: どんなことでも……!?なるほど、場所の制約がある分、 能力は強力、ということでバランスがとれているのでしょうか…… アプスー: それに……ボクのために怒ってくれるのは嬉しいけど、事情も聞かずに攻撃しちゃだめ ティアマト: アプスー……わかったわよ、いきなり攻撃したりはしないわ。 でも、話し合うというからには、それなりに用意はしてもらわないとね エンキ: 用意って……何をすれば……? ティアマト: まず謝罪でしょ。悪いことしたんだから。じゃなきゃ話し合いにならないわ 人間さん: (ティアマトの言っていることはもっともだけど…… これは解決までの道のりは遠そうな雰囲気だな……) イナンナ: なんなの、ティアマトってやつは……。 話し合おうって言ってんのに攻撃するとか、どんな戦闘民族なのよ…… オーディン: い、いきなり変な船で突っ込んできたのはイナンナさんですよ…… よく、そ、そんなこと言えますね……? 160017 - 自分の意志 イルカルラ: ティアマトはあまりにも前のめりだと思いますが、しかし……私も冥界の主として聞いておきたいです。エンキはここに、一体何をしにきたんです?はてな? エンキ: 私はただ、何か妙なことが起きているようだと聞いたので確かめに来たのです。 そうしたら、大穴が開いていたので入ってみようかと…… イルカルラ: なるほど。つまり、結論としてはイナンナが悪いと イナンナ: その結論に到達するの早すぎない!? ティアマト: じゃあ何、アタシたちを追いかけてきたわけじゃないってこと? エンキ: ええ。あくまでも様子を見に……大げさに言っても偵察です。 それに、私はそもそも戦うつもりはありません ティアマト: あなたのその言葉を信じろって? アプスー: ティアマト、またケンカ腰になってる ティアマト: うっ…… エンキ: というか、あの……ここに来てからずっと気になってるんですが、 あなたたちはいったい…… 人間さん: あっ オーディン: で、ですよね……私たちもいつ、自己紹介したらいいかタイミングがつかめなくて…… イルカルラ: 立ち話もなんですし、よかったら私の城でお茶でも飲みませんか。 でないと人間さんたちの自己紹介もできませんし ティアマト: そ、そう……?なんか着々と話し合いのテーブルにつかされてる気がするけど…… イルカルラ: 気にしない、気にしない。にこーっ (城についてイルカルラが淹れてくれたお茶を飲みながら、 俺とオーディンはそれぞれの身の上を語った。) (当然、すぐに受け入れられるような内容ではなかったが、 エンキは一応納得してくれたようだ。) エンキ: なるほど、別の世界……ですか ティアマト: 細かい理屈はよくわからないけど、ふたりともかなり使える連中なの。 あんたたちとの戦いでも十分な戦力になるはずよ オーディン: え……ティアマトさん、わ、私たちのこと、そんなふうに評価して…… 人間さん: なんだかちょっとくすぐったいな…… ティアマト: ば、バカじゃないの、評価とかそういうんじゃないから! だいたい捕虜なんだから、それを忘れないで! イナンナ: というか、人間さんとオーディンの反応がもう、ポジティブすぎてちょっと恐怖だったわ……。絶対いまのティアマトの発言、くすぐったくないからね……? イルカルラ: 戦いとは言いますが……エンキは、さっき話し合いに乗り気でしたね。 実はエンリル様の陣営は和平に傾いているとか? エンキ: あ……いえ……それは、私個人の意思なんです (エンキは目を伏せ、そして心底申し訳なさそうに訥々と語った。) エンキ: アプスーさんのこと、私はお姉様たちの誤解だったと思っています。 ただ、説得するほどの根拠も持っていません アプスー: ボクのこと……疑ってない人も、いたんだ…… エンキ: ただ、お姉様も悪意はないのです。本当に反乱を企てたと信じて行動していて、 計略を用いて陥れるとか、そんな姉ではないのです エンキ: とはいえ……一切、聞く耳も持たずに戦争状態になってしまったのは お姉様の落ち度だと思っています。申し訳ありません (殊勝に頭を下げるエンキの姿に、さすがにティアマトも追い打ちはかけない。) (誰もが黙ってその様子を見つめていた。) 人間さん: (ただ……エンキが言うように、アプスーが無実だという証拠が、本当にないのだとしたら……どうやってエンリルを軟化させるか……) (アプスーが無実だという前提には立とうと思う。) (彼女の人柄は実際に接して、とてもそんな欲があるようには思えない。) (そして誤解なのだとすれば、 エンキの話を聞く限りではエンリルも非を認め謝罪してくれそうな気配はある。) (だとすればティアマトも、それ以上は強情を張らないだろう。) オーディン: あの……人間さん、も、もしかしてですけど…… この戦争、終わらせようとか、あの、か、考えてます……? 人間さん: 終わらせようとまで言うと何様って感じだけど、 力になれることがないかな、とは思ってるよ オーディン: ふふっ……人間さんらしいです ティアマト: あのね、エンキ。あんたに謝ってもらってもしょうがないのよ エンキ: わかっています。私から、お姉様に話し合いができるように取り次いでみます ティアマト: だから!話し合いなんて、もう…… アプスー: あ…… 人間さん: たぶんアプスーは、ティアマトがノリノリだから任せてるんだろ? エンリルたちと戦うのかどうかを アプスー: え……う、えっと、それは 人間さん: でもティアマトはきっとアプスーのために戦ってる。ティアマトが納得するまで戦えばいい、なんてアプスーが考えてたらあいつは報われないぞ アプスー: ……! 人間さん: だから……アプスーはちゃんと、自分の気持ちを大切にしたほうがいい アプスー: 自分の……気持ち…… アプスー: ティアマト……ボクね、ティアマトが戦いたいならいいんだ。 でも、もしボクのために怒ってくれてるんなら、それは……やめてほしいな ティアマト: ……! アプスー: どう、かな……? ティアマト: そ、そう……アプスーが、そう言うなら、アタシもまあ…… 話し合ってやらなくもない、けど…… 160018 - 市井の声 (エンリルの居城近くにある町で、彼女たちは買い物をして回っていた。) (女ふたりともなれば、華やかな商品を手にかしましくも楽しんでいる――) (というわけでもなく、淡々と日用品を購入している。) 雨依: じゃあ、あとあれを ???: まだ買うのですか 雨依: 買えるうちに買っておくのよ。 いまは現金が手元にあるけど、いつ誰に奪われるかわからないわ ???: そんなに治安の悪い町ではありませんよ、ここは 雨依: そうやって油断して、私がこれまで何回傷ついてきたと思う?3つ……ううん、今回で4つめの世界だけど、ひどい目にまだ遭ってないのはこの世界だけなのよ 雨依: 私に言わせればここだって、他と大差ないわ。ただ単に、私が自分の能力を使いこなせるようになったから騙されたり襲われたりしないだけ ???: その、なんというか……苦労をされてきたんですね 雨依: 苦労、ね。そんな一言でまとめられるのは納得いかないけど。それより、ほら (不毛なやり取りの後、雨依は顎で方向を示す。) (そこには噂話をかわす町の信民たちの姿があった。) 信民1: 大丈夫かい、だいぶ疲れてるみたいだけど 信民2: どこも人手不足だからしょうがないさ。戦争がこうまで長引いちゃあな ???: ……! 信民1: まあな。μの皆さんもそっちにかかりっきりだからか、恩恵も少ないというか…… 我々の問題に割く時間がないんだろうな 信民2: なんというか……このままでいいのか、とか考えちまうな。 まあ俺たちにできることなんて何もないけど…… 信民3: 噂じゃ、敵軍のほうが潤ってるって話だけどね 信民1: おいおい、めったなことを言うもんじゃない ???: ………… 信民3: 冗談だよ。第一、最近はエンリル様自ら出陣して魔物討伐をしてくれてるじゃないか 信民2: あ、確かに一昨日もあったよな。 しかし、なんだろうな、あの正体不明の見たこともない魔物は…… 雨依: そろそろいいでしょ。私の拠点に、買ったものを運ぶわ。手伝って ???: あ、はい…… (町外れの粗末な小屋に入るなり、雨依は傍らの彼女に向き直る。) ???: …… エンリル: ……不思議な術ですね。姿を変えられるなんて 雨依: そうじゃないわ。あなたは変わってないの。周りの見る目を変えただけよ 雨依: それより、わかったでしょう? エンリル: ……正直、信民たちの心があそこまで離れているとは、予想していませんでした 雨依: 信民たちを助け発展することでμは力を得る……アプスーが見つけた仮説、あなたも信じてるんでしょ?その割には扱いが雑だったみたいね エンリル: 永遠に発展することなどできません。ここまで栄えたのだから十分だと思っていました 雨依: 発展というか、助けるってほうにウェイトがあるのよ。悩みは尽きないわけだから エンリル: 貴方は何故……μでもないのに、そんなことを? いえ、そもそも信民でもない、異質な存在なわけですが…… 雨依: 異質だなんて人に面と向かって言うことじゃないわよ エンリル: あ、いえ……失礼 雨依: で?私への信用はどう?少しは話を聞く気になった? エンリル: 信用、ですか 雨依: 私が召喚した魔物をあなたが倒す……。 それによって信民たちの信頼を得る、私の言った通りだったでしょう? エンリル: 疑ってなどいませんよ。そもそも、もう貴方の言う通りに行動してしまったのですから 信用も何も、いまさら引き返せません 雨依: そう?にしても、よく突然出てきた私の話なんか聞く気になったわね。 これ以外にもいくつか信用を得る方法は考えてあったんだけど エンリル: 一目見て、信民でもμでもない異質な存在だとはわかりました。 たとえ毒であろうとも、食らわねば先に進めないだろうと…… 雨依: 覚悟を決めたってわけね。まあいいわ、後悔はさせないつもりよ エンリル: ……読めないのは、あなたの目的です 雨依: 目的……。さあ、何かしらね エンリル: 教えてもらえるとは思っていませんが 雨依: ……というより、私って目的がどうとか考えたことないかも。 東京にいたときからずっと…… エンリル: ……? 雨依: それより、次の作戦に移りましょ 160019 - 不退転の決意 (エンリルが執務室で書類仕事に没頭していると、ノックと同時に扉が開いた。) (これではノックの意味がない。) (そんな不遜な態度を、王たるエンリルに取るのはただひとり――) エンリル: アヌ様 アヌ: やー、元気ぃ~? エンリル: 疲れてはいますが、ケガも病気もしていませんから…… 元気、ということになるのでしょうか アヌ: 疲れてるんだ?忙しいのかな エンリル: ご覧の通りですよ。しかし、アヌ様から来られるなんて珍しいですね。 どういったご用向きですか? アヌ: いやー、ちょっと心配しちゃったんだよね。ほら、いつも定期報告に来てくれるじゃない エンリル: ああ……失礼しました。ちょっと立て込んでいたもので。 それに、取り立ててご報告するべきこともなく アヌ: 報告は別になくてもいいんだけどさ。私も自分でそう言ったし。 でもほら、話し相手にはなってくれないと寂しいでしょ? エンリル: 申し訳ありません アヌ: いいの、いいの。責めてるわけじゃないんだよ。 そのポジションが忙しいのは私が一番よく知ってるし エンリル: アヌ様はよく、これをこなしていましたね アヌ: というか、私の頃は拡げていく一方だったからねぇ。 アプスーちゃんたちもいてくれたし…… アヌ: 信民たちを組織化したまではよかったけど、 その歯車にμまで組み込まれちゃったのは、ちょっと誤算だったかなぁ…… エンリル: 歯車、ですか?私でさえも? アヌ: エンリルちゃんがいないと回らないでしょ? 本来なら私たちμはあくせく働く信民をのんびり見守るくらいで良かったのかなって エンリル: アプスーたちとの戦いが終われば、もう少し改善できるかと アヌ: 終わる見込み、ある~? エンリル: 終わらせますよ。やり方は考えてあります アヌ: へえ……ちょっと前まではお手上げだったのに……? エンリル: いま、その準備を進めているところです。 ティアマトさえいなくなれば、戦力は一気にダウンしますから…… アヌ: いなくなれば、って……何か考えがあるんだよね?どうするつもりなの? エンリル: 時がくれば、わかりますよ アヌ: う、うん…… (曖昧にしか答えないエンリル。) (アヌはどことなく不安をおぼえながらも、その場はただうなずくだけだった。) 雨依: ………… (エンリルの居城から少し歩いた、郊外にある森の洞窟。) (雨依は、自ら付けた咬み傷から血が滲むのを見て、指の腹同士を擦り合わせて拭った。) (彼女は、呼び出した魔物2体を使って着実に相手を追いつめる。) 雨依: 変わった見た目をしているのね……? (それは人型をしてはいるものの、頭部は異形だった。) (人の頭ではなく、四角い輪郭に顔部分には大きな一つ目――) 雨依: この世界に来てすぐのときも、私の周りをうろうろしていたわよね。 どこかで見たことがあると思っていたけど、やっとわかったわ 雨依: 監視カメラにそっくりなんだわ。 人の頭部があれにすげ替わったみたいな、グロテスクな見た目…… (彼女が形容した通りの姿をした相手は、目の前に3体。) (既に召喚した魔物2体によって退路は塞がれている。) 雨依: 私の周りをうろうろしながら、襲ってくるでもなく…… 何をしているのかと思ったけど、その答えも出たようね 雨依: 監視カメラみたいなあなたたちが、実際に私の行動を監視していた…… ということなんでしょう? (相手は答えない。ただ、自分たちが危機にあるという認識はあるのか、 魔物を前におろおろとしている。) 雨依: あなたたちの行動、そして見た目から判断すると…… ここで話しかければ、例の誰かさんに伝わると思って良さそうよね (雨依が軽く手を振ると、魔物はそれを合図として、 異形のうち1体の頭をがっしりとつかみ、雨依の目の前につきつける。) (雨依は、彼女の言う監視カメラのレンズ部分に向かって、にっこりと微笑んだ。) 雨依: 協力はするわ。でも…… 雨依: 言いなりになるつもりはないわ (その言葉を残すと、雨依は背を向け指を鳴らす。) (魔物はつかんでいた腕に力を込め、異形の頭は粉々に砕け散った。) (続いて、残り2体も無残に魔物の攻撃に刺し貫かれる。) (それらはすべて、黄色っぽい霧に変化して跡形もなく消えた。) 雨依: (消えた……。生き物ではなく、見た目通りの機械でもない……。 まだ謎は多いみたいね……) 160020 - 訪れた未来 (冥界に続く大穴から地上に出ると、やはり空気が違ったのだなと実感する。) (どんなにもてなされても、冥界は冥界。) (生者が心穏やかに過ごせる場所ではないのかもしれない。) オーディン: あ、あの、大変お世話になりました……! イルカルラ: いえいえ、またいつでも遊びに来てくださいね。 中立ですから、どちらの陣営が来ても歓迎します。にこーっ エンキ: ありがとうございます。ぜひまた伺いますね イナンナ: やれやれ、やっとこれで自由に……んぉっ!? (俺たちに続いて地上に出ようとしたイナンナの身体が、 石化でもしたかのように硬直する。) イナンナ: あ、あれ……?ちょっとイルカルラ?出られないんだけど、私になんかしてる? イルカルラ: これだけのことをしておいて、なんで普通に帰れると思ってるんですか?ぷんぷん イルカルラ: この大穴の修復が終わるまでは冥界から出しません。きっちり働いてもらいますから イナンナ: そんなーっ!?ねえ、あなたたちからも説得してよ! この光輝の女神イナンナさまがいたほうが都合がいいでしょ! ティアマト: いつ襲ってくるか分からない疑わしい相手はエンキひとりで十分だから アプスー: エンキは信じてみたいと思うけど、イナンナは……ね? オーディン: なんか騒がしいですし…… イナンナ: なんなの、あなたたち! このわたくしに向かってそんな扱い、許されると思っ……あだだだだ!? (猛然と抗議をするイナンナだったが、急に頭を押さえてうずくまる。) (その背後からイルカルラがまったく表情を変えずに近づき、肩に手を置いた。) イルカルラ: よろしくお願いしますね、イナンナさん。ぎろり (それからしばらく、俺たちはバビロンへの道を進んでいた。) (ここまで来たからにはと俺とオーディンも同行を決めていたし、 実際にティアマトたちも言葉にはしなかったが受け入れていた。) (道中は、和やかとまではいかないが、 エンキとも諍いを起こさず淡々と時間を過ごしている。) 人間さん: (アプスーはともかく、ティアマトもおとなしいもんだな……) オーディン: あの、バビロンにはマルドゥークさんというμがいるんですよね? すごく強いんだとか…… ティアマト: 戦神マルドゥークと呼ばれる、戦いに特化したμよ。 私が操る魔獣でも、なかなか攻略できない手ごわい相手ね エンキ: でも……本当は、土いじりが好きな穏やかな子なんですよ アプスー: そうなんだ…… 人間さん: エンキはマルドゥークとは仲がいいのか? エンキ: ええ。マルドゥークさんはいつも、 私がバビロンに行くといろいろと手を尽くして歓迎してくれるんです オーディン: そういうことなら、エンキさんの姿があればいきなり先制攻撃を仕掛けてくる、 ということもなさそうですね ティアマト: だといいけど アプスー: でも……マルドゥークとかイナンナとか、 みんなエンリルの味方についちゃうんだなぁ…… (ふいにアプスーが寂しそうにつぶやく。) (考えてみれば、μとして彼女の味方についているのはティアマトだけだ。) (対するエンリルは、聞く限りでも数名のμがついている。) 人間さん: (アプスーじゃなくても、その構図は気になっちゃうよな……) エンキ: 確かにマルドゥークさんもイナンナさんもお姉様の指示で動いていますが、 それぞれに事情があるんです エンキ: イナンナさんは居候で肩身が狭いだけですし、マルドゥークさんも自分が世話している信民を守りたいだけで……お姉様の味方、というわけではなくて ティアマト: ふうん?じゃあ、交渉次第ではこっちの味方になるかもしれないってわけ? エンキ: 可能性はありますね アプスー: そっか……もしかしたら、エンリルも寂しいのかな…… エンキ: お姉様は自分でなんでもやろうとするタイプですし、 誰かそばにいてくれる人が必要なんです。私だけでなく…… エンキ: こうしているいまも、無理などしていなければいいのですが…… ティアマト: ふん…… (ティアマトは気まずそうに顔をそむける。) (敵視していた相手の生身っぽい情報に接し、反応に困っているのだろうか。) オーディン: あ……町が見えてきましたね。今日はあそこで一泊しましょうか (一夜明けて。) (エンキたちによれば、もうバビロンは近いらしい。) オーディン: エンキさんがいれば、話し合いもスムーズに進みますよ、きっと エンキ: そう祈っています (俺たちが宿の前で会話をかわしていると、 建物の中からティアマトが血相を変えて飛びだしてきた。) ティアマト: ちょ、ちょっと!アプスーは!? オーディン: え?まだ来られてませんよ。というか、ティアマトさんと同じ部屋なのでは ティアマト: いないのよ!朝起きたらどこにも姿が見えなくて!荷物は置きっぱなしなんだけど…… 人間さん: ……!?わかった、周辺を探してみよう (俺たちは町を出て周辺の捜索を始める。) (町で聞き込みをしたところ、 ひとりだけ町を出ていくのを見たという証言を得られたのだ。) オーディン: アプスーさん……どうして急にこんな…… 人間さん: ティアマトは何か気づいたことはないのか? ティアマト: ううん、昨日も普通だったわ。夜は、アタシは昨日はすごく寝つきがよくて、 アプスーが出て行ったのにも気づかないくらいで…… (常に気を張っていて、そういった変化にも気づきそうなティアマトだが、 だからこそ気疲れしていたのだろうか?) オーディン: あ……人間さん、あれ…… (ふと見ると、岩に囲まれた荒れた場所に小さな集落がある。) (どうして、町からさほど遠くないのに別の集落が構えられているのか、という疑問がよぎったが、いまはそれよりも優先すべきことがあった。) 人間さん: よし、誰かいるはずだ。話を聞いてみよう (足を速めて集落に向かいかけた、そのとき。) ティアマト: 待って!あれは……! (そこにいたのは、集落の信民たちを次々に手にかける軍勢の姿だった。) (その中心にいる彼女は、返り血にまみれていて――) オーディン: あ……あ……み、未来視で見た、とおりです……っ (人間さんたちが立ち尽くすその場所とは、また別の、岩がちな山の中腹。) (彼女は暖かな風を頬に受けながら、感慨を込めて大きく息を吸い込んだ。) (そして、ぽつりと。) ???: ……来ちゃった 60121 - 未来視の悪夢 (血に濡れた戦神の鬼気迫る表情に、俺は思わず生唾を飲む。) (これまで何人かμに会ってきたが、その殺意は明らかだった。) (もっともそれは、俺たちではなく信民たちに向けられているのだが。) ティアマト: ひどい……アプスーがいなくて良かったかもね…… (信民と共に発展しようという姿勢のアプスーは、 ティアマト以上にこの光景に嫌悪感を持つに違いない。) エンキ: マルドゥークさん、どうしてこんなことを…… (力なくつぶやくエンキの声は、相手には届いていない。) (こうして俺たちが呆気にとられている間も、 マルドゥークとその配下は次々と信民を仕留めていった。) オーディン: どうやら前評判とは違うようです。未来視で見た通りの……かなり恐ろしい人ですね。 気を付けてください、人間さん マルドゥーク: ……! (ようやくマルドゥークの視線がこちらに向いた。) (彼女は胸倉をつかんでいた信民を地面に無造作に放り出す。) マルドゥーク: ……どういうつもり ティアマト: それは、こっちが聞きたいわね マルドゥーク: 我が都市、バビロンに来るにしてはずいぶん……。……貧弱な顔ぶれでは ティアマト: なんですって……!? 敵陣に切り込むのに、煌びやかな行列でも用意しろっていうわけ!? ティアマト: それじゃあまるで、貢ぎ物でもしに来たみたいじゃない! マルドゥーク: む……? ティアマト: つまり、アタシたちはそういう立場なんだって言いたいのね。ふざけんじゃないわよ! マルドゥーク: 私は戦力の話をしているだけだ。何か気に障ったか? ティアマト: ……アプスーを、どこにやったのよ マルドゥーク: 知らないな エンキ: ティアマトさん、落ち着いてください……! マルドゥークさんを相手にうかつに動けばタダではすみません ティアマト: 友達を人質にとられて平気な顔なんてできないわよ! マルドゥーク: 何をしに来たのかと聞いている。しかし、この様子では答えは…… マルドゥーク: 私と戦いに来た、と考えていいのか ティアマト: 望むところよ! オーディン: ま、待ってください、ティアマトさんっ…… (完全に攻め気になっているティアマト。) (オーディンの声もほとんど届いていないようだった。) 60122 - アプスーの行方 マルドゥーク: 武をもってバビロンに臨むのならば、叩き潰す ティアマト: やれるもんならやってみなさい……! (マルドゥークも身構え、臨戦態勢になってしまう。) オーディン: ティアマトさんっ、対話するんだって言ってたじゃないですか! ティアマト: うるさいっ、あんたたちよそ者は黙ってて! (そう言われてしまったら、俺もオーディンも口出しできなくなる。) (あくまでも俺たちは当事者ではない。) (しかし、その立場に甘えて傍観者のままでいれば事態は……。) エンキ: ああっ、こんなはずじゃなかったのに……どうして……! エンキ: ティアマトさん、目を覚まして! ティアマト: アタシは正気よ。売られたケンカを言い値で買ってやろうって、ただそれだけ オーディン: わたしたちではティアマトさんを止められそうにないですね…… 人間さん: ああ。あいつを止められるのはたぶん、ひとりだけだ…… (だが、そのひとりはこの場にいない。) (いないからこそ、またティアマトも荒れているのだが。) 人間さん: (アプスーはどこに行ってしまったんだ……?) (それはティアマトが眠りこけていた深夜のことだった。) 村人: こちらです アプスー: あ、うん…… 村人: すみません、非常識な時間帯にご相談してしまって アプスー: ボクだけにこっそり話したいって聞いたんだけど 村人: ええ。たぶん、アプスーさんに聞いていただいて…… 他の方々にはアプスーさんからお話された方が良いかと判断しました 村人: どうぞ、お入りください 村人: いま、お茶をご用意しますね アプスー: ううん、それより先に本題を聞きたい 村人: では……申し上げましょう。あなたたちはエンキに騙されています アプスー: !? 村人: 対話路線で進められないかと打診があったのではありませんか? アプスー: ……っ、でも、あの人は 村人: でもそれは皆さんを陥れるための罠なのです アプスー: ……詳しく、聞かせて 60123 - にらみあい 兵士1: マルドゥーク様、ここは私どもにお任せを! 兵士2: このような無礼な輩、マルドゥーク様に近づけはさせませんっ! マルドゥーク: む…… ティアマト: あんたたちなんかお呼びじゃないのよ!! (マルドゥークが命じるまでもなく、配下の兵士たちが立ちふさがる。) (しかし、さすがに彼らを相手にティアマトが後れを取るはずもなく。) ティアマト: いきなさいっ、ムシュマッフ! 兵士1: うわああっ!? (3つの頭を持つ巨大な蛇が兵士たちを蹂躙する。) マルドゥーク: 手を出さなくていい 兵士3: ……はっ (自分たちがかなう相手ではないと理解した兵士たちは、おとなしくマルドゥークに従う。) 人間さん: (……冷静、に見えるんだよな) (将たるマルドゥークはもちろんのこと、 配下の兵士たちでさえ落ち着いているように見えた。) (嬉々として信民をいたぶっている連中とは思えない。) 人間さん: (本物のイカレた奴は、淡々と人を傷つけるもの…… というのもあり得る話ではあるんだが) マルドゥーク: 本気でやり合うつもりか? ティアマト: さっきからそう言ってると思うんだけどね マルドゥーク: これまでにらみ合いだった。どうして今日?それもこんなメンツで エンキ: 違うんです、マルドゥークさん。これは誤解なんです! 私たちはここに話し合いのために来たんです! マルドゥーク: 話し合い……? ティアマト: ええ、そのつもりだったわ。でもね、あんたみたいなヤバい奴に 統治を任せてるなんて話し合う余地なんてないわよ ティアマト: アタシたちはね、信民との関係を何より大事にしてるの。 あんたの信民、全員アタシが面倒見てあげる。だから大人しく消えなさい マルドゥーク: 私の信民を奪うつもり? ティアマト: 信民のためよ マルドゥーク: ……! エンキ: ま、待って、ふたりとも!ティアマトさん、話し合うって言ったじゃない!マルドゥークさんがこんなことするはずないし、きっと何かの誤解だと思います! マルドゥーク: 誤解? (どんな誤解があればこんな惨状を目にするのか、 という疑問はよぎったがいまは波風立てないほうがいいだろう。) (俺もティアマトを止めようと割って入る。) 人間さん: ここでうかつに争わないほうがいい。 まずどうするのか、アプスーとも相談するべきじゃないのか ティアマト: それは…… オーディン: ……?あの丘に誰かいますね 人間さん: あれは、信民……それも武装していない一般人だ。 まずいぞ、巻き込まれたら大変なことに…… オーディン: いえ、でもあれ……こちらに何か…… 60124 - エンキへの疑惑 (小高い丘の上で、その男は俺達に向かって何かを振っている。) (それは何か布切れのようだが……。) ティアマト: あれは……アプスーの服だわ!服の、切れ端……!? 人間さん: なんだって!? (俺には布切れということしか判別できないが、μは視力も高いのかもしれない。) (3人とも、大きくうなずいた。) オーディン: 確かにわたしも見覚えがあります。それをこちらにアピールしているというのは……? エンキ: アプスーさんが見つかったことを知らせてくれている、とか……? 人間さん: いや…… (アプスーが行方不明であることを、名も知らぬ信民が把握しているはずがない。) (仮にアプスーに依頼されたのだとしても、 俺たちがここにいることをどうやって知ったのか。) オーディン: まさか人間さんが考えているのは…… 人間さん: ああ……アプスーは誘拐されているんじゃないか? (この会話は俺の痛恨のミスだった。) (オーディンとのささやきにとどめているつもりだったが ティアマトの耳に入ってしまっていたのだ。) ティアマト: 誘拐っ……!? 人間さん: いや、待て。まだ単なる予想でしかなくて、証拠はないんだ ティアマト: 確かに、そう考えればすべて理由がつく……アプスーが勝手に出歩く理由もないし、あの信民がこの場所に来るのも……画策した連中とつながっていれば…… マルドゥーク: なんの話をしている ティアマト: あんたが卑怯な手を使う、武神の名を語る資格のないヤツだってことよ! マルドゥーク: ふん……挑発は効かない ティアマト: そして……卑怯なヤツはあんただけじゃない…… マルドゥーク: ……? ティアマト: あんたよ、エンキ!! (ティアマトは自身の斜め後ろにいたエンキの襟首をつかみ、攻撃態勢に入る。) エンキ: ――っ!? マルドゥーク: エンキ!! (マルドゥークは、とっさの判断だったのだろう。) (もみ合うふたりに体当たりをかます。) (ふいを突かれたティアマトとエンキがバランスを崩し、倒れ込みかけたところ、 マルドゥークはエンキを更に強く突き飛ばした。) オーディン: ああっ!?エンキさんっ!! (すさまじいマルドゥークのパワーによって、 突き飛ばされたエンキははるか彼方に姿を消す。) ティアマト: ちいっ……この馬鹿力っ…… 人間さん: (やっぱり……マルドゥークは冷静だ……。血に飢えた獣ならばティアマトの首を狙いに行く……たぶん、いまのはエンキをかばって……) (徐々に滲む違和感。) 60125 - 切って落とされた火蓋 (しかし事態は、それを考える暇を与えてくれなかった。) (しかし、マルドゥークがエンキを退場させてくれたおかげで 方針はむしろシンプルになった。) オーディン: もうマルドゥークさんとの戦いは避けられないでしょう。加勢します、ティアマトさん 人間さん: 俺もだ。エルマイトを送るくらいしかできないが (と言いつつ、一応は剣を握る。) (議論の余地があったエンキへの疑惑は、一旦棚上げだ。) (そしてマルドゥークと平和的な話し合いはすでに難しいことは誰の目にも明らか。) オーディン: なんとか3人がかりなら勝てるかもしれません。兵卒の介入は魔獣で阻止できますか? ティアマト: もちろん (言うやいなや、魔獣が兵士たちの前に立ちはだかる。) (介入する意志があったかは不明だが、これで3対1の構図を確定できた。) ティアマト: ……礼は、言わないわよ オーディン: 構いません。捕虜ですから、わたしたちは (ティアマトの主張を踏襲するオーディン。) (しかし、俺達3人の間にはどことなく信頼感があるように思えた。) マルドゥーク: やるのか ティアマト: 当然っ! (二手に分かれるティアマトとオーディン。) (事前の打ち合わせもなしにタイミングを合わせられるのは いずれも劣らぬ強者ゆえだろうか。) マルドゥーク: ふんっ……! オーディン: 簡単ではないですが…… ティアマト: 歯が立たないこともなさそうね……っ! (攻撃を受け止めたマルドゥークの反撃も、ティアマトは素早く弾く。) 人間さん: (よし、これならなんとか……ん?) (マルドゥークの肩越しに、先ほどの小高い丘が目に入る。) (信民は懸命に手を振りアピールしているが……。) 人間さん: ――っ!? (男は、布の切れ端に火を付けた。) 人間さん: 待てっ、ふたりとも!! ティアマト: !? オーディン: えっ! オーディン: うあっ! ティアマト: ぐうっ! (俺の叫びで集中力を失い、ふたりは直撃を受けて倒れ込む。) (ティアマトは怒りに顔を赤くしながら迫った。) ティアマト: なんなのよ、一体!! 人間さん: あれを見てくれ ティアマト: 火……?どうして…… 人間さん: あれはおそらく、攻撃の意思表示……アプスーは人質にとられているぞ 60126 - 姉の記憶 (吹き飛ばされたエンキは、急いで人間さんたちのいた場所へと走り戻っていた。) エンキ: 早く戻って止めなくちゃ…… 本当に戦いになってしまったら話し合いなんて、もうっ…… (刃を交えてしまったら禍根が残る。) (対等な話し合いなどできない、エンキはそう考えていた。) エンキ: いくらマルドゥークさんが強くても実力は伯仲しているはず。そう簡単には…… (せめて戦闘の途中で止められれば。) (武力の勝敗が明らかになる前ならなんとか間に合う。) (その思いで駆け寄ったエンキの目の前で繰り広げられていたのは――) マルドゥーク: そんなものか?大きな口を叩いたわりには拍子抜けだ ティアマト: くううっ!ぐ、ううっ……くそっ、こんなのって……! (マルドゥークの攻撃をただ受け続けるティアマトたちの姿だった。) オーディン: でもっ、あのひと……火を消しました! やっぱり、そういう……攻撃するなっていう、メッセージみたい、ですっ…… ティアマト: だからってこんなの、ジリ貧よ……どうすんのよっ! (ティアマトたちの言葉に違和感をおぼえ、視線を追いかける。) (少し離れた丘で、先ほどの男がアプスーの焦げた服を手に戦況を見守っていた。) (その顔には薄ら笑いが浮かび――) エンキ: まさか……そんな…… (エンキの脳裏には刹那、懐かしい光景が浮かんでいた。) (それはかつて、まだエンキとエンリルのふたりだけで活動していた頃のこと。) エンリル: 信民というのは本当にとんでもない連中ね エンキ: お姉様、あまりイライラしてはダメですよ エンリル: あんな連中、けだものじゃないの。食べたいだけ食べて、 明日になれば腹を空かせてわめくのよ エンリル: 食料を保存する、2日にわけて食べる、そんなことすらできない低能な連中だわ (まだ組織化されていないどころか自然のまま無秩序だった彼らを エンリルは露骨に忌み嫌っていた。) (μならではの特殊な力を持ち、 また知性も高いエンリルのことは信民たちも畏怖をもって接してはいたが……) (信民同士のやり取りにさえ、エンリルは神経を尖らせていたのだ。) エンキ: 仕方ないわ、生きていくための本能なんですから エンリル: 私が会話をする気になれるのは、エンキ……あなたくらいよ エンキ: お姉様…… 60127 - 王の孤独 エンキ: お姉様、ちゃんと休んでますか? エンリル: 倒れない程度にはね (それから時が経って、複数のμと行動を共にするようになったが エンリルの基本的な姿勢は変わらなかった。) エンキ: お姉様は完璧であろうとしすぎるのですよ。ほどほどになさっては…… エンリル: 形だけとはいえ王を名乗る以上、私は絶対に他のμに隙を見せてはいけないのよ エンキ: そんな…… エンリル: 信民たちは昔よりよっぽどきちんとしたわ。でもそのかわり、謀略や駆け引きに夢中になってしまった……。それは誰の影響だと思う? エンリル: 私たちμよ エンキ: でも私たちは争ったりはしていないでしょう? エンリル: 表面上はね エンリル: アヌ様も、私をいいように使いたいだけ。 イナンナも、アプスーも、私に統治を任せて楽をしているにすぎない…… エンキ: (ああ……お姉様は、誰のことも心から信頼していないんだわ…… おそらく唯ひとり、妹の私だけが例外で……) エンリル: 誰かを悪者扱いするつもりはないの。でもね、みんな私の能力ありきで頼るばかりでしょう?そんなの対等だなんて言えないわ エンキ: お姉様…… エンキ: (私はお姉様の唯一の味方……そうでなくてはいけない……。 そう信じてきたけど……でもっ……) エンキ: (ティアマトさんとアプスーさんは反乱分子だと決めつけられているけど、 もしそうでないと立証されれば……) エンキ: (今度こそ対等にお姉様と話せる存在になれるはず…… ここで見殺しにしていいはずがない……!) エンキ: (お姉様に従うと言えば聞こえはいい。 唯一の味方だから、と。でもそれは……責任をお姉様に押し付けているだけ……) エンキ: 人間さんっ! 人間さん: エンキ!? エンキ: 私に力をください……!あなたが持っているという、戦うための力を……! 人間さん: 戦うって、エンキが!?まさか、マルドゥークと?でも、それだと エンキ: ええ。これはお姉様に対する裏切りです。 でも、お姉様のためにやらなきゃいけないことでもあるんです 人間さん: ……わかった。ただこっちにも問題があるんだ。 アプスーを人質にとられている。うかつに動けない エンキ: あの丘にいる信民はそういうことだったのですね。 大丈夫ですよ、私とアプスーさんは関係性など無いも同然 人間さん: 無いも同然って、おいおい、まさか見殺しに―― エンキ: いいえ。釘を刺しに行くだけですよ (そう言い残すと、エンキは大きく踏み込み、一瞬にして信民のいる小高い丘まで跳んだ。) 60128 - アプスーの所在 (俺のエルマイトを受け取ったエンキは、 驚くほどの速度で小高い丘まで跳躍し、そしてまた戻ってきた。) エンキ: ここからは私とマルドゥークさんの私的な決闘で、 アプスーさんとは関係ないと説明してきました オーディン: は、はあ…… 人間さん: (信民からすれば、μにあんなふうに力を見せつけられたら脅されているようなもんだろうし……エンキ自身の意向はさておき、王の妹には従うほかないだろうな) エンキ: なので、後は任せてください マルドゥーク: エンキ?どういうつもり エンキ: 戦う理由ができたんです マルドゥーク: 理由? エンキ: 私の目的は、この人たちをお姉様のところに送り届け、 そして対話させることなんです エンキ: それを邪魔するのなら、戦うしかないでしょう マルドゥーク: この私と?エンキ、やめてほしい。私は貴方と戦いたくない ティアマト: エンキ……?なんなのよ、いったい…… (アプスーを人質にとられ、 防戦一方となっていたティアマトはもうすでに傷だらけになっていた。) (立っているのがやっとという状態だ。) エンキ: 助けが必要なように見えましたので ティアマト: うるさいわね……倒れそうなのは確かだけど…… (ふいにエンキの視線が俺とオーディンに向けられる。) 人間さん: ……! (マルドゥークの攻撃がティアマトに偏っていたこともあり、俺達はまだ動ける。) (彼女の意図を察して、俺はオーディンの手を引いた。) 人間さん: 行くぞ、オーディン オーディン: ……はい! (エンキが戦っている間にアプスーを探しだす。) (それがエンキから求められた俺達の役割だろう。) (彼女の無事を確保さえできればティアマトも態度が軟化、 対するマルドゥークも落ち着くはずだ……。) アプスー: …… (その狭い小屋の中で、彼女はぼんやりとお茶を飲みながらただ待っていた。) (ちょっと浮世離れしているとは聞いていたけど、この状況に疑問を持たないなんて、と私は笑みを漏らすと裏口から扉を開けて外に出る。) 雨依: あれがアプスー……ずいぶんぼんやりしているようだけど、 でもアプスーを押さえればティアマトは無力化できる 雨依: 舞台は整ったわね。予定通りだわ。後は私が行くだけ…… (私は急ぎ、向かう。) (人間さんたちがいるはずの場所へと。) 60129 - エンキの戦い方 エンキ: そっちから来ないなら、私からいきます! マルドゥーク: むうっ!? (間合いを詰めたエンキが、指先から水を撃つ。) (水といっても、細く魔力で集約されているもので、 地面に当たれば、硬い荒野の土を穿つほどの勢いがある。) (しかし、それをことごとくマルドゥークはかわしていった。) マルドゥーク: もうやめてほしい。エンキ、私は戦いたくない エンキ: 私もですよ、マルドゥークさん。 でも、あなたの信民に対する行動は見過ごすわけにはいきません マルドゥーク: 何……? エンキ: そして、私はお姉様よりティアマトさんたちに味方する。そう決めたのです マルドゥーク: 私はエンリルに従うと約束した。それがこのバビロンを守るための唯一の選択だった マルドゥーク: エンリルの敵だと言い切られてしまったら、私にも戦う理由が生まれてしまう エンキ: ええ、だから戦いましょうと言ってるんですよ……っ! (水流を自在に操りながら攻撃を繰り返すエンキ。) (しかし、決定打は与えられない。) (その理由は明白で、攻撃が単調すぎるのだ。) (しかし彼女は遠距離からの単発攻撃に終始している。) (マルドゥークが、おそらくはエンキをかばうためにふっとばしたあの強烈な一撃。) (マルドゥークのパワーを警戒して、エンキは間合いを詰められないのだ。) ティアマト: なんで……? (それでも果敢に戦う姿に、ティアマトはぽつりとつぶやいた。) ティアマト: なんであんたが、こんなに戦ってんのよ……おかしいでしょ…… エンキ: おかしくはありませんよ。私が本当に望んでいることのため、ですからね マルドゥーク: もうやめよう、エンキ (マルドゥークは悲しげに言った。) (すでに彼女の目に勝敗は明らかだった。 だからこそ、一刻も早く降伏してほしいと願っていたのだ。) エンキ: 残念ですが、やめるわけにはいかないんです。 本当にお姉様が安らげる世界を作るためには エンキ: ……本当は、マルドゥークさん相手にこんなものを使いたくはなかったのですが…… マルドゥーク: エンキ……!? エンキ: 終わりです、マルドゥークさん 60130 - エンキの「メ」 ティアマト: なっ……い、いまのは……!? マルドゥーク: まさか…… エンキ: ええ。聞いたことがあるでしょう。私の『メ』です ティアマト: 『メ』……!? エンキ: μの特殊能力すべてを無効化する秘術です。 これでどんなμも信民同然になってしまいます ティアマト: はっ……えぐい技持ってんのね……! マルドゥーク: エンキ……噂には聞いていたけど、本当にそんなものがあるとは エンキ: (本当は……私の視界内でなくてはいけないという制約があるのですが…… この距離なら見逃すことはないでしょう) マルドゥーク: すごい能力だ。でも、それが切り札なら、終わりだ エンキ: えっ!? マルドゥーク: はあああぁぁぁっ!! エンキ: ぐううううっ!? エンキ: 嘘でしょう……?私の『メ』が効いていない……!? マルドゥーク: いいや、効いてるよ。私が使っていた全ての強化系の術は無効化されてしまった エンキ: で、でも、こんな威力を…… マルドゥーク: これは私の肉体そのものから生み出したパワーだ。μの能力とは関係ない エンキ: なんですって……!? マルドゥーク: 日頃の地道な鍛錬の賜物だ。だから、μであるかどうかや、能力の制限にも左右されない ティアマト: うそでしょ……あのパワーが、素の状態ですって……? マルドゥーク: 残念だ、エンキ。私は職務を遂行しなくてはいけない エンキ: 何が職務なのよ……!信民に対して、こんなことをして…… エンキ: ……え? マルドゥーク: ? (エンキは固まってしまった。) (彼女が指した先には、確かにマルドゥークたちによって 傷つけられた信民の亡骸が転がっていたはずだった。) (だが、彼女が見たものは――) エンキ: 魔物……!? (複数の魔物が、その力を失い横たわっており、 徐々に霧になって消えていこうとしていた。) エンキ: (どうなってるの……?いえ、いまの私が見ている、 つまり『メ』の効果が発生しているわけだから……) エンキ: (誰かの特殊能力によって魔物を信民だと……思い込まされていた……!?) マルドゥーク: いくぞっ!エンキ! エンキ: ――っ!しまっ…… (魔物に意識を奪われていたエンキに、容赦なく飛びかかるマルドゥーク。) (しかし、その間に割り込むようにして、攻撃を阻む者がいた。) ティアマト: ぐああああっ!! エンキ: ティアマトさん!? ティアマト: よそ見……してんじゃないわよ…… エンキ: まさか、ティアマトさんが私をかばって……? ティアマト: 詳しい事情は知ったこっちゃないわ。 でも、あんたが本気でマルドゥークとやり合おうとしてんのはわかったから ティアマト: せいぜい、あんたを利用させてもらうことにしただけよ 60141 - アプスーの居場所 (エンキの介入によってマルドゥークをしばらく抑えられる……) (その間になんとかアプスーを探し出すことが、俺たちに課せられたミッションだった。) オーディン: エンキさんがどれくらいの実力なのか分かりませんが マルドゥークさんはかなり危険です。早くアプスーさんを探し出さないと…… 人間さん: 無茶を承知でいうけど、未来視はできないのか……? オーディン: いえ、やってみましょう。 アースガルズにいた頃と比べると、精度や範囲に制限はつくと思いますが…… (オーディンはそう言うと目を閉じて、強く念じ始める。) (彼女の未来視自体、正確な未来を言い当てられるわけではない。) 人間さん: (それでも、きっと何かの手がかりにはなるはず……) オーディン: ――っ!? (目を見開いて身体をのけぞらせるオーディン。) (どうやら、何か見えたようだが……?) オーディン: 見えました……!もしかしたら、案外近いかもしれません 人間さん: 本当か!いったい、何が見えたんだ オーディン: アプスーさんの姿を見ました。 あれはたぶん、建物の中です。外の喧騒が少し聞こえました 人間さん: ……町の中、か? (マルドゥークが治めているバビロンの町までは、まだここからそれなりの距離がある。) (だからこそ昨夜のあの町で休息をとったのだ。) オーディン: さっきアプスーさんの服の切れ端を持っていたあの人、見たところ普通の信民でした。 となると、μしか行けないような場所ではないと思います 人間さん: 確かにそうだな。そして行方をくらましてから現在までの時間では バビロンまでは届かない。ということは、アプスーは…… オーディン: 最初から、私たちが宿泊したあの町にいた、ということですね 人間さん: そうとわかれば、なんとか見つけ出せそうだな オーディン: ……ま、町のどのあたりから調べたら、い、いいんでしょう……? 一軒ずつ調べるわけにも…… (もとより、決して大きな町ではない。) (そして犯人の状況を考えればおのずと絞り込める。) 人間さん: 連れ出した時間帯にもよるが、できるだけ人目につきたくないはずだ。 となると、ちょっと裏路地にはいったところが妥当だろう オーディン: な、なるほど…… 人間さん: ただ、オーディンが喧騒を聞いているから完全に町外れじゃない。 おそらく下町のような場所のはずだ オーディン: わ、わかりました……! 60142 - 裏切りの証明 オーディン: 人間さんが予想していた条件に、 おそらくこのあたりがぴったり当てはまる気がします……! 人間さん: 確かに、こんな路地裏に入っても表通りの喧騒が聞こえるな。 たぶんこれを少しずつあたっていけば…… (ある程度エリアを絞り込んだら、あとはローラー作戦しかない。) (怪しげな建物を順番に訪ねていく。) (人が住んでいることもあれば、ただの空き家のこともあり。) (何軒か、そうして調べていくうち……。) オーディン: ……あの建物、気になりますね (オーディンが指し示したのは、古い木造家屋だった。) (外観はかなり古く、人が住んでいる気配はない。) 人間さん: 確かにこういった場所なら自由に使えそうだな。よし、行ってみるか……! オーディン: だ、誰もいないみたいですね…… 人間さん: いや、待て。奥の部屋から気配が……! (思い切ってドアを開けると、そこには――) アプスー: え、お兄さん?オーディンも……どうしてここに オーディン: よ、よかった……!無事だったんですね 人間さん: アプスーのことを探していたんだ。 いきなり姿が見えなくなったら心配するに決まってるだろう アプスー: えっ!?も、もうそんなに時間が……!? (ざっと見回すと、その部屋に窓はなかった。) (古びた建物だが隙間はない。) (薬か何かで眠らせるなどすれば、時間間隔は狂うかもしれなかった。) オーディン: どうして、こんなところに? アプスー: 実は……エンキが裏切ってるかもしれない、なんて言われて。 その証拠がこの石版のどこかにあるって話だったんだ (山のように積み上げられた石版の意味を理解し、なるほど、とうなる。) (おそらく犯人の狙いは、アプスーを遠ざけることだったのだ。) (それによりティアマトを動揺させ、 人質であると認識させることで行動の自由を奪うというやり方だ。) 人間さん: この石版の中に答えなんて最初からないと思う アプスー: えっ!?エンキは裏切ってるから証拠を探せって言われたのに、それはなんで…… オーディン: ご自分の目で確かめたほうがいいですよ。いきましょう、アプスーさん エンキ: はぁ、はぁ……ティアマトさん、あとどれくらい戦えそうですか ティアマト: 見ればわかるでしょ……立ってるのもやっとよ…… マルドゥーク: エンキ。もう、本当にやめないか 60143 - 許されるために (マルドゥークにいいように嬲られるティアマト。) (そんな状況を想定していたのだけれど、蓋を開けてみれば少々様相が変わっていた。) 雨依: (エンキまで一緒になって戦っている……?どういう状況なの、これ……) (私が見ていないところで、何があったのかはわからない。) (ただ、エンキが加わっていてもマルドゥークに手も足も出ない、) (追い詰められた状況であることには変わりない。) 雨依: (……大勢に影響はないわ。どういう経緯だとしても、 もしこれでエンキがやられたところで私の責任ではないし) 雨依: (私にとって一番大事なのは……お膳立てをすること……) (オーディンたちとの戦いで追い詰められ、 逃げ出した私を待っていたのは正体不明の声だった。) (その声の助けで、私はオーディンたちのいる場所から エンリルたちが暮らすこの場所へと移動することができた。) (文字通りすっ飛ばされてきた私には、 そのふたつが地続きの遠い国なのかまったくの異世界なのかはわからない。) 雨依: (私がいなくなったあの後、どう転んだとしても私はお尋ね者…… そんな思いをするくらいなら、別世界でやり直したかった) (なのに――……。) (この世界に人間さんが現れたことを知ったときはめまいがして、 そのまま倒れてしまいそうだった。) 雨依: (でも、これはチャンス……あちこちにいい顔をしながら、 本当に私がやりたいことをやる……) 雨依: (私が……人間さんのそばに戻るのに、 簡単に受け入れてもらえる状況を作り出すこと……) (声はきれいごとを並べてはいたけど、 要はエンリルとティアマトの争いを広げたかったみたい。) (そしてエンリルはティアマトをなんとかして倒したがっていた。) (その目的に沿うと見せかけて声からは新たな力を、 エンリルからはお金と権限を、それぞれ手に入れることができた。) (後は目の前で起きている、この状況さえ作り出せれば――) (ピンチに駆け付けるヒロイン。) (たとえ過去にわだかまりがあったとしても、 彼はきっと感謝してくれるしすんなり迎え入れられるに違いない。) アプスー: そんな、エンキが……!?どうして…… (声が聞こえた。) (どうやら人間さんがアプスーを発見して連れてきたらしい。) (思ったよりも早い。) (アプスーが変に思って外に出てもいいし、人間さんが見つけてもいい。 だから拘束なんてする必要もなかった。) (ティアマトが誤解するだけの時間さえ稼げれば――) アプスー: ティアマトっ!ひどい……早く助けないと…… 60144 - ヒロインは遅れてやってくる アプスー: ティアマトも、エンキも、ぼろぼろだよ……。 そんな……ボクが騙されて、あんなところに閉じこもっていたせいで…… 人間さん: アプスーのせいじゃない。絶対に (人間さんは力強くアプスーに言って聞かせる。) (肩を落としたアプスーの表情は私からではオーディンが陰になってよく見えないが…… 声が震えている。泣いているのかもしれない。) オーディン: ふたりに加勢しましょう。わたしも、戦います アプスー: うん……ボクも!ティアマトがやられて、黙ってられない……! 雨依: (……ああ、無理ねこれは。問題なさそう) (アプスーは負傷しているティアマトの姿を見て、珍しく感情的になっている。) (もともと好戦的じゃないアプスーが戦神の異名をとるマルドゥークを相手に 互角以上に戦えるとも思えなかったが……。) 雨依: (冷静さを失ってるわ。あれならマルドゥークが負けることはありえない) (私が颯爽と登場して人間さんたちを救うには、 それまでマルドゥークに負けてもらっては困る。) (だから正直、 オーディンが人間さんと一緒にいると知ったときは混乱したのだけど。) オーディン: アプスーさん、前に出すぎです!ここはまず私が引き付け……くうっ!? (どういう理屈なのかわからないが、おそらく本来の場所ではないせいだろう。) (オーディンは私が知っている彼女の恐ろしさの半分も出せていないようだった。) (それは以前の戦いぶりからも見てとれた。) (そう。イナンナをけしかけたときも、私はちゃんと観察していたから。) マルドゥーク: アプスー?それにさっきの……逃げたとばかり思っていたが オーディン: わたしも一応、戦神みたいな二つ名は持っていますから。いざというときは、やります 人間さん: アプスー、無理をしすぎるな。能力的にも、 オーディンを前線においてアプスーは援護したほうがいい アプスー: うん、わかった……! (倒れていたアプスーを優しく抱き起こす人間さん。) (彼は、誰にでも優しい。) (そして、いつだって正しい。) (間違えたりなんかしないし、汚いこともしない。) (私とは違う。) アプスー: はぁっ、はぁっ……ティアマトの、かたきっ……! オーディン: く……さすがはマルドゥークさんですね……。 本来の力さえ出せれば、もっと……くううっ……! (マルドゥークの前に、ふたりは徐々に傷を増やし、疲弊していく。) (そろそろ、いいタイミングだろう。) (ここで助けに入れば、きっと人間さんは私に感謝する。) マルドゥーク: ……いま、楽にしてやる 人間さん: アプスー!! (マルドゥークのとどめの一振り。) (その前に立ちはだかり攻撃を弾く……それは、私よりも速かった。) マルドゥーク: ――っ!?誰だ ヴェルメリオ: ……させない 60145 - 世界を越えてあなたに会いに (俺の目の前で、アプスーがマルドゥークの一撃を食らう……) (覚悟したその瞬間、何か人影が飛び込んできて、その攻撃を弾いた。) (その人影は攻撃を弾くとすぐに、間合いをとって離れた場所に降り立った。) (マルドゥークは、すぐにそちらに向かって武器を構え直す。) マルドゥーク: ――っ!?誰だ ヴェルメリオ: ……させない (俺は目を疑った。) (どことなく雰囲気が少し変わったようにも思うが、そこにいたのは間違いなく、 長らく旅をした仲間――ヴェルメリオだった。) ヴェルメリオ: ……久しぶり、人間さん。相変わらず、トラブルに巻き込まれてるんだね 人間さん: ヴェル……どうして、ここに…… ヴェルメリオ: ……あなたのことが好きだから、かな (静かに微笑んで答える彼女は、どことなく大人びた印象だった。) マルドゥーク: 誰だ? ヴェルメリオ: ……さあ。わたし有名人じゃないから名乗っても知らないと思う。 戦神としてみんなが恐れるあなたとは違うから マルドゥーク: μではないな。だが信民でもない ヴェルメリオ: ……詳しいことはよく知らないけど、どうでもいいよ、そんなこと ヴェルメリオ: ……戦神なんでしょ? なら、理由や事情なんて気にせず目の前の強い敵を倒せばいいんじゃない? マルドゥーク: …… (ヴェルメリオらしからぬ挑発的な物言いに、俺は内心、 大丈夫なのかと緊張を隠せずに成り行きを見守る。) (心優しいヴェルメリオだからこそ、この挑発は戦略だと言い切れる。) (おそらく、俺やティアマトたちに意識が向かないように、 マルドゥークが自分だけを攻撃するように誘導しているのだろう。) 人間さん: (でも……挑発されたマルドゥークの攻撃を、 ヴェルが受け止められる前提の話だ……だ、大丈夫なのか……?) (心配ではあるが、それと同時にやってくれるのだろうという意識もあった。) (俺の知っているヴェルメリオとは、どこか雰囲気が違う。) (それはきっと、確かな実力に裏打ちされたものだろう。) マルドゥーク: はあああぁぁぁっ!! ヴェルメリオ: ……んんっ!! (素早い、しかし重い一撃を放つマルドゥーク。) (それをヴェルメリオは正面から受け止めた。) ヴェルメリオ: ……まだ、本気じゃないでしょ マルドゥーク: 言ってくれる 60146 - 真っ向勝負 (初手で素早くマルドゥークの前に立ちはだかったことから、 ヴェルメリオはスピードを活かして戦うのかと思い込んでいた。) (しかし、蓋を開けてみると彼女は――) マルドゥーク: んぐううぅぅっ!! ヴェルメリオ: ……押し切るっ! (パワー自慢のマルドゥークに一歩も退けをとらない、真っ向勝負を挑んでいた。) (普段の武器が弓矢という遠距離武器ということもあいまって、 彼女の戦闘スタイルを誤解していたかもしれない。) (斧に持ち替えたヴェルメリオは、マルドゥークをパワーで圧倒していた。) マルドゥーク: こんな戦士がいたとはな ヴェルメリオ: ……世の中広いでしょ。井の中の蛙って言葉もあるくらいだから マルドゥーク: ふん……私がそうだと言いたいのか? 果たして、どっちが世界を知らないのだろうな……っ! (マルドゥークが得物を振るうだけで、すさまじい風圧が俺たちを襲う。) (そして、その攻撃を受け止めるヴェルメリオの足元は、 ひびわれと共に数センチ沈み込んだ。) アプスー: すごい……あのマルドゥークと互角……ううん、それ以上に…… オーディン: ……!?た、大変です、あれを……っ (ふたりの強者の戦いに思わず見とれてしまっていたが、 オーディンの声にハッと意識を向ければ、そこには――) (--) アプスー: あれは……! オーディン: 雨依さんの……いえ、変異型の魔物……! (同型の魔物だからといってただちに雨依が関与したとは言い切れない。) (だが、もしかすると、この近くにいるのだろうか。) (この戦いも見守っているのだろうか。) 人間さん: ……かなりの数だぞ (アプスーもオーディンも少なからずダメージを受けている。) (ティアマトとエンキは言うに及ばず、既に話すこともできずにうずくまっている。) オーディン: ……や、やるしかありません……!人間さん、わたしから離れないように…… ヴェルメリオ: ……人間さんのこと、お願い! (ヴェルメリオが鋭く叫んだ。) (オーディンへ向けられたものかと思ったが、すぐにその相手が姿を見せる。) パイプル: おにぃ、そこから動かないでね! カプーズ: さっさと終わらせちゃいましょ 60147 - 姉妹の絆 カプーズ: パイプルちゃん、援護をお願いね パイプル: OK、カプ姉!まかせといて!いぇあ! (ヴェルメリオがいつも着用している頭巾。) (彼女が最も得意としているお菓子、アップルパイ。) (それぞれがヴェルメリオを通じて強いエルマイトを得た結果、 精霊として実体化したのがこのふたり――) (カプーズとパイプルだ。) (ヴェルメリオの姉、あるいは妹を自認し本人を含めた三姉妹として 俺とも浅からぬ交流を続けてきた存在なのだが。) 人間さん: まさか……ヴェルだけじゃなくて、精霊のふたりまでこの世界に来ているなんて……! パイプル: ショーソン・オ・ポムっ!! カプーズ: タイミング完璧ね、パイプルちゃん パイプル: とーぜんっしょ!うちら姉妹の絆、見せてやんなきゃね! (息の合った姉妹の攻撃で、魔物の群れはその数を次々と減らしていく。) (その戦いぶりには、オーディンも目をみはっていた。) オーディン: あ……あの人たちは、人間さんの元の世界から来た、 仲間の方々……ってことですよね……? アプスー: 強い、ね……!状況、一気に変わったし (μの能力はオトギノクニと比べるとかなり特異で、とにかく扱える事象の規模が大きい。) (そういう意味で、μのほうが少なくとも戦闘時は秀でているように思えた。) (しかし、ヴェルメリオやカプーズ、パイプルたちの戦いぶりを見ていると以前から見知った彼女たちを、さらに上回る何かを持っているような。) 人間さん: (そもそも、オーディンが本来の力を発揮できないのと同じように、 彼女たちにとってもここは不利な場所のはずでは……) ヴェルメリオ: ……これで、決める マルドゥーク: くうっ!? (俺が考えを巡らせている間にも、ヴェルメリオは積極的に手数を繰り出す。) (そう、一撃ごとが重いにもかかわらず手数でも負けていないのだ。) (やがてそれは、ついにマルドゥークを捉え――) マルドゥーク: ぐああああっ!! (ヴェルメリオの一撃を受け、マルドゥークが膝をつく。) ヴェルメリオ: ……これで、終わりだね マルドゥーク: ぐっ……だ、だめだ……私は、退くわけには……っ カプーズ: あら、ヴェルちゃん。そっちも終わったの? パイプル: さっすがヴェル姉。でも、あーしもがんばったよ? ほら、おにぃに傷ひとつついてないでしょ (笑顔のパイプルは手のひらを掲げてみせる。) (ヴェルメリオはそれに対し、少し気恥ずかしそうにしながらも、ハイタッチで返す。) 人間さん: まさか、カプーズとパイプルまで来てるなんて思わなかったよ ヴェルメリオ: ……わたしが苦しいときに、応えてくれたの カプーズ: 当然でしょう?だって私たちは最強の姉妹なんだから 60148 - マルドゥークの信念 マルドゥーク: まだだ……勝手に終わらせるな……。 私はまだ、負けていない……ここで退いたら……信民はどうなる…… マルドゥーク: 私は……私の信民を、守ってみせる……っ (足元をふらつかせながらも、マルドゥークは槍を構える。) (ヴェルメリオはその姿を一瞥し、ふうっと息をついた。) ヴェルメリオ: ……あなたも、守らなくちゃいけないものがあるの? マルドゥーク: ……っ ヴェルメリオ: ……わたしは、人間さんが無事ならそれでいいの。 後のことは、状況もよくわかってないし、人間さんの言うことに従う ヴェルメリオ: ……あなたは戦士でしょ。だったら戦いに勝った相手に従うべき。 相手の要求がどうしても聞けないなら、もう一度武器を持てばいい マルドゥーク: …… (確かにヴェルメリオの指摘した通り、 マルドゥークの瞳には戦士としての意地のほかに何か、確固たる意志が感じられた。) (それが何なのかはわからないが……。) (うまく落としどころを見つけられれば、これ以上の戦闘は回避できる。) (もちろん見る限り、ヴェルメリオなら弱った彼女を完膚なきまでに 打ち据えることも可能だろう。だが、それが最善なのか。) ヴェルメリオ: ……どうする?人間さん 人間さん: ……こちらは、多くは望まない。ただ通してくれれば、それでいい マルドゥーク: 通す、だけ……? ティアマト: で……でもっ、こ、こい……つは……信民、をっ…… (息を切らしながらも、訴えるティアマト。) (彼女が言いたいことは分かっている。出会ったときの、あの光景だ。) (信民を次々に屠っていくあの、異常な――) 人間さん: ずっと違和感があった。あれほどの狂気を持っているにしては その他の挙動があまりにも冷静で、そして常識的だった エンキ: ええ……そうです……っ。わたしは『メ』で見たわ……っ! あれは信民じゃない、何かの術で……信民に見えるように、偽装した、魔物っ…… (エンキもまた呼吸を荒くしながら、主張する。) (ふたりとも命に別状はないのだろうが、 自分の身体そっちのけで懸命に意見をぶつけあっていた。) アプスー: ど、どういうこと……? エンキ: ……でも、私がそんなふうに庇ったって…… 人間さん: ティアマト、どうだ?ここまで一緒に戦って、まだ信用できないのか? ティアマト: ……っ、そんなわけ、ないでしょ エンキ: ティアマトさん……! 人間さん: 俺たちはエンリルたちとも事を構えるつもりはない。もう争いをやめて、解決する方法がないか……それを見つけるために、ここまで来たんだ マルドゥーク: 争いを……やめる……? 60149 - 決着 マルドゥーク: では信民にも、手出しはしない……? オーディン: も、もちろんです……っ! マルドゥーク: ……わかった (マルドゥークはうなずき、武器を収める。) (その様子にヴェルメリオは、ほっと笑みを漏らした。) ヴェルメリオ: ……よかったね、人間さん 人間さん: …… ヴェルメリオ: ……なに? (それは再会してから、初めて見た彼女の笑顔だった。) (大人びた雰囲気に変わったようだったし、 戦いぶりも貫禄が出てきてなんだか別人のようにさえ思えたが――) (こんな笑顔はやっぱり、自分のよく知るヴェルメリオだ、と強く実感した。) ヴェルメリオ: ……あんまり見られてると恥ずかしいんだけど カプーズ: ふふっ、いい雰囲気だわ。このままヴェルちゃん、ぐいっと! ヴェルメリオ: ……ぐいっと?な、何させようとしてるのカプ姉 パイプル: そうそう!そしてぎゅぎゅっと! ヴェルメリオ: ……パイプルまで一緒になって……調子に乗らないの オーディン: あの、エンキさん。その『メ』という能力で、 わたしたちに魔物を信民だと誤解させていた原因って、わかったりしませんか? エンキ: ……!そうですね、できるかもしれないわ…… 人間さん: どれくらい役に立つかわからないが、エルマイトを補給するよ。 いまのエンキは、立ってるのもやっとだろう (彼女を支えながらエルマイトを送る。) (まだ『メ』の全容は聞かされていないが、 可能性があるならきっとエンキは突き止めてくれるはずだ。) エンキ: ……!! 人間さん: どうした、大丈夫か エンキ: あ、いえ、思った以上にエネルギーが……。 それより、原因がわかりました。マルドゥークさん、例の石板を マルドゥーク: 例の、ってこれか? アプスー: 石板……?なんなの、それ エンキ: わたしが持ってきて、マルドゥークさんに渡したものです。お姉様に指示されて、ね (唐突なヴェルメリオの乱入、精霊2体の召喚。) (そして戦いの行く末も見えてきていた。) (気が付くと、私の手のひらには血が滲んでいた。) (とっくにチップも剝がれているけど、おかげで強度が強くなった自分の生爪が、 手のひらを傷つけていた。) (それくらい、強く拳を握っていたらしい。) (自分でも気づかなかったけど。) 雨依: ふざけないでよ……。 私がどれだけ苦労したと思って……それを簡単に横取りするなんて……っ (作戦がうまくいかない可能性は考えた。) (絶対にうまくいくというほど自信のあった完璧な作戦でもない。) (でも、ただ失敗するのと、他の女に横取りされることとはまったく意味が変わってくる。) 雨依: 許さない……絶対に、潰さないと…… 雨依: じゃないと……私はもう、どこにも……! (彼女の満足げな笑みにどす黒い感情をぶつけながら、 私は和やかになりつつあるその場に背を向けた。) 60150 - しばしの休息 ティアマト: そ、それじゃあこれ全部、エンリルの策略だったってこと……!?あ、痛ぁっ……! アプス―: だ、だめだよ……怪我してるのに無理して動いたら……! (勢いのまま前のめりになったティアマトは傷の痛みに顔をしかめる。) (確かにエンキの証言が確かなら、ティアマトの指摘した通りになるが……。) 人間さん: (エンリルに何の得があるんだ……?) ティアマト: マルドゥークのことも何か利用するつもりだったんでしょ。 実際、アプスーだって連れ出されたわけだし アプスー: う、うん……そうだよね…… エンキ: お姉様がどうして…… オーディン: 結局、真意は本人にしかわかりませんから ティアマト: そうね。だったら、やっぱり王都に行くしかないでしょ!それで直接やるのよ アプスー: や、やるって、ティアマト ティアマト: ……エンリルに対して、アタシは前よりずっと怒ってるけど。 でもエンキのことは認めてるから……話し合いはするわ エンキ: ティアマトさん……ありがとうございます ティアマト: もちろん問答無用で襲ってきたらこっちも黙ってないからね エンキ: ええ。それはわかっています ヴェルメリオ: ……どこに行くにしても、まずは休んだら?みんなぼろぼろみたいだし (無傷のヴェルメリオがぽつりと付け加える。) (ここからだと、昨晩の町が近いだろうか。) マルドゥーク: なら、バビロンに来てほしい。できる限りのもてなしをする。もちろん、治療も ティアマト: 罠が用意されてたりしないでしょうね アプスー: ティアマト、だめだよ。疑ってばかりじゃ オーディン: ここまでの流れでは疑うのも致し方ないですが…… 本来、マルドゥークさんはそういう方ではないと思いますよ ヴェルメリオ: ……そうだと思う。強いとか以前に、この人の太刀筋はすごく素直だった。 真っすぐで、たぶん不器用で、複数のことを同時にやるのは苦手 マルドゥーク: ……褒められている?それとも ヴェルメリオ: ……ただの感想。でも、この人が変な罠とか仕掛けてるようには思えないかな ティアマト: そんなこと、本当にわかる? ヴェルメリオ: ……何かあれば、わたしが出ればいいことでしょ? (その言葉は何よりも説得力の重みがあった。) (反論できる者がいるはずもなく。) ヴェルメリオ: ……じゃあ、行こっか。ねえ人間さん。後でたくさんお話しようね。 だって……会いたいってだけで、ここまで来たんだから 160021 - ヴェルメリオとの旅 (マルドゥークとの激闘から一夜明けて。) (傷口を治療しつつ俺のエルマイトも送ったことで、かなり重傷を負っていたティアマトやエンキも、旅を再開できるくらいには回復していた。) アプスー: でもまだ、本調子には程遠いんでしょ? ティアマト: まあね。けど、のんびり休んでいる時間はないわ。 バビロンが突破されたことはエンリルもすぐ知ることになるだろうし エンキ: そうですね。あまり時間をかけてしまうと誤解も生むでしょうし マルドゥーク: 私はここを離れることはできない。悪いが、道案内はエンキに頼みたい エンキ: ええ、そのつもりです パイプル: んで、ヴェル姉。あーしらはどうすんの? ヴェルメリオ: ……もちろん人間さんと一緒に行くよ オーディン: あっ、そ、そうですよね……! せっかく、あ、会いに来られたくらいですから……ずっと一緒、ですよね ヴェルメリオ: ……迷惑だった? オーディン: そ、そんなっ!迷惑だなんてとんでもない カプーズ: 人間さんくんもそれでいいのよね? 人間さん: ああ、もちろん。ヴェルが付いてきてくれれば心強いからな ティアマト: ふーん……ま、確かに強かったけどさ…… アプスー: ボクもヴェルのことは、なんか好きだな。波長が合いそう ティアマト: なっ、アプスー!?あんたまで…… アプスー: ボク『まで』?それって他にも誰かいるときの言い方…… ティアマト: い、言い間違いよ!いちいち気にしなくていいの! ヴェルメリオ: ……ごめんね、急に割って入ってきて ティアマト: え?あ、まあ、別にあんたのこと責めるつもりじゃないけど ヴェルメリオ: ……わたし、人間さんに会いたい一心で行動して、ここまで来ちゃったから…… 実は、戻る方法とかよくわかってないの 人間さん: なんとなくそうかなとは思ってたよ。帰ろうって言わなかったもんな アプスー: え、方法がわからないって、だってどうやって来たの? その反対をやればいいんじゃない? カプーズ: それが、そう簡単にはいかないのよね ヴェルメリオ: ……夢中で飛び込んじゃったから、詳しいことはわからないの。 わかっていることと言えば…… (そこでヴェルメリオは、この世界にやってくるまでの一部始終を語った。) (俺がいなくなった現場の調査、そこで遭遇した謎の存在。) (そして、洞窟の奥にあったという転移魔法陣――) 人間さん: (だとすると、俺がこのμの世界に来たのは偶然の事故じゃない。 誰かが意図したこと、って意味に……) アプスー: そ、それじゃあ、その変な頭の魔物みたいなやつが、お兄さんの敵ってことなのかな カプーズ: まだどういう意図で動いているかはわからないんでしょう? 人間さん: なあ、ヴェル。ちょっと見て欲しいんだけど、 その魔物っていうのはこういう感じだったか? (俺は枝を拾うと、かつて見た存在を地面に描いていく。) パイプル: おにいって絵は上手くないんだね カプーズ: 棒切れで地面に描くなんて、誰でもこんなものじゃない? ヴェルメリオ: ……これだよ、人間さん。わたしとドロシーが洞窟近くで見たのは、これ (それは、かつて『ラームス』という世界からやってきた、トルテやクーヘン、 あるいはピオンやメルヴェたちに付きまとっていた敵性存在だった。) (もし、これが関わっているのだとすれば……。) エンキ: 人間さん、ずいぶん険しい顔をしてるけど……何かわかったことがあるんです? 人間さん: あ、いや……まだ確かなことはわからないし…… それよりいまはエンリルのところに急ごう。ごめん、時間とって エンキ: いえ、私は大丈夫ですけど…… ティアマト: アタシたちに引き続き付き合ってもらうってことでいいわけね? 人間さん: ああ。いまの俺には、手元の情報だけじゃまだ何もできないしな ヴェルメリオ: ……ごめんね。わたし、もっといろいろ調べてから来ればよかった 人間さん: いや、ヴェルがこうして来てくれたのは、すごく大きいよ。 事態の進展って意味でもそうだし、それに……顔を見て安心した ヴェルメリオ: ……人間さん パイプル: はいはい、そこまで。すぐヴェル姉たちはふたりの世界に入っちゃうんだから ヴェルメリオ: ……そ、そんなつもりじゃないんだけど カプーズ: 強くたくましくなっても、そういうところは昔からのヴェルちゃんのままね 人間さん: そういえばかなり強くなってたけど、何があったんだ? ヴェルメリオ: ……うん。なんか、すごい人が助けてくれたの ヴェルメリオ: ……人なのか、わかんないけど。姿は見てないから ティアマト: なによ、それ。何者なの? ヴェルメリオ: ……名前も教えてくれなかった。ただ、すごく強い力を持っていて…… それと、この世界のことを大切に思ってるみたいだったな アプスー: ふうん……? 160022 - 孤独の王 (信民兵士からの報告を受けて、エンリルは苦虫を嚙み潰したように顔を歪めた。) エンリル: バビロンが……落ちた、ですって……? (正確には、上がって来た報告は『ティアマトたちが街道を通過した』というもので、 バビロンの現状は詳しくはわからない。) (だが、ティアマトとアプスーの現在位置については、 バビロンを突破できなければたどり着けない。) (つまり、マルドゥークが敗北したことを表していた。) エンリル: あのマルドゥークが……負けた……?考えられません……! エンリル: しかもエンキも帯同しているとか……おそらくそれは…… (単語を口にするのをためらいながらも、 エンリルは絞り出すように俯きながらつぶやいた。) エンリル: 人質にされている、ということ……っ! 雨依: ……たぶん、事情は違うと思うわよ エンリル: 雨依……!よくここに顔を出せましたね!! あなたの立てた作戦、まったく機能していないのですよ!? 雨依: あまりにも不確定要素が入りすぎたのよ。あなたの妹さんのことも含めてね エンリル: エンキがなんだというんです 雨依: 妹さんはあなたの味方だと思っていたのよ。ところが、そうじゃなかった。 だから計算は大きく狂うことになったわ エンリル: な……何を、言っているんです……っ? 雨依: 人質?まさか。作戦通りにティアマトを無力化して追いつめたのに、 マルドゥークと対決したのはエンキだったわ 雨依: あなたが自分の妹の意志もろくに把握できていないから! 私の作戦がすべてダメになったのよ!わかってる!? エンリル: ……っ!! (鋭い視線で、躊躇することなく言い放つ雨依。) (本来なら、この世界におけるエンリルはμの中でも 組織の頂点に立ついわゆる王と呼ばれる立場だ。) (しかし、雨依に恐れの感情など微塵もなかった。) 雨依: 原因はともかく、こういう結果になった以上は私も黙ってられない。 徹底して戦うことにするわ (私の理不尽なセリフに、エンリルは黙りこくってしまった。) (ある程度はまっとうな主張だとは思う。裏切られてる姉って。) (そんなの予想しようがない。) (でも、それが作戦失敗の理由だというのは、だいぶこじつけだと思う。) (敗因はそこじゃないのだから。) (第一の原因はもちろん、ヴェルメリオの介入。) (あの女がまさかこっちの世界に自力で飛んでくるなんて予想できない。) 雨依: (第二は……私の問題ね) (人間さんに許されたくて、それを前提に作戦を立てていた。) (あの場でヴェルメリオではなく私が割って入って救っていたら、 きっとまた笑顔で私のことを迎え入れてくれるはずだった。) 雨依: (でも……そんな甘い考えを持っちゃいけない、ってことなのよね。 戻れるなんて思っちゃいけない) 雨依: (欲しいものは力ずくで奪うしかないんだ……たとえ憎まれても……。 ずっとそうやってきたのに、なに甘えてたんだろ) エンリル: 雨依……徹底して戦うというのは、何をするつもりなんです? 雨依: エンリルがどれだけすごいか知らないけど、多勢に無勢になりかねないわ。 だから保険をかけておきたいのよ エンリル: 多勢に無勢?こちらには私の軍勢が控えているのにですか? 雨依: μはエンリルだけでしょ。アヌがどこまで参加するのかは未知数だし。 向こうはアプスー、ティアマト、エンキと揃ってるのよ エンリル: う……エンキも、数に入るのでしたね……。いったい何が不満でこんな行動に……! 雨依: 知らないわよ。とにかく、その差を埋めるために、別の人に潰してもらうしかないでしょ エンリル: 増援ですか 雨依: だから聞きたいんだけど……冥界って、どうやって行くの? エンリル: 冥界、ですって……無理ですよ。イルカルラの絶対中立は崩せません。 私だって何度も説得したんですから 雨依: 諦めたら事態は動かないわ。このままだと、あなた負けるわよ エンリル: ……っ!? 雨依: (エンリルの実力は知らないけど、ヴェルメリオのあの力は本物だったわ……) (この場で鍵を握るのは中立を守っているイルカルラとかいうμ。) (その目を連中に向けさせれば……。) (少なくとも『彼女』に指示されている、この世界の混乱は実現できる。) 雨依: (どうせ何をやっても私は憎まれるんだから……これでいいの……) 160023 - エンリルの決意 (アヌの部屋に入るなり、エンリルは深々と頭を下げた。) アヌ: なに、どうしたの~? エンリル: 申し訳ございません。バビロンが……陥落しました アヌ: え……バビロンが……?だってマルドゥークちゃんが守ってるんじゃなかった!? エンリル: ええ、そうなのですが…… アヌ: あのマルドゥークちゃんが負けちゃうなんて…… いつの間にアプスーちゃんたちは、そんなに強くなっちゃったんだろ エンリル: 現地からの報告によれば、どうやら新たな戦力の介入があったと聞いています アヌ: あー、なんか言ってたよね?見慣れないμがいるって エンリル: その新手のμもそうですし、異世界から来た存在の介入もありました。 主に影響したのは、むしろそちらのようで アヌ: 異世界、ねぇ…… アヌ: (ちょっと前……バビロンの方向から強い力を感じたけど、まさかあれが……?) アヌ: (だとしたら、あの力は……あの子の力なんじゃ……) (ふと考え込むアヌの表情を、エンリルはじっと見つめて言葉を待つ。) (それに気づいたアヌは、慌てて笑い飛ばした。) アヌ: ああ、なんでもないよ。それで、バビロンを奪ったアプスーちゃんたちは こっちに向かってるのかな エンリル: ええ。当然、次はこの王都を陥落させようという考えでしょう エンリル: ですが……次はもう、向こうの好きにはさせません。既に作戦は用意しています……! アヌ: ……エンリルちゃん、眠れてる? エンリル: なんですか、急に アヌ: だってなんか、顔が怖いからさ~。 余裕がなくなっちゃうと、いい考えも生まれないっていうか エンリル: 敵は王都に迫りつつあるのですよ。緊張感を持つのは当然でしょう。 この戦いに敗れれば私はおろか、配下の信民たちも住むところを失うのです アヌ: あのね、エンリルちゃん。別に戦うことだけが道じゃないからね~? 無理しないでお互いに話し合うことも有効なことがあるから…… エンリル: なんですか、それは アヌ: エンリルちゃん……? エンリル: まさか和解せよとおっしゃっているのですか? アヌ様は全てを私に任せるといって隠居されたのですよね エンリル: 面倒ごとも全て私にお任せになって悠々自適の生活を送っておられる。 そうと決めたのならば、都合のいいときだけ口を挟むのはご遠慮いただきたいです アヌ: あ……う、うん……そうだよね…… エンリル: それに無理はしておりません。私ひとりではなく、右腕がおりますから アヌ: 右腕? エンリル: 雨依、中に (扉の外で待機していたのだろう。エンリルの合図があるとすぐに、雨依が姿を見せた。) アヌ: この子は……! 雨依: 名前は雨依。異世界から来たの エンリル: 作戦参謀として、対アプスー陣営と戦うためのサポートを頼んでいます 雨依: よろしくね、アヌ アヌ: …… アヌ: (こいつ……なんと闇の深い瞳をしているのか…… こんな奴にエンリルが魅入られてしまったら……いや、もう既に……) 雨依: どうかした? アヌ: う……!? (雨依はアヌの手のひらに自らの手を重ね、にっこり微笑む。) (力が入っているわけではない。 しかし、重ねられた手には何かしらの圧力がかけられているようだった。) アヌ: (こいつ……なんだ、この力は……? 私たちμの持つ力と似ているようで違う……これはいったい……) 雨依: アヌは隠居していると聞いたけど…… もし必要になったら当然、一緒に戦ってくれるのよね? アヌ: ……そのつもりだよ 雨依: よかった、安心した アヌ: しかし、先ほどエンリルにも言ったが、戦うだけが道じゃ…… 雨依: エンリルが王様。私は参謀。じゃあ、アヌは? アヌ: ……っ 雨依: あれ、違った?私、間違って覚えてる? アヌ: いや…… 雨依: よかった。じゃあ何も問題ないね アヌ: …… エンリル: それで……これから、貴方を冥界に送ればいいのですね? 雨依: そう。もちろん移動させるだけでいいからね。 冥界に送るって、そういう意味じゃないから エンリル: わかっています。正直なところ、あなたが言うようにうまく事が 運ぶのか疑問もありますが……私には信じる以外の選択肢がありません 雨依: 信じきれないのもわかるけど……成功するかは別としても、私はエンリルの味方だよ。 それは忘れないで エンリル: ……! 雨依: ひとりじゃないからね。それは、忘れないで 160024 - 懐かしい味 (バビロンから王都までの道のりはさほど厳しくはなかった。) (距離はあるものの、道は平坦で整備も行き届いており歩くことに苦労はしない。) アプスー: ボクたちが住んでいるところも、 これくらい道をきれいにできると荷馬車も行き来できて便利になるんだけどね ティアマト: エンリルたちはいい場所を押さえて作物もたくさんとれるし 豊かな暮らしをしてるわけよ。冥界に近い世界の片隅とは前提が違うの 人間さん: なるほどな。そういう不公平も、話し合いで解消できるといいな アプスー: 話し合いかぁ……受けてくれたときのために、 何を話すのかをちゃんと考えておかなくちゃ ティアマト: どうかしらね。聞く耳持たずに襲ってきそうだけど エンキ: お姉様も本当はもう、こんな争いはやめたいはずなんです。 この労力は他に使ったほうがいい、って気付いているでしょうから ティアマト: それが妹のひいき目じゃないことを祈ってるわ カプーズ: さあ、皆さん。食事の用意ができましたよ 人間さん: おお、夜営の楽しみといえばやっぱりヴェルの食事だよなぁ。 こんな材料で、これ作れるの?ってびっくりさせられるんだ ヴェルメリオ: ……人間さん、あんまり事前にハードルを上げすぎないで エンキ: あらぁ、でも本当に美味しそうな匂いだわ ヴェルメリオ: ……元の世界で旅していたときより、ずっと食材も豊富だし アプスー: じゃあ、いただきます ティアマト: もぐ……んっ!うわ、本当に美味しい…… パイプル: ね?飛ぶっしょ? オーディン: さ、さすがですね……!わたし、こんなふうに料理できない…… パイプル: ヴェル姉はおにいの奥さん目指してっからね。 そりゃもう家事とかはばちこりスキル高いに決まってるし ヴェルメリオ: ……えへへ ティアマト: いわゆる押しかけ女房ってやつ?でもさぁ、そういうの重くない? カプーズ: 人間さんくんも実家に何度も来て、 私たち姉妹やおばあちゃんにもちゃんと挨拶してくれてるのよ パイプル: だから、あーしがおにいって呼ぶのも間違ってないっていうか 人間さん: いやあ、まいったなぁ ヴェルメリオ: ……そうだ、これ。人間さんが前に好きだって言ってたから作ったの。 ちょうど材料があったから。食べてみて、あーん 人間さん: あーん…… オーディン: な、なんてだらしのない顔…… ティアマト: なにこれ、もうラブラブなわけ? ヴェルメリオ: ……うん。深い愛で繋がってるの オーディン: え……それって、あの、もう付き合ってるってことですか……? 人間さん: い、いやいや、付き合うとか結婚とか、そういうのはまだ俺は…… ティアマト: なーんだ、ひとりで勝手に盛り上がってるだけ、ってやつね。 ま、人間さんが結婚しようが興味ないけど ヴェルメリオ: ……むう アプスー: そ、それにしても、姉と妹まで連れてくるなんて…… そんなに簡単に世界を渡れるものなの? ヴェルメリオ: ……あ、違うの。世界を飛び越えてきたのは正確にはわたしひとり。 カプ姉とパイプルは精霊だから…… オーディン: 精霊……というのは……? ヴェルメリオ: ……こっちには精霊っていないのかな カプーズ: 私はヴェルちゃんの頭巾、パイプルは心を込めて作ったアップルパイがそれぞれ本体なのよ。その本体に宿るエルマイトが実体化したのが私たち精霊ってわけ オーディン: え、じゃあ……モノにエネルギーが宿った存在……? パイプル: 身もふたもない言い方すると、そういうこと。あーしらは、ヴェル姉の持ち物。 だからぶっちゃけ、本当の姉妹でもないんだよね オーディン: あ……ご、ごめんなさい、ちょっと無神経な言い方しちゃいました……! カプーズ: ううん、気にしないで。私たちも自分がどういう存在か、わかってるつもり ヴェルメリオ: ……でも、血が繋がってなくても姉妹だから。わたしの大事な家族だよ カプーズ: ヴェルちゃん……! オーディン: 姉妹、ですか……いいですね、そういうの…… エンキ: …… オーディン: あ……エ、エンキさんも、きっとエンリルさんとちゃんと、 話し合えば分かり合えますよ……! ティアマト: そもそも、別にいまだってケンカしてるわけでもないんでしょ? エンキ: でも……私は、お姉様を裏切ってしまいましたから ティアマト: ……アタシが、裏切らせたのよ エンキ: い、いえっ、たまたまティアマトさんを助ける格好になっただけで 決断したのは私ですから……責任は、私自身にあるんです アプスー: 裏切った、なんて考えなくていいと思うけどな オーディン: ええ、そうですよ。だってエンキさんは、 エンリルさんのためにって考えて行動してるんですから…… エンキ: ……それでも、お姉様をひとりにしてしまっている…… それが心のどこかにトゲのように刺さってしまっているんです…… 160025 - 姉妹の絆 エンキ: あ、ごめんなさい……なんか湿っぽくなってしまって ヴェルメリオ: ……ううん。エンキがお姉さんのこと、すごく大事に思ってる気持ち……会ったばかりのわたしにも伝わって来たよ。だからきっと、お姉さんもわかってくれると思う カプーズ: 見聞きしたその瞬間は、そりゃあショックを受けると思うわ。 でもね、どうしてそんなことをしたのか……しっかり話せばいいのよ エンキ: そう、ですよね…… 人間さん: 堂々としていればいいんだよ。エンキ自身が言ってただろ。 これはエンリルのために必要なことなんだ、って エンキ: そうでしたね。ありがとうございます。 すぐには無理でも……きっとわかってくれると信じます アプスー: それじゃあ、そろそろ休む?ボク、食器とか片づけるよ ヴェルメリオ: ……ありがとう。じゃあ、お願いしようかな オーディン: あ……わたしも、や、やりますっ…… ティアマト: …… 人間さん: どうした? ティアマト: ヴェルメリオってさ、戦ってないときはおとなしくて内気な感じだよね 人間さん: 本来は、ああいう子だよ。強くなったからか、戦いのときはちょっと印象変わるけど ティアマト: 連れてきたオーディンもちょっと近いタイプ…… 人間さん: そうか? 人間さん: (まあヨルとかヘルに比べれば近いかもな……) ティアマト: それでいうと、アタシよりアプスーよね 人間さん: ん?よくわからないけど、まあ確かにアプスーもちょっと近いかもな? ティアマト: ……そういう好みってわけね 人間さん: え?なんて? ティアマト: ……ふん! なんでもないわよっ! 人間さん: え、なんで急に怒ってんの!? (食後しばらくして。) (みんなが眠りについたところで、俺はふと近くにある森に向かった。) (なんのことはない、トイレに立っただけだったのだが、 用を足して戻ろうとしたところで――) ヴェルメリオ: ……人間さんも、眠れないの? 人間さん: ……。 ……まあ、そんなところだな (トイレに立ったことで目が冴えたのは事実だったし、 彼女の態度を感じ取って少し考えた後、俺はそう答えた。) ヴェルメリオ: ……ほんと、遠くまで来ちゃったなぁって。そんなこと考えてたり、 人間さんと久々に会えて嬉しくてテンション高かったり……そしたら 人間さん: 眠れなくなった? ヴェルメリオ: ……ちょっとだけ話そ? (ふたりで手近な倒木に並んで腰かける。) (この世界は、昼間はかなり暑いほうだが寒暖差が大きく、夜は肌寒い。) (ヴェルメリオは大丈夫かと気遣うが、彼女は遠慮がちに微笑んで首を振った。) (それから彼女は、俺がいなくなってからの状況を簡単に説明してくれた。) (まだ身内以外には公表されていないのは意外だったが、 たぶんジャコヴァあたりの判断なのだろう。) ヴェルメリオ: ……それでね、みんな日記とか見て手がかり探したの 人間さん: なるほどな。迷惑かけちゃってるなぁ ヴェルメリオ: ……日記のメモ 人間さん: え? 人間さん: …………あ。も、もしかして、その…… ヴェルメリオ: ……みんなドン引きだったからね (おっぱいサイズメモを見られてしまったようだ。) (戻ったときの視線がいまから怖い。 というか、いまこの瞬間のヴェルメリオの視線が既に、とても鋭い。) ヴェルメリオ: ……みんな、無事だって信じてるよ。 そのことだけでもどうにかして、伝えられたらいいんだけどね 人間さん: そうなんだよなぁ。でも、この世界がどこなのかも未だにわかんないし ヴェルメリオ: みんなはラームスが関係してるんじゃないかって、色々調べてる (オトギノクニ・ラームスエディション。そう名付けられている、 オトギノクニに似ているようで異なる世界。) (かつて二度ほど、迷い込んできた彼女たちとの事件に遭遇した。) 人間さん: 確かにサーベイ……ヴェルが出会った、あの魔物がうろついてたし、 関連はありそうなんだけど ヴェルメリオ: ……でも、ここはラームスじゃない? 人間さん: なんとなくね (そもそもシュネーやピオンは、自らの世界をラームスであると自覚していた。) (それにハンプやオーフェンら精霊も存在し、 代わりに彼女たちからμの名前は聞かなかった。) (ここで出会ったオーディンやアプスーたちとは、やはり何かが違うのだ。) ヴェルメリオ: ……戻る方法が見つかったら、戻るよね? 人間さん: ああ、もちろん。ただ、その前にやらなきゃいけないことがあるけどな ヴェルメリオ: ……もちろん、みんなにお別れは言うよね 人間さん: いや、それだけじゃなくて……俺は、雨依を連れ帰らなきゃいけない ヴェルメリオ: ……雨依も、ここにいるの!? (そう言えば言い忘れていたかもしれない。) (俺はここに来る前、ヘルやバルドルたちがいた世界のことを話して聞かせた。) (そこで何が起こり、雨依が何をしたのかも含めて――) ヴェルメリオ: ……そんなひどいことしてるのに、なんで連れ帰ろうとしてるの? 人間さん: 何か理由があるんだと思う。オトギノクニにいたときは普通だったんだし ヴェルメリオ: ……人間さんがそんなふうに執着するなんて。普通にヤキモチ焼いちゃう 人間さん: 変な意味じゃないよ。純粋に、仲間のひとりだと思ってるからであって。 このまま見殺しにはできないからさ ヴェルメリオ: ……特別だからとかじゃない? 人間さん: あくまでも仲間だと思ってるから、それ以上でも以下でもないよ。 まあ、雨依って他の子とちょっと違う不思議な空気があるけどな ヴェルメリオ: ……危ないことはしてほしくない。心配だもん。 でも……人間さんが後悔するところも見たくないし 人間さん: 大丈夫だよ。ただ……ちょっと気になることはあるんだ。マルドゥークのこととは別に、オーディンにもうひとつ未来を見てもらったんだけど…… (言いかけて、俺は首を振った。) 人間さん: いや、話し始めると長くなるしな。とりあえず今夜は寝よう ヴェルメリオ: ……うん。ねえ、隣で寝てもいい……? (明朝、また何やら大騒ぎになる予感もしたが、 ヴェルメリオのその申し出を快諾するのだった。) 160026 - 冥界の異変 イルカルラ: じゃあ、やはりイナンナがうろついているのですね。しょんぼり (イルカルラは魂からの報告を受け、深々と溜息をついた。) (イルカルラが支配する冥界では、彼女の手足となる魂たちが巡回し異状がないかを常に監視している。特にこのところ、何度か侵入者がいる痕跡が報告されていたのだが。) イルカルラ: また、ろくでもないことを考えているのでしょう。 早めに見つけだしてお仕置きをしますよ。ぷんぷん イルカルラ: とはいえ、いまできることは限られます。一旦、お城に戻りましょうか イルカルラ: 戻りましたよ。疲れましたし、ちょっとお茶の時間にしましょうか。るんるん イルカルラ?: もっと豪華なお菓子があるでしょ!?それ持ってきなさいよ。あとお茶もおかわり!! イルカルラ: …… イルカルラ?: …… イルカルラ: ただいま イルカルラ?: おかえり…… イルカルラ?: じゃ、わたくしはこれで…… イルカルラ: ごきげんよう イルカルラ: ってなるわけないでしょう?あなた、イナですね。びしっ イナンナ: 痛い痛い痛い!髪つかまないでよーっ! イルカルラ: いったい何の真似ですか、これは。ぷんぷん イナンナ: いやその、ちょっと面白そうな魔法を拾ったもんだから、 試したくなっちゃって、ついつい…… イナンナ: そしたらお城に入れちゃったのでお腹もすいたし喉も乾いたので ちょっぴり楽しいティータイムなどを、ついつい…… イルカルラ: ついついって言えば許されると思ってるんですか?ここのところ、 侵入者がいると報告を受けていましたが、やはりあなたで間違いなさそうですね イナンナ: そ、それはわたくしとは限らないんじゃないかしら? ちゃんと調べたがほうがいいと思うの イルカルラ: そうやって少しでも罪を軽くしようと、また嘘を…… これはもう厳しいお仕置きが必要ですね。ぎろり イナンナ: やだやだ、イルカルラこわーいっ イルカルラ: あっ。皆さん、逃がしてはいけません。追いかけましょう イナンナ: はぁっ、はぁっ、ちょっとお茶飲んだくらいでケチな人ね。 この私の美しさに、少しくらい供物を用意してもいいはずなのに イナンナ: とりあえず……正門から探しに出ているはずだから、わたくしは裏口からゆっくりと…… イナンナ: あら? (裏口の陰で様子を見ていたイナンナの視界に、見覚えのあるシルエットがよぎる。) イナンナ: (あれは……アプスー?確か王都に向かったんじゃなかった? どうしてこんなところにいるのかしら……) イナンナ: (あっちに向かったみたいね…… ここを真っすぐいけば冥界の出口だから……帰るところかしら) イナンナ: ふうん……?さっきイルカルラが侵入者がどうとか言ってたけど もしかしてあの人のことなんじゃないかしら イナンナ: 『ここのところ』って表現が気になったのよね。 わたくしが冥界でうろついているのは結構前からだし…… イナンナ: まあいいわ。それよりさっさと―― イルカルラ: 見つけた。ぴきぴき イナンナ: のあぁぁああぁぁ!?い、いつの間にー!? イルカルラ: 捕まえますよ。そしてお仕置きです。ばきぼき イナンナ: イルは物理で殴るタイプじゃないでしょ!?なんで拳鳴らすのよっ! イルカルラ: 雰囲気です。ばきぼき イナンナ: 待って!いまなんかアプスーが怪しい動きしてたから! そっち調べたほうがいいわよ、ほんとに! イルカルラ: ばきぼき イナンナ: いやぁーっ!?聞いてよーっ!! 160027 - 二極、双頭 エンリル: …… (エンリルは、窓の外をじっと見つめていた。その表情は厳しく、視線の先の相手に対して怒っているみたいだった。でも、彼女の視界には誰もいないことを私は知っている。) (あの窓から見えるのは中庭の練兵場のはず。 ついさっき通りかかったが、ちょうど食事休憩で誰もいなかった。) エンリル: ……雨依。何か用ですか? 雨依: 冷たいのね。用がないと来ちゃいけない? エンリル: あいにく雑談をする時間的余裕は、私にはないのですよ (手にしていた石板を置いて、執務室のデスクに向かうエンリル。 少しひび割れていて、やや古ぼけた石板だ。) 雨依: なに、この石板 エンリル: ……過去にあった出来事ですよ 雨依: 昔話?いいわね、聞かせて エンリル: 知りたいんですか?異世界から来たあなたが、この世界のことを? 雨依: 意外って言われるけど、私って結構お話を読んだりするの好きなのよ エンリル: お話、ですか。そんな楽しいものではありませんが……いいでしょう。 あれはかつて、この国がようやく軌道に乗った頃のことです (アヌ様が一線を退き、私が全権を譲られて間もない頃です。) アヌ: 私は引退したんだし、参加しなくてもいいんじゃないかな~? エンリル: 引き継いで初回の会議ですよ。お願いします アプスー: 会議っていっても…… エンリル: 何か?意見があれば挙手して、大きな声でお願いします アプスー: あ、ううん……なんでもない……ふふっ…… (アプスーとはそれまでも関わりはあったのですが、あまり密接ではありませんでした。 なので、彼女の様子がおかしいと感じたのは、これが最初です。) アプスー: ね、どうする……? ティアマト: うん、アプスーのいうとおりだよ (この国はアヌ様が、めぼしいμに声をかけて力を合わせたことで大きく発展しました。) (しかし、μの数はそもそも少なく、発展のためにはどんな相手でも一旦は受け入れて、国の原動力とする必要があったのです。そのため意思統一は万全とは言い難い状況でした。) エンリル: ではまず、北西部の森林地域の開発についてですね。 この計画書通りに進めば、雨季までには完了する見込みです エンキ: それなら問題ないと思います、お姉様 マルドゥーク: ん。異論はない イナンナ: よくわかんないけど、いいんじゃないかしらー? エンリル: アプスーは、いかがですか アプスー: え?あ、う、うーん。えへへ…… (アプスーに話題を振ると、曖昧に笑って明確に返答しません。 何を考えているのかわからないその笑みは、不気味でした。) アプスー: でも、ほら……ね? ティアマト: うん、そうよね。わかってるわ、アプスー (そして、このアプスーの腰巾着をやっているのがティアマトです。全員が顔を揃える会議だというのに、ふたりにしか分からないような会話で何やら相談を始めます。) (ただ、内容がわからない会話ではありますが、 ティアマトがアプスーの意向にただ従うだけなのはニュアンスでわかりました。) ティアマト: ちょっと、その計画に無理があるんじゃないかしら エンリル: 無理、ですか? ティアマト: 動員する信民の数よ。 雨季に間に合わせるためにずいぶんたくさんの信民が働くことになっているわ エンリル: それが何か? (そして必ず、ティアマトを通じてアプスーは、 私の計画や意見にけちをつけてくるのでした。) ティアマト: どこからその人数を出すわけ?まさか、あたしたちの信民を使うつもりじゃないわよね エンリル: 全員で協力しようということで話はまとまっていたのではありませんか? アプスー: え、でも……ね? ティアマト: そうよね (アプスーは私の顔を見ずに、ティアマトに何か語り掛けます。 そしてティアマトは何かに同意し、言い放つのです。) ティアマト: 悪いけどこの計画、あたしとアプスーの信民は出さないわ エンリル: は……?それは話が違うのではないですか? アプスー: ひっ…… エンリル: 私が苛立ち、少し険のある言い方をしてしまったのは事実です。しかし、アプスーはティアマトの陰に隠れようとしました。それでは、私が彼女を虐めているようではないですか 雨依: わかるわ。そういう被害者ぶってくる子。 そういう子って自分の味方を見つけるのも上手いのよね エンリル: アヌ様のときから態度は良くなかったのですが、 私に代わってから露骨に施策にも協力しなくなっていきました エンリル: そんなとき、あの事件が起こったのです―― 160028 - アプスーの裏切り 雨依: 事件……? エンリル: 雨依はこの世界のことを知らないでしょう。 まず、μと信民の関係についてお話しておかなくてはいけませんね 雨依: 信民から力を得たμが、信民のためにその特殊な力を使う、 ということなら知っているけど エンリル: それだけではありません。信民とμは基本的に1対1の関係なのです 雨依: どういうこと? エンリル: ひとりの信民は、ひとりのμとしか繋がりません。 ただし、その付け替えは信民の意志で変えることができます 雨依: へえ……なるほどね。じゃあたとえば、今月厳しいからちょっと エンリルの信民になって、なんて頼んだりもできるの? エンリル: 実際にエンキのために、私の信民を融通したことはあります。もちろん私が一方的には変えられないので、信民たちに話をして、理解してもらった上で、ですが 雨依: まあでも、すごいたくさんいるわけでしょ?何万人とか? それ、いちいち管理してられないんじゃない? エンリル: 数人規模なら、その通りです。しかし、あの事件は―― エンリル: 半分ですって!? エンキ: ええ……次々にいなくなっているの イナンナ: わたくしもよ! マルドゥーク: 普段ならイナンナに問題があると考えるところだけど、私もエンキも減っている。 これは何かあるはず エンリル: …… (私はすぐにアプスーのことを考えました。アプスーは私の計画に参加せず、 それによって浮いた信民の労働力を何やら違うことに使っているようでした。) (しかし、何をしているのかと聞いても曖昧にはぐらかすばかり。 私はずっと、その態度に疑念を抱いていたのです。) エンリル: (何をしているのかはわからないけど、労働力が必要なら…… 他のμの信民を奪う可能性もある……?) エンリル: アプスーの周辺を調べましょう エンキ: え……お姉様!?まさかアプスーさんを疑っているのですか!? エンリル: 以前から信用ならないと思っていたのです。いい機会です。徹底的に洗いましょう 雨依: その結果、アプスーはクロだったの? エンリル: 行方不明だった離脱した信民たちが発見されました。 そこにはアプスーの姿があったのです 雨依: 確かアプスーのことを追放したって聞いたけど、それが原因? エンリル: ええ。本来なら裁判にかけて処分するつもりだったのです。 しかしティアマトが脱獄の手引きをして、そして……今に至ります 雨依: 結局、アプスーは何をするつもりだったのかしら エンリル: それはわかりません。集められた信民の中心に彼女がいましたが、すぐに逃げ出してしまって……その後に捕縛してからは知らぬ存ぜぬを通していましたから 雨依: なるほどね…… (どうやらこれは使い古された手段みたいだ。 私は持っていた石板をそっと後ろ手に隠し、エンリルの視界に入らないようにした。) (なんだかエンリルが不憫に思えてきたが、計画は既に動いている。 存分に潰し合ってもらうしかない。) イルカルラ: アプスーがここに?嘘をつくにしても、 もう少しマシなものはなかったんですか?ぷんぷん イナンナ: 本当だってば!いたの、そこに! (魂たちに取り囲まれ、イルカルラに首根っこを押さえられたイナンナは 必死に自分が見たものを主張していた。) イナンナ: それでなんか、魂たちを引き連れて行っちゃったのよ。 すっごいたくさん魂いたけど、あれ何だったの? イルカルラ: 魂を……? (イルカルラは静かに目を閉じ、神経を研ぎ澄ませる。 しばらくすると、彼女は静かに息を吐いた。) イルカルラ: 確かに何者かが魂をそそのかし、どこかへ移動しているようですね。 しかし……冥界にいる以上は、私の目からは逃れられない…… イルカルラ: いきますよ、みなさん (イルカルラは魂たちを引き連れて移動を始める。 イナンナはその後を、転びそうになりながら慌てて追いかけた。) イナンナ: ちょっと!のけ者にしないでよ! 何が起きてるか、わたくしだって知りたいんだから~! 160029 - 未来の雨依 エンキ: あとは、この街道をまっすぐ進めば王都です ヴェルメリオ: ……王都につながる街道ってわりには、結構荒れた道だね エンキ: 道路の整備まではまだまだ進んでいないんですよ。 人間さんがいた世界はすごくきれいに整っていると聞きましたけど ヴェルメリオ: ……場所によるとは思うけど アプスー: ふう……いよいよなんだね。なんか緊張しちゃうな ティアマト: 大丈夫よ。アプスーはひとりじゃない、あたしがついてるでしょ アプスー: うん。ありがとう、ティアマト ティアマト: お礼は全部終わってからにしなさいよ ヴェルメリオ: ……そうだ、人間さん。これ、今朝早起きして作ってみたの 人間さん: サンドイッチか。美味しそうだな ヴェルメリオ: ……おやつがわりにと思って、フルーツサンドにしたんだよ。 生クリームは甘さ控えめでヘルシーにして 人間さん: おお、これは美味い! ヴェルメリオ: ……えへへ、よかった。ね、あーんして?わたしが食べさせてあげる ティアマト: ……あのバカップル、誰かなんとかしなさいよ オーディン: ま、まあ……久しぶりの再会ということですし…… ヴェルメリオ: ……じゃあ人間さんからわたしにも食べさせて?はい、あーん アプスー: そ、それにヴェルたちのおかげでここにいるんだし ティアマト: それはそうだけど……。 ふん、エンリルとやり合うときはあたしがなんとかするからいいわ アプスー: ヴェルの力を借りないってこと?変に意地張っちゃだめだよ。ヴェル、強いし ティアマト: そういうんじゃないわよ。これは、あたしたちの問題なんだから。 異世界の人にばかり頼ってちゃだめでしょ オーディン: そ、その気持ちはすごく……わ、わかります…… 人間さん: でも、使えるものは使う、っていうのも大事だぞ ティアマト: わかってるわよ。いいからアンタはそこでイチャついてなさい 人間さん: ま、まいったな…… アプスー: でもティアマト、やり合うって戦いに行くわけじゃないよ。話し合いなんだから、ね? ティアマト: わかってるってば。万一のときよ、それは 人間さん: …… (ティアマトとアプスーのそんなやり取りを横目に見ながら、 俺はふと考えを巡らせていた。) (俺がこの世界に来た目的は、雨依を見つけだすためだ。 しかし、未だに彼女の痕跡すら見当たらない。) オーディン: ……人間さん? オーディン: 考えごとは、例のあの未来のこと……ですか……? 人間さん: うん…… (以前オーディンが見てくれた未来。それは、雨依が魔物を呼び出す様子だった。) (ただの魔物ではない。それはバビロンで目撃した魔物と同じ種類だったのだ。つまり――) オーディン: まだ、あの未来の風景が何を意味するかはわかりませんよ 人間さん: そうだな。そう信じたい (もしオーディンが見た風景が事実なのだとしたら、バビロンで俺たちを欺き陥れようとしたのも雨依ということになる。だとすれば、もう彼女は……。) 人間さん: (本当に『悪』と呼ばれる存在になってしまう…… でもきっと、本当にそんな悪い子ではないはずなんだ……) (彼女のことを詳しく知っているわけではないが、 救いようのない悪などではないと信じたかった。) (相手の位置を特定したイルカルラは、彼女を洞窟に追いつめていた。) イルカルラ: まさか、本当に…… (目の前にいる相手を前に、イルカルラは愕然とする。 まさか本当にアプスーが冥界に侵入していたとは。) イルカルラ: どういうつもりなのです、アプスー。 私に無断で冥界に入り、しかも魂たちを従えているとは…… アプスー?: ………… イルカルラ: 答えなさい。μにとって信民は代えのきかない大切な存在です。それはあなたも、よく知っているでしょう。信民たちをそそのかして鞍替えをさせるのは明らかな敵対行為 (先日、人間さんたちと冥界を訪ねてきたときのアプスーは、こんなことをするような相手には思えなかった。しかし、実際に目の前にいるのはアプスーだ。) (彼女の脳裏に、王都で起きたという信民乗っ取り未遂事件がよぎる。 同時に、イナンナも声を上げる。) イナンナ: ていうか、やっぱりあのとき!わたくしの信民を奪ったのもアプスーだったのねっ! わたくしの人望がないとかいう噂まであったんだから! イルカルラ: (あの事件でアプスーは捕縛された……。きっと何かの間違いで、 行き違いが起きただけだと思っていましたが、これでは……) イルカルラ: アプスー。他のμと違って、私は冥界の主。信民といっても魂で、冥界の外で活動できるわけではありません。奪ったところであなたの利益にはなりませんよ (イルカルラが諭すと、アプスーは……。) アプスー?: …… イルカルラ: (笑った!?) (イルカルラが困惑すると同時に、アプスーは魔力の弾丸を撃ち込んだ。) イルカルラ: !? (すんでのところでかわして事なきを得たが、これは明らかに攻撃だ。) イルカルラ: アプスー! (やむを得ない、とイルカルラが攻撃態勢をとろうとした瞬間、今度は魔力弾を洞窟の上部に撃ち込む。当然、破壊された岩は崩れ、道を塞いでしまう。) イルカルラ: くっ、逃げられた……!? 160030 - 血は水よりも濃いか 兵士: 申し上げます!関所をアプスー一行が通過したとのこと。 もう間もなくこの王都に到着する見込みです 雨依: 思ったより早かったわね (どうせ時間がかかるだろうから、ネイルでも塗り直そうかと思っていたけどそんな暇はなさそう。私はウィッグに櫛を通しながら報告を聞いた。) エンリル: わかりました。こちらもそれなりに兵力は揃えておきましょう。 ただし、手出しは無用です 兵士: はっ!しかし、その…… エンリル: なんです 兵士: エンキ様が…… エンリル: 人質になっているのはわかっています。だからこそ迂闊に動けない、ということです 兵士: それが……エンキ様は拘束されていないそうです。 むしろ、とても和やかな雰囲気だったと エンリル: え……!? 兵士: あの…… エンリル: ……そうだとしても、私たちの対応に変わりはありません。 合図があるまでは動かないように 兵士: ……はっ (礼をして部屋を出て行く兵士の背中を見送りながら、 私は残っていたアップルパイを頬張る。) 雨依: アップルパイって、そんなにいうほど美味しいと思う? なんか、得意になって好きな男に食べさせ続けてる女がいるんだけど…… エンリル: ……え? 雨依: ……大丈夫?なんかすごい顔してるけど (何気なく話題を振ってみたけど、エンリルには聞こえていなかったみたい。 たぶん、エンキという彼女の妹が敵方についていることがショックなんだろう。) (拘束されていない、和やかな空気…… つまりエンキは、自分の意志であの一団にいるということになる。) 雨依: (ま、バビロンで見た感じでも、明らかに向こうの仲間になってる感じだったけど) (私も見たままを報告したつもりだったけど、 たぶんエンリルは妹の裏切りなんて信じたくなかったんだろう。) 雨依: (信じたくないことは見なかったフリをしちゃうの、わかるけどね。 でも、それで現実が変化するわけじゃないんだよ、エンリル) 雨依: きっと事情があるのよ エンリル: え……あ、そ、そうですよね。間違いありません エンリル: 言葉巧みに騙されているとか、洗脳されているのかもしれないし、 和やかな空気だという幻影を兵士が見せられた可能性も 雨依: (幻影魔法なんて使えるやつがそうそう何人もいたら困るわよ) (心の中で思わず突っ込んでしまう。外見を偽装するだけ。 ただそれだけなんだけど、使いようによっては大きく状況を左右することができる。) 雨依: (アプスー事件のときも、きっと誰かが幻影を使ったんでしょうね。 そして、信民がμから離脱するように仕向けた……) (エンリルが持っている古い石板。それはもう魔力を失い、 表面も摩耗して何の石板なのかはわからなくなっている。 でも、おそらくそれは……私がいま持っているのと同じものだろう。) エンリル: とにかく、私たちは姉妹ですから。 私をエンキが裏切るなんて、そんなことあるはずがありません (エンリルは少し落ち着いたようだった。) 雨依: そうね。間違いないわ。だって血のつながった姉妹なんでしょう? 家族なんだもの。ねえ? 雨依: (バカバカしい。血のつながりなんて、何の意味もないのに。 そんなもの、信じるに値しない。だって私は……) 雨依: ――! エンリル: 雨依?どうかしましたか? 雨依: ああ、ううん。冥界のほうの段取り、うまくいったみたい エンリル: ……?そんなことが、何故ここで分かるんですか? 雨依: ……カンよ 雨依: (信じられるのは自分だけ……冥界の様子も【自分で見たから】事実だと言い切れるのよ。エンリルは私に似ているかと思ったけど、やっぱり甘いわね) (私は思わず鼻で笑ってしまう。誰のことも信じない。人間さんのことも。) (何度も噛んで傷だらけになった指先が、 じんじんと火照っていて私に覚悟を思い返させてくれた。) イナンナ: ちょっとー!!信じられないんですけど!! (イルカルラの城で、イナンナの声がこだましていた。しかし、周囲には誰もいない。) (そしてイナンナ自身は、城の柱に縄で縛り付けられていた。) イナンナ: イルってば、わたくしを置いていくなんてひどすぎるわ! しかも、こんな美女をあろうことか縄でぐるぐる巻きだなんて! イナンナ: ……でも、あれはまずいわね。まさか転送魔法陣があるなんて…… (崩れた洞窟をならして、イルカルラはアプスーの後を追った。 その先にあったのは、行き止まりの洞窟と転送魔法陣。つまり――) イナンナ: アプスーは魔法陣で冥界を脱出した、としか思えないわよね。 冥界でそんな勝手な真似は本来できないけど、 アプスーはあのとき大石板に触れているから、やれる可能性はある…… イナンナ: でもイルは見落としてるわ。 それを教えてあげようっていうのに縛り付けるなんて、妹にする仕打ちかしら!? (ぷりぷり怒っていたイナンナだが、ふいに表情が明るくなる。) イナンナ: そういえば信民が貢いでくれたアクセサリー……金属だったわね。 あれで縄を切れるんじゃないかしら!? (イナンナは後ろ手に金属片を握り、懸命に縄を切ろうと試みるのだった。) 60161 - エンリルとの邂逅 (俺たちはついに王都に到着した。辺境の地からここまで長旅ではあったが、 いまはまだその旅路を懐かしむ段階ではない。) (いよいよ、本丸とも言えるエンリルとの会談が目前なのだ。 当事者ではないとはいえ、緊張感に手汗が滲む。) ティアマト: それにしても……本当に話し合いに応じるつもりみたいね アプスー: ね、ちゃんとわかってくれてるんだよ。 ティアマトってば、いきなり攻撃してくるかも、なんて オーディン: そ、そうですよね……可能性は十分ありましたけど…… 町の入り口でどかーん、みたいな…… ヴェルメリオ: ……でも、そういうのはオーディンが予知してくれるんでしょ? オーディン: わ、わたしの未来視って、そんなに便利じゃないというか……! あ、あ、あまり、期待しないでくださいね……! (みんな、それぞれ好きなことを口にはしているが、 どこかポジティブなニュアンスが感じられる。なにしろ、これは嬉しい誤算だった。) (できることなら戦闘を回避したい。それは大人しいアプスーや身内である エンキはもちろん、ティアマトだって望んでいない。) 人間さん: (もっとも……話し合いの帰結によってはどうなるかわからないけど) (アプスーたちの主張は、エンリルからすれば一方的に感じるだろう。 でも、そういうときこそ第三者の自分がうまく落としどころを見つけなくては……。) エンリル: お待たせしました (そして姿を現すエンリル。落ち着いた佇まいに、ますます緊張する。) エンリル: 遠いところをようこそ。腹を割って話したい、ということで伺っています アプスー: う、うん……!そ、そうだよ エンリル: ……エンキ エンキ: お姉様…… エンリル: 本当にそっち側に行ってしまったのね エンキ: そっち側…… (その単語には、明確に自分とは違うという線引きがあった。つまり、少なくとも現時点では、エンリルはアプスーたちと手を携えていく姿勢ではないわけだ。) 人間さん: (これはあまり楽観視できる状況じゃないかもしれないな……) 60162 - 疾走するイナンナ (その頃、冥界では拘束を抜け出したイナンナが一路、王都を目指して進んでいた。) イナンナ: 脱出成功~っ!やっぱりわたくしってば天才だわ。 天賦の才能、略して天才。世界が嫉妬する才能の塊…… イナンナ: さあっ、行くのよマアンナ! 全速前進、疾風のごときスピードで華麗にわたくしを王都に運ん イナンナ: へぶるしっ!? イナンナ: いったぁ……なんなの、こんなところに大木が……! 冥界なら生きとし生けるもの全部死んでなさいよっ!! イナンナ: あろうことか、わたくしの行く手を阻むなんて、言語道断……んん? イナンナ: あれはアプスー……! (イナンナの視線の先にいたのは確かにアプスーだった。 彼女は脇目も振らず黙々とどこかへ歩き去ってしまう。) イナンナ: どこへ行くつもりかしら……? あの子がうろうろしているせいでわたくしが柱に縛り付けられたっていうのに! イナンナ: よし……こうなったら名探偵イナンナさんがすべてを解き明かしてあげようじゃないの!天才的な尾行でこっそり追いかけちゃうんだから! イナンナ: ここまでまったくバレていない……わたくしにまさか、 尾行の才能まであったなんて……自分の才能が怖い…… (アプスーを追跡していたイナンナは、冥界の片隅にある洞窟に到着していた。 入り組んだ洞窟を進むアプスーの表情は、どこか虚ろにも見える。) イナンナ: でも、こんな何もない場所に、どうしてふらふらと……? それによく考えたら、転送魔法陣で王都に向かっったんじゃ…… (見つけたので思わず追跡してしまったイナンナだったが、 ここにアプスーがいること自体、違和感でしかない。) イナンナ: え……あれは……? イナンナ: ええーっ!?な、なんで!?どういうこと!? イナンナ: はっ、しまった!ついびっくりして大声をあげてしまったわ! アプスー?: ………… (だが、洞窟中に響き渡るほどの声だったにもかかわらず、 数多くいるアプスーの誰もが、彼女を気にした様子はなかった。) イナンナ: こっちを見向きもしない……?なんなの、この子たち。まるで操り人形…… イナンナ: え、待って!?じゃあまったくバレなかったのは、 わたくしの尾行の才能じゃなくて、こいつの…… 魔物: グゥオオオアアアアァァァッ!! イナンナ: ――っ!? (アプスーが反応しない代わりに、イナンナの背後からは魔物が襲いかかってきた――) 60163 - 因縁 エンキ: それでは……今回の問題に対して、それぞれの論点をまず整理していきたいと思います (エンリルが放つ威圧的な空気。しかし、それにいつまでも圧されていては 話し合いが始まらない。エンキは覚悟を決めたように口火を切った。) エンキ: アプスーさんの希望からお伝えしますと、まずは地位の回復。 それに領土の割譲と、不可侵条約の締結。大きくは、この3つについて―― エンリル: そうやってまた、自分の言葉では語らないわけですか アプスー: えっ……あ、ううん、その、ごめんなさい……。ボク、口下手だから…… エンリル: そしてその態度。自分が周りからどう見えているか、本当によくご存知で ティアマト: ちょっと、何なのよ。こっちが話し合おうって言ってるのに、喧嘩腰で……! 挑発して先に手を出させようって魂胆? オーディン: ティアマトさん……っ、お、お、落ち着いて……っ 人間さん: (もしそうだとしたら、まずいな……。こっちのメンツはアプスー、エンキ、 オーディン……ヴェルも含めて控えめでおとなしい性格ばかり) 人間さん: (ティアマトが熱くなったとき止められる存在がいない。アプスーの言うことは聞くだろうが、アプスーにそこまで割って入る度胸があるかは微妙だ) 人間さん: (いざというときは……俺が体を張るしかないな……) エンリル: 挑発などではありません。私はただ、事実を述べているのです。 この対立構造は、なるべくしてなったものだと エンリル: もちろん、あの事件は決定的でした。 私たちへの裏切り、国家への反逆。それは許されない罪です アプスー: じ、事件って、あの、ボクが何かしたっていう……? ティアマト: あれは濡れ衣だったじゃない! エンリル: でも起きたことは事実です。一体誰が他にやったというのですか アプスー: それは…… エンリル: 奪われた信民は、貴方に紐づけられていた。 利益を得たのは貴方だけなんですよ、アプスー エンリル: あのことでエンキは多くの信民を失いかけ、μとしての力も失われてしまった。 『メ』以外の力はかなり弱体化し、もうμとも呼べないほど エンキ: お姉様、その話は……! エンリル: 私はもう、あんなことはごめんだ ティアマト: それがアプスーのせいだとでも…… (ティアマトが言いかけた瞬間、部屋の扉が乱暴に開かれた。姿を現したのは――) アプスー: イルカルラ……? 60164 - アプスーへの疑惑 ティアマト: なんでここにイルカルラがいるのよ!? アプスー: そ、そうだよね?冥界から出られないって聞いてたのに イルカルラ: ……アプスーさん。貴方……私の信民を盗みましたね?じろり アプスー: えっ? ヴェルメリオ: ……盗んだ?ねえ、人間さんこれって 人間さん: ああ…… (かつて起きたという事件。『ちょうど』その話をしていたところだ。 あまりにもタイミングが良すぎる。もしかして、これは――) ティアマト: エンリルっ!アンタ、何か知ってるわけ!? エンリル: 何故そう思うんです ティアマト: だってこんなタイミングでイルカルラが来るなんて エンリル: さすがに、それくらいは分かりますか。ええ、彼女とは事前にお会いしていました。 相談がある、と皆さんより少し早くこちらに来られましてね イルカルラ: 私も、冥界に閉ざされているとはいえ、エンリル様の城を訪ねるくらいの行動は 許されています。そこでこちらに相談に上がったのです エンキ: イルカルラさんの、その相談というのが……アプスーさんが、信民を盗んだという…… アプスー: そ、そんなこと、してないよっ (イルカルラは、彼女が持っている状況証拠を並べる。 いわく、冥界でアプスーの姿を目撃した彼女はその後を追い、そして攻撃を受けた。) (イルカルラにとっての信民である魂を従え、イルカルラに攻撃を仕掛け、 そして残されたのは転送魔法陣。) イルカルラ: 調べたところ、魔法陣の転送先はこの王都近くの草原でした。つまり…… (彼女の話を聞いていても、決定的な証拠は何ひとつない。だがこの世界は現代日本ではないのだ。疑わしきは罰せず、などという精神も存在しない。) 人間さん: (これだけ状況証拠が積み上がるとアプスーは不利だな……) イルカルラ: でも、私はあのときのアプスーを信じたい。直接会ったときに、 貴方から野心は感じませんでした。私の目を見て、答えてください イルカルラ: 貴方は、やっていませんよね? アプスー: あ…… (無実の者がすべからく、相手の目を見てまっすぐ凛と答えられるとは限らない。 無実でも、そうした受け答えが苦手な者はいる。) (しかし、それを疑われている側が主張するのは難しい。) アプスー: ボ、ボクは、やって、ませんっ…… イルカルラ: 私の目を見ることはできませんか ティアマト: 待ちなさいよ、さっきから聞いてれば!! 60165 - 決裂 ティアマト: アプスーは他人から何かを奪うような子じゃないわ!そんなこともわからないの!? イルカルラ: 私だって信じたいのです。 でもこの目でアプスーが冥界にいて、私に攻撃をするのを目撃しています エンリル: 今回だけではありません。一体、当時の貴方は何をしていたのです。 私たちみんなで決めた方針に逆らって、勝手に…… ティアマト: アンタのつまんない策に乗らなかったからって疑うわけ!? 結局それは何でも言うことを聞くイエスマンがほしいだけ。 アンタのリーダーとしての資質が足りないってことでしょ! エンリル: なんですって? ティアマト: 人を疑ってばかり、誰のことも信じられない、 そんな人に誰がついていくっていうのよ! アプスー: わ、わわ、ティアマトっ……! オーディン: 人間さんっ……これ、まずい展開なのでは……! エンリル: 私に、世界の盟主たる資格が…… この『天命の粘土板』を持つ資格がないと、そう言いたいのですか (エンリルが手元の粘土板を握りしめる。 それは攻撃の予備動作にも見えて、ハッとする。) (だが、俺が何か言葉を発するよりも先に――) ティアマト: そうよ!アンタはその器じゃないわ! 信民たちのことを信じてまとめているアプスーのほうが絶対、適任なのよ! エンリル: なるほど…… エンキ: お姉様っ、いまの言葉はあくまでも例えというか エンリル: いいえ、エンキ。これで明らかになったのですよ。アプスーたちの真の狙いが エンリル: 貴方達は私を蹴落とし、この世界の盟主に成り代わるのが目的の、 野心に満ちた反逆者―― (エンリルが手にしている粘土板が輝きを放つ。 それは視界が真っ白になるほどの強力なもので――) ヴェルメリオ: ……人間さん、危ないっ。わたしの後ろに (ヴェルに手を引かれたと思った次の瞬間には、耳をつんざく轟音が頭上で響いた。) エンリル: 私はこの世界を守る義務がある。脅かす存在は容赦なく潰す、それが役割なのです オーディン: 来たときは晴れていたはずなのに、いつのまに雷鳴が…… エンリル: 私の能力は大気を操る能力……反逆者に雷鳴の鉄槌を下してあげましょう 60166 - エンリルの本領発揮 イナンナ: ふん……この程度の魔物にやられるイナンナ様ではなくってよ。 わたくしだってμなのですから、こんなのに倒されるはずがないでしょう イナンナ: しかし、これ…… (イナンナは大量の石版を前に眉をひそめた。そして、うち1枚を手に取る。) イナンナ: ……魔物を倒している間に、アプスーがいなくなったと思ったら、 これが落ちてた……つまり…… イナンナ: つまり……? (首を傾げるイナンナ。) イナンナ: まあ、なんか関係があるってことよね。とにかく、イルを追いかけなくちゃ! 行くわよ、マアンナ!今度こそかっ飛ばすのよ! (頭上で響いた雷鳴は、最上階であるこの部屋の天井を粉砕していた。 露わになった空には暗雲が立ち込め、生暖かい風が吹き込む。) エンリル: この私に堂々と刃向かうからには、相応の覚悟はできているのですよね? アプスー: あ……ああっ…… エンリル: この世界の秩序を守るため、危険分子を排除します。 エンキ、貴方はそこで見ていなさい ティアマト: ふん……結局、力でねじ伏せて黙らせようってわけ? エンリル: 貴方たちの望む通りに話し合いの場まで設けたのですよ。しかし、疑惑も拭えず、 要求するばかりの交渉など、こちらには何の価値もなかった エンリル: 結局、私達は戦う運命だった。これは必然だったのです エンリル: イルカルラ。貴方の能力も、この『天命の粘土板』の名の下、開放しています。 冥界と同じように戦えるはずです。手を貸してもらえますね? イルカルラ: 承知しました。ぺこり エンリル: では……いきましょうか (まるでそれ自体が意思を持っているかのように、的確に落雷が襲ってくる。 そして、その合間を縫うようにしてエンリルがアプスーに迫った。) アプスー: うわぁっ!? ティアマト: させないっ!! (ティアマトが前に立ちはだかりエンリルの攻撃を受け止める。 激しい衝撃波が室内に及んだ。) ヴェルメリオ: ……もう戦うしかないみたいだね。オーディン、いける? オーディン: もちろんです……! ヴェルメリオ: ……カプ姉、パイプル、力を貸して! (オーディンに声をかけたヴェルメリオはさらに、2体の姉妹分の精霊を実体化させる。) (さすがに、この状況でエンキに参戦を求めるのは酷だろう。しかし、エンリルの強力な攻撃の前に、ティアマトもアプスーも防ぐので精一杯といった状態だ。) イルカルラ: では……私もいきます (果たしてイルカルラの実力がどれほどのものか……。) 60167 - イナンナの持つ手がかり (一路、王都に向けて疾走するイナンナ。その前に立ちはだかる者がいた。) マルドゥーク: 待て イナンナ: 悪いけど、アナタに構ってるヒマはないのよ!どきなさいっ! マルドゥーク: 待て イナンナ: のっわあああぁぁぁぁっ!? マルドゥーク: 待てと言った イナンナ: あのねぇ!?止めるなら止めるで、もっと丁寧にしなさいよ! というか、わたくしさっきも似たような感じで横転したんだけど! マルドゥーク: ここから先には行かせられない イナンナ: なんでよ!! マルドゥーク: この先、王都ではティアマトとエンリルの決闘が行われている イナンナ: 決闘!?え、待って、話し合いに行くとか言ってた気がするけど マルドゥーク: …… マルドゥーク: 言葉による決闘 イナンナ: ねえちょっと脳筋すぎない? マルドゥーク: とにかく、邪魔はさせない イナンナ: 違うのよ!その前にまずちゃんと伝えなきゃいけないことがあるんだから! マルドゥーク: …… イナンナ: 自分が目立ちたいだけで出しゃばるつもりなんじゃないか? とか思ってるでしょ!違うからね!? マルドゥーク: 何故わかった イナンナ: 当たってるんかい!わたくしのこと何だと思ってんのよ! マルドゥーク: 伝えなきゃいけないこととは イナンナ: 言葉だろうが拳だろうが、決闘なんてしなくていいのよ。 たぶんだけど、これ怪しいと思うの マルドゥーク: 石版……? イナンナ: わたくしの冴えわたる頭脳が告げているのよ。これはたぶんなんかヒントになるって マルドゥーク: 頭脳が冴え渡っているとは思えない表現だが……その石版というのは? イナンナ: これよっ!本当はもっとたくさんあったんだけど、 普通に重いから1枚しか持ってきてないわ マルドゥーク: ……!?これは…… 60168 - 説得 エンリル: その程度で、よく大きな口を叩けましたね……!? ティアマト: うああああっ!? (エンリルの攻撃を防ぎきれず、被弾するティアマト。追い込まれているのを見かねて、オーディンはティアマトたちの援護に回っていた。というのも――) アプスー: う、ううっ……ごめん、みんな……ボクがなにもできないせいで…… オーディン: 仕方ありませんよ。完全に力を封じられてしまってるんですから…… (アプスーの力は無効化されていた。 彼女の現在の力は冥界の大石版に触れたことで顕現したものだ。) イルカルラ: 冥界の力を受け取っておきながら、この顛末……許しませんよ。ぎろり (故に、冥界の主たるイルカルラの影響は避けられない……という理屈らしい。) 人間さん: これは完全に計算外だ…… ただでさえチートみたいなふたりを相手にするのにこれでは…… ヴェルメリオ: ……わたしとカプ姉、パイプルの3人でなんとかイルカルラは抑えられそうだけど 人間さん: (つまり、これ以上はエンリルに戦力を回せないってことだな) (オーディンも自分の世界でないため、本来の彼女の実力とは程遠い。 いまは持ちこたえていても、いずれ消耗するだろう。) 人間さん: (なら、戦い以外で……戦況を変えるしかない……!) 人間さん: ヴェル。エンリルとイルカルラに接触したい。援護を頼めるか ヴェルメリオ: ……っ、わ、わかった。やってみる (イルカルラの攻撃をヴェルメリオが弾く中、 俺は距離を詰めて冥界の主と間近で対峙する。) イルカルラ: ……なんですか?人間さん、μですらない貴方に出番などありません。 危険ですから下がっていなさい 人間さん: 聞いてくれ。イルカルラもわかっているはずだ、アプスーの性格を。 他人の信民を奪うなんて、そんなことするはずがない イルカルラ: ………… 人間さん: アプスーは、自分の信民を大切にしている。一緒に手を取り合って発展させていこうとしてるんだ。そんなμが、奪われる苦しみを理解できないわけがない イルカルラ: ……私も、そう思っていましたし、いまでも信じたくありません。 でも目の前でアプスーを目撃したのです イルカルラ: 明確な弁明をしてくれれば信じられたかもしれません。しかしアプスーは何も語らない。では私は何を根拠にアプスーを信じればいいのですか 人間さん: アプスーも何が起きているかわからないんだ。だから時間をくれ。 状況を調べて、弁明する材料を作るための時間を イルカルラ: …… 人間さん: 姿を見た、それだけだろう?誰かが成りすましている可能性だってあるじゃないか! イルカルラ: なり……すまし…… (イルカルラの攻撃の手が止まる。何故かはわからないが、 何か思い当たるところがあるのかもしれない。俺は畳みかける。) 人間さん: そうだ!姿かたちを別人のように見せかける魔法とか…… (そこまで言って、俺もイルカルラのように、はたと止まった。口に出してみて気が付いたが、俺は……俺たちはその現象を、つい最近目にしたのでは……?) イルカルラ: そういえば、イナが…… ???: くだらないわね (イルカルラが何事か口にしかけたとき、エンリルの背後から声が聞こえた。 その声の主の姿に、目を見開く。) 人間さん: 雨依……!? 60169 - 決別 雨依: この世界でも、あなたは人気者なのね。 みんなに頼られて、それでいい気になっておせっかいを焼いて 人間さん: 雨依!よかった、無事だったんだな エンリル: 雨依……この人と雨依は、同じ世界の出身なのですか? 言われてみれば、どこかエネルギーの波長が似ていますが…… 雨依: ええ。でも、だからどうということはないわ。繋がりは別にないの。だって元の世界の住民は60億もいるのよ。同じ世界というだけじゃ縁とも言えないわ 人間さん: 一緒にオトギノクニに戻ろう。みんな待ってるよ 雨依: どうして? 人間さん: どうして、って…… 雨依: どうしてあなたは、私を連れ戻したいの?大して関わりもなかったじゃない 雨依: どうせ、親切で優しい自分に酔っているんでしょう?ここで私を見捨てたら、戻ったときに周りの目も気になるだろうし。でも、そんなことは―― 人間さん: そんなつもりじゃない。雨依が俺をどう思っていたかはわからないけど、 俺は同じ世界から来た者どうし、仲間だと思って――…… (ふとそこで思い当たり、言葉を切った。) (先ほど雨依は、元の世界の住民は60億と言い切った。しかし、オトギノクニの人口なんてどこにも統計はないはずだ。そして60億人という数字には、馴染みがある。) 人間さん: ……もしかして雨依は、人間界から来たのか……? 雨依: そんなことにも気づいてなかったの?呆れた人。エンリル、もう終わりにして エンリル: ……同郷なのでしょう?手を下してしまっていいのですか? 彼は今回の件にほぼ無関係、罪を問うつもりは…… 雨依: いいの、やって ヴェルメリオ: ……雨依っ……!人間さんは、あなたのために危険を冒してここまで来たんだよ! それなのに、そんな……! 雨依: 頼んでなんかいないわ。所詮、自己満足でしょ パイプル: ヴェル姉、あーしはあいつをぶん殴らないと気が済まないよ! ヴェルメリオ: ……奇遇だね。わたしもだよ 雨依: さようなら、人間さん エンリル: ……では、先に始末させてもらいましょうか。 アプスーなどの手下になった自分を恨んでくださいね ヴェルメリオ: ……人間さん、避けて! イナンナ: そこまでよ!!全員、動かないで!! イルカルラ: えっ、イナ……? イナンナ: 絶世の美女、イナンナさんの登場よ!みんな拍手! 60170 - 石板の真相 エンリル: いきなり割って入ってきてなんですか イルカルラ: いま、大事なところなんです。わけのわからないことで騒いで 場を乱さないでください。身内だと思うと恥ずかしいです…… イナンナ: イルが勘違いして暴走してるから止めにきたんでしょ! アプスーが信民を奪ったなんて言って、もう! イルカルラ: え……? アプスー: それって、イナンナはボクのこと…… イナンナ: ええ。アプスーは無実ですわ!! (イナンナが高らかに宣言する。場の空気が固まった。) (根拠は何も示されていないが、彼女は自然と周りの耳目を引く。 これもまた一つの才能なのかもしれない。) イナンナ: アプスーらしき相手は、イルに攻撃してきました。単純な、魔力攻撃で イナンナ: 何故、得意な水を操る能力を使わなかったのか?わたくしはそこで違和感がありました。なにせ冥界は地下深く。地下水ならいくらでもあるのですから イナンナ: そしてわたくしは見つけました。アプスーの姿をした者を尾行するとなんとたくさんのアプスーがいたのです。つまり、この時点で姿かたちはアテになりませんのよ イルカルラ: そんなことが……!? マルドゥーク: そして、複数のアプスーが残したものが、これ エンリル: マルドゥーク、貴方まで…… ティアマト: それって石板?なんなのよ、それ マルドゥーク: 私はこれを別の場所でも見た。そう、エンキに渡されたものだ エンキ: あ……あのときの!? マルドゥーク: これは見る者を惑わす幻術が仕込まれている。 バビロンではアプスーたちに、魔物を信民だと誤認させた イルカルラ: では……人間さんの言うとおり、見た目は何の証拠にも…… イナンナ: 信民の心は確かにアプスーに繋がっていたわ。誤解するのも無理はないけど ティアマト: アプスー以外が、アプスーに信民を繋いでも何の得もないわ。 ……でも、この状況を作るのが目的だとしたら エンリル: ……っ ティアマト: 例えばエンリル!アプスーを潰す大義名分が欲しいやつ、とかね! エンリル: なんですって!?私が意図的にアプス―をハメたと!? ティアマト: 他に誰がいるのよ! エンリル: ……そういう言いがかりをつけて、私を追放しようという、 貴方たちの野望かもしれませんよ ティアマト: あくまでも戦うつもり……?だったら、受けて立つわ!! 60181 - 天命の敗北 ティアマト: はぁっ、はぁっ……ここまでみたいね、エンリル……! エンリル: この私が……負ける、なんて…… (激しい戦いだったが、ティアマトはついにエンリルに膝をつかせることに成功した。) ティアマト: ……人間さん。助かったわ、アンタのおかげよ (視線を逸らしつつではあったが、素直な感謝の言葉を発するティアマト。 俺が受け渡したエルマイトが少しでも役に立ったのなら本望だ。) エンキ: お姉様……っ! エンリル: ああ、エンキ……私は、ただ……エンキを守りたかっただけなのよ。 それだけ、なのに…… エンキ: ……あのとき、私はアプスーさんを疑っていませんでしたよ。 もし弾劾する前に相談してくれていたら…… エンキ: ……いえ。お姉様のお考えに気付けなかった私にも非があります。 折り合いが悪かったのは明らかなのですから エンリル: エンキ…… アプスー: えっ……そ、そうなの……? もしかしてエンリルは、ボクのこと前から嫌いだった……? ティアマト: は?な、なに言ってるのよ、いまさら マルドゥーク: ことごとく意見も対立していたようだった イナンナ: それでエンリルもイラついてたじゃないの イルカルラ: 私は不参加なのでノーコメントです。しーん アプスー: そ、そうだったんだ。 ノリが違うなぁとは思ってたんだけど、そんなに嫌われてたんだ…… エンリル: 好き嫌いの問題にされてしまうと私も不本意なのですが、感情的にも良くは思っていませんでしたね。本当に気付いていなかったんですか……? アプスー: ちょっと……ショ、ショックかも…… ティアマト: おっそ!! オーディン: アプスーさんって良い意味で鈍感なのでしょうね…… パイプル: え、いまのこの状況で良い意味になる? カプーズ: 自分の心を守るためには良いことなんじゃないかしら ヴェルメリオ: ……じゃあ、アプスーはエンリルのこと嫌いじゃなかったの? アプスー: あんまり仲良くはなれないなって思ってたけど、 別に嫌いとか……邪魔しようと思ったこともないんだけどな…… エンリル: 貴方、本気ですか ティアマト: ま、まあ、アプスーってこういうやつなのよ。 さすがにいまのは、あたしもびっくりしたけど ティアマト: マイペースだし、天然なの。 でも考えが違うからって、蹴落としてやろうなんて絶対考えないから エンリル: ……結局は、私がひとりで被害妄想に陥っていたのですか 60182 - 天命の代償 ティアマト: 被害妄想っていうけど、なんでそんなに後ろ向きなのよ アプスー: そ、それは性格の問題だから……し、仕方ないっていうか…… エンリル: そうですね。生来の性分なのでしょう。ただ……アヌ様からこれを預かったときから、よりその傾向は強くなってしまったのかもしれません マルドゥーク: それは『天命の粘土板』? エンリル: 私が知りたいと望めば、この世界で起きるすべての事象を知ることができます エンリル: 人の心までも―― (例えば、町の北側に用水路を作るときも――) 信民1: あーあ、面倒だな。こんなのμの力でぱぱっと作れないのかな 信民2: エンリル様がやれっていうんだから仕方ないさ イナンナ: んもー、めんどくさーい。 涼しいところで冷たいもの食べてエステ受けて髪のお手入れして昼寝したーい 信民1: イナンナ様、なんとかなりませんか イナンナ: だってエンリルがうるさいんだもん (川の護岸工事を進めているときも――) 信民1: こんなの、作りたいやつがやればいいのに 信民2: それ言ったらエンリル様ひとりになっちゃうな。ぷぷっ アプスー: み、みんな、元気……?疲れてない……? 信民1: あっ、アプスー様、ティアマト様。もう勘弁してくださいよ、 我々はアプスー様の信民なのになんでエンリル様の近所の護岸工事なんて アプスー: そ、そうだよね。かわいそう。やっぱり別行動がいいのかな ティアマト: 次からはもう参加するのやめる? エンリル: こんな具合に、すべて事象は把握していたんです イルカルラ: とりあえずイナンナはギルティ。びしっ イナンナ: なんでよっ、ティアマトとアプスーだっていやな感じだったじゃないの! ティアマト: ……あんたをバカにするつもりはなかったわ。 でも……そうね、知ったら不信感を持つのは当然、なのかな…… アプスー: ご、ごめんね……? ティアマト: でも、それを使えばアプスーが無実だってことくらい……! エンリル: 見ていませんから。見るたびに自分への批判、非難、中傷……そんなもの使わなくても事態の把握はできるんです。信民を組織化して指揮系統を作っておけば エンキ: 姉さん…… エンリル: 私のために行動してくれたのは、エンキだけだったんです。だから信じられるのも…… ティアマト: でも結局それで見えるのは事実だけ、心までは見えないんでしょ エンリル: あの当時、私にそんなふうにポジティブに考えられる、 余裕があればよかったのかもしれませんね…… 60183 - 石板の出所 エンキ: でも、関係がこじれてしまったことはお互いの問題だとして、 例の石板は話が違うと思うんです エンリル: 石板…… エンキ: 見る者を欺く……つまり、明らかな悪意が入りこんでいるように感じます。 一体、これは誰が何の目的で…… エンリル: その石板は、雨依から…… 人間さん: 雨依……!? エンリル: ええ、雨依は一体どこから……? (エンリルは自分の背後を振り返るが、そこには誰もいない。 その場の誰もが、自分の周囲に視線を送る。しかし、雨依の姿は見当たらない。) ティアマト: このタイミングでいなくなってるなんて、真っ黒よ! その雨依とかいうやつが裏で糸を引いていたんでしょ! アプスー: ちょ、ちょっとティアマト…… ティアマト: あっ……! (気遣ってくれたアプスーがティアマトを制する。 俺が雨依を探していることは、彼女たちにも話してある。) 人間さん: 雨依が……? ヴェルメリオ: ……でも、異世界から来た雨依がいきなり石板なんてものを作りだして、 何かしたってこと?ちょっと変じゃないかな パイプル: さっきおにぃをやっちゃえ、って言われてブチギレてたのに。 ヴェル姉って、ガチ大人だわ~ エンキ: でも、ヴェルさんのいうとおりですね。違和感があります。そもそも、今回はともかく最初の疑惑のとき、彼女はまだこの世界に来ていなかったのでは? マルドゥーク: そうだな。あの少女が無関係とは思えないが、すべての黒幕とするには無理がある アプスー: じゃ、じゃあ……ボクが追放されたときは、い、一体誰が ???: 誰、だって?そんな者は存在しない、としたらどう? アプスー: え……? (聞き慣れない声の投げかけに、自然と全員の目が向く。 そこには、おそらくμと思われる風格の少女がいた。) エンリル: アヌ様……! アヌ: この石板が一体どうしたって~? エンリル: 私は……愚かにも欺かれていたのです、何者かに アヌ: ……ん~ アヌ: それは、事実とは限らない (どこかふわふわしていたアヌの口調が、唐突に引き締まる。 そして鋭い眼光を俺たちに向けた。) 60184 - アヌの主張 エンキ: しかしアヌ様、この石板には見る者を惑わせる術が仕込まれていて 目撃証言の信頼性はすべて失われました アヌ: それはアプスーちゃんだという証拠がなくなった、というだけ。 直ちに、アプスーちゃんへの疑いが晴れることにはならない ティアマト: そんなの屁理屈よ!! アヌ: 屁理屈?事実では? ティアマト: なっ…… アプスー: うん、アヌのいう通りだよ。ボクとは限らない、っていうだけ。 一周回ってやっぱりボクでした、って可能性はあるんだよ (当のアプスーはあくまでも冷静だ。個々の性格の問題もあるのだろうが、本人だからこそ感情を乗せすぎずに落ち着いていられるところもあるだろう。) エンキ: でも本当に、魔物が信民に見えたのです。お姉様から預かった、その石板で……! アヌ: そのことを疑ってはいないんだよ~?本当に見えたんだよね。私もそう思うよ マルドゥーク: 関係ない、と? アヌ: 例えば冥界のできごとは? アプスーちゃんに信民が紐づけられてしまっていたのは事実なんだよね? イルカルラ: ええ……それは、間違いなく アヌ: つまり利益を手にしたのはアプスーちゃんだ エンリル: その理屈ですと、最初の事件も…… アヌ: そう、エンキちゃんやイナンナちゃんたちの信民はアプスーちゃんに紐づけられていた。 つまり、利益を得ている ティアマト: そんなの誰かが勝手に送り付けただけよ! アヌ: 百歩譲って、ティアマトちゃんのいうようにアプスーちゃんの あずかり知らぬところで行われていたことだとしよう アヌ: だとしたら誰が、この可能性を想像できるの? 第三者が勝手にアプスーちゃんに紐づけただなんて ティアマト: それは…… アヌ: あなたたちが最初からそう主張していたならわかるよ。 でもイナンナちゃんが持ち込んだ話に乗っかってるだけ エンキ: けど、それでは…… アヌ: 私にはこう見える。証拠に基づいて処分を下したエンリルちゃんに不当な扱いだと抗議する口実を作り、大義名分のもとに全権を奪おうとする逆賊であると アプスー: そ、そんなっ、だ、大それたこと……っ アヌ: 少なくともエンリルちゃんが一方的に謝罪させられるようなことじゃない。 だって、間違ったことをしていないんだから エンリル: アヌ様…… アヌ: そのために、私は戦う 60185 - 決戦へ アヌ: では……場所を変えようか アプスー: あっ!? エンリル: アヌ様っ!? (アヌは、エンリルとアプスーを抱え込むと、そのまま穴の開いた天井から夜空へと飛び立つ。小柄な彼女のどこにそんな力があるのかと驚かされるが……。) ティアマト: ちょ、ちょっと!待ちなさいよ! ヴェルメリオ: ……行こう、人間さん (ヴェルメリオにうなずき返し、俺たちも急いで城を出た。) (ふたりを連れてアヌは町はずれの荒野へ向かう。 エンリルは戸惑いながらも、口を開いた。) エンリル: アヌ様……どういうおつもりですか アヌ: え?だってあれ以上お城を壊しちゃったら大変でしょ エンリル: いえ、場所を移した意図を聞いているのではなくて、その…… アプスー: ボ、ボクが本当にやったと思ってるの……? アヌ: ………… (アプスーの問いかけに、アヌはしばし沈黙する。 夜空を滑りながら、アプスーとエンリルは顔を見合わせた。) (互いにアヌに抱えられた不安定な姿勢のまま。 それが初めて、彼女たちが正面から視線をぶつけた瞬間だった。) アプスー: あの、エンリル……ボク、きっと何か嫌な思いをさせたよね。 ずっと前から、ボクたちは……うまくいってなかったから エンリル: ……いえ。私も、手を携えてやっていこうと言いながら、 貴方のことを心から信じていなかった エンリル: 貴方は私の目を見ず、自分の口で語らず、意見に批判的だった。 でもそれは、貴方の個性……裏切りと直結するものではなかったのに エンリル: 私は普段の言動から疑いを深めてしまった…… アプスー: う、ううん。ボ、ボクもたぶん、 態度悪く見えてただろうなっていまでは反省、し、してるよ…… アプスー: ……ねえ、アヌ。これから、戦うの? アヌ: おそらくは アプスー: どうして…… アヌ: 私はあのときエンリルちゃんに何の知恵も授けず、任せきりにしてしまったからね。 すべての責任は、私にあるんだ エンリル: アヌ様…… エンリル: (アヌ様は……アプスーを本気で疑っているわけじゃなくて…… これは私のための戦いなんだ……) (ようやく追いついたとき、アヌは既にふたりを解放していた。 そして、俺たちの姿を見ると再び宙に舞う。) アヌ: それでは始めようか ティアマト: まさか、アヌとまでやり合うことになるとはね アプスー: ねえ、本当に戦わなきゃだめ……? (3人だけの間でどんなやり取りがあったのか、 アプスーはアヌに戦わずに解決できないかと縋る。) アヌ: ……それはできない相談だよ 60186 - アヌの実力 アヌ: さっき言った通り、エンリルちゃんは何も間違っていない。 だからアプスーちゃんたちの『言いがかり』に屈したらだめなんだ アヌ: そして、私も指をくわえて見ているわけにはいかない。 だから戦わなくちゃいけない アヌ: 戦って、ぶつかり合って、結果……敗者が勝者に従う。 それは古から続くルールでしょ? エンリル: それなら私が誤りを認めて謝る必要はない、と……? ただ戦争に負けて従っているだけだからと、そういうことですか アヌ: それが任命責任を負う私にできることだよ。 エンリルちゃんひとりに背負わせて幕引きなんて、私はしたくない…… アヌ: もっとも、それはあなたたちが私に勝てるっていう前提だけど。 このアヌに果たして勝てるか……試してみようか (アヌが手にした王杓はから光が迸る。それは杓を柄に見立てた剣だった。) イナンナ: あれは……アヌの、星光の剣!! イルカルラ: アヌ様は本気です……皆さん、伏せて! アヌ: はあああぁぁぁぁあああぁぁぁっ!! ティアマト: うあああぁぁっ!? オーディン: こ、これが……アヌさんの力ですか……! イナンナ: いったぁ……!? (誰かに解説を求めるまでもない。ティアマト、オーディン、イナンナと それなりに武闘派のμが軒並み蹴散らされたのだ。) イルカルラ: ここは私がまいりましょう。 アヌ様に対抗できるとしたら、きっと私くらいです。きりっ イルカルラ: 参ります、はぁっ!! アヌ: 残念だけど イルカルラ: なっ……!?そんな、いくらアヌ様相手でも、私の攻撃が全く通用しないなんて…… アヌ: どうやら、私はひとりじゃないみたいだから (アヌの視線を追ってみれば、そこには粘土板を手にしたエンリルの姿が。) エンキ: あれは、天命の粘土板!お姉様!? エンリル: アヌ様が私のために戦うと仰ってくださるんです。 私もできる限りの力添えは当然します イルカルラ: ……そうでしょうね マルドゥーク: イルカルラがダメなら、アヌに対抗できるμなんているのか? ヴェルメリオ: ……なら、わたしがやる 60187 - かつての同志 カプーズ: やっちゃいましょ、ヴェルちゃん パイプル: ヴェル姉、援護はまかせといて! (ヴェルメリオが一歩進み出た瞬間、彼女の姉妹分である2体の精霊も実体化する。) マルドゥーク: そうだったな。私を打ち負かしたヴェルなら、きっと イナンナ: くうーっ!ここはわたくしの見せ場になるはずなのにーっ! (ヴェルメリオを見据えたアヌは、ふわりと再び空中に浮く。 そしてこちらを見下ろした。) アヌ: その気配……キか アプスー: キって……? アヌ: かつての私の相棒だよ。一緒に長い時間をかけて、この世界を創った。 大地を、空を、風を、川を作り……育てていった アヌ: 私とキは、いつも一緒だった。 くだらない会話でいつも笑い合って、ふざけあって、楽しかった…… アヌ: この世界の礎になるために、その身を捧げるまでは アヌ: キの力を宿した貴方は、その化身とも言うべき存在。相棒を失って虚無感に陥り、責任を放棄した私を諫めるにはこれ以上の適任はいないかもしれないな ヴェルメリオ: ……アヌ ヴェルメリオ: ……カプ姉、パイプル。手は出さないで。ここはわたしとアヌの一騎打ちで決めるから カプーズ: ええっ、そんなヴェルちゃん!危ないわ! パイプル: カプ姉、ここはヴェル姉のバイブスをリスペクトしなきゃ。過保護すぎると嫌われるし カプーズ: だって!パイプルちゃんは心配じゃないの!? パイプル: 心配だけど、ヴェル姉がああなったら聞かないの、カプ姉だって知ってるっしょ (俺だってヴェルのことが心配だ。 でも、パイプルの言う通り……ここは彼女の判断に任せて見守ろうと決める。) (本当はありったけのエルマイトを渡しておきたいところだが きっと彼女はそれすら良しとしないだろう。) ヴェルメリオ: ……それじゃ、いくよ アヌ: うん。手加減、いらないからね (次の瞬間、その場の空気が振動する。おそらくふたりがぶつかりあったのだろう、 とは想像できたがとても目で追えるものではなかった。) アヌ: やっぱり、キの力だね。ふふっ、懐かしい ヴェルメリオ: ……まだ、そんな余裕あるんだね (星光の剣と呼ばれていた大剣を振るうアヌ。それを斧で弾き飛ばすヴェルメリオ。 さらには――) イナンナ: 空から何か降ってくるわよ! 人間さん: あれはまさか――隕石!? (アヌの手ぶりに応え、夜空から光る小粒の石が飛来する。 間違いない、あれは極小サイズの隕石だ。) 人間さん: まずい、みんな伏せろ! (俺のいくばくか持っている隕石の知識で考えれば、着弾した瞬間に 衝撃波が周囲に拡散する。みんなにそう声がけするが――) ヴェルメリオ: ……大丈夫だよ、人間さん (轟音が鳴り響くが、衝撃波は俺たちには届かなかった。 その代わり、変形してせり上がった地面がそびえたっていた。) 60188 - あの日の記憶 パイプル: これ、ヴェル姉が……? (そびえる隆起した地面が、隕石を頭上で受け止めていた。 衝撃波は生じたのだろうが、俺たちよりもずっと上空で散ってしまったのだろう。) アヌ: それも、懐かしいね。 そうか、キはこの世界の地を盤石にするために身を捧げたんだっけ ヴェルメリオ: ……捧げた、なんて思ってないよ。キは アヌ: 勝手なこと……言わないで (再び、隕石が降り注ぐ。 ヴェルメリオは地面に斧を突き立て、地面を隆起させて盾を作った。しかし――) ティアマト: 軌道が変わった!? (直線的であるはずの隕石が、隆起した地面を避けるように突如、カーブを描いたのだ。) エンキ: まさかアヌ様の意志に従って……!? パイプル: ヴェル姉、危ない! ヴェルメリオ: ……わかってる、大丈夫 (隆起した地面から岩肌が伸びる。枝分かれする植物のように、 これもまた意志を感じさせる動きでカーブした隕石を砕いた。) アヌ: なるほど、キはずいぶん貴方に肩入れしてるみたいだね。そんなに私を倒したいのかな ヴェルメリオ: ……止めたいだけだよ。どうして倒したがってるなんて思うの アヌ: 勇気をもって行動したキに対して、私は地上に残って逃げた。 そんな私をキは許さないだろうからね ヴェルメリオ: ……それは違うよ アヌ: 私を揺さぶろうなんて甘いよ (降り注ぐ小隕石は次々にヴェルメリオを襲う。そのどれもが不規則な軌道で、 ヴェルメリオはそれを防ぐので手一杯になり反転攻勢に出られない。) ヴェルメリオ: ……くっ!はぁっ、はぁっ、ううっ! (お互いに、能力を使えば消耗する。) アヌ: はぁっ、はぁっ……ずいぶん粘るね。 でもキ本人じゃない、疲れてくれば術のコントロールもいずれ甘くなる…… (ヴェルメリオはもちろんアヌにも疲労の色が見えている。しかしμのアヌに対してヴェルは異世界から来た存在とはいえやはりμそのものではない。その差が徐々に表れていた。) ヴェルメリオ: ……くうッ!? 人間さん: (このまま……なんてことになったら……!いや、信じるんだ) 人間さん: (ヴェルメリオは幾度も共に苦難を乗り越えてきた。 彼女の実力を心から信じる、それしか俺にできることはない) ヴェルメリオ: ……っ!? パイプル: なにあれ!?ヴェル姉の身体が光って……!? アヌ: これは……!?キの力とはまた、違う……だが、強力な…… ヴェルメリオ: ……人間さんの温もりを感じる。でもエルマイトじゃないみたい アヌ: バカな……あれだけ消耗していたのに、これほどの力を……!? ヴェルメリオ: ……もう、終わらせよう。この戦いも。自分を責めるのも アヌ: ――っ!? 60189 - それぞれの覚悟 アヌ: 私は……負けた、のか…… アヌ: ……なんだ?何かが、私の意識の中に入り込んできて……? キ: ねえ、アヌ。これ見て、チグリス川がこんなにきれいになって アヌ: 本当だ。魚が泳いでるよ キ: 水は、地と空が交じり合った結果なんだよね アヌ: 私たちの世界創りがうまくいってるってこと? キ: きっと、そう。あと、少しだね アヌ: まだ足りないの? キ: 地を安定させたいんだよね アヌ: ふうん……? キ: (今日こそ言わなきゃ……アヌとはもうお別れして、 私は地そのものとなってこの世界を見守るんだって……) キ: (本当はそんなの怖いけど、でも) アヌ: 私たちの世界、いつまでも美しいままだといいなぁ~。だってせっかくこんなにがんばったんだし。もう一度やれっていわれても、気力が起きないよ キ: あはは……まあね。もう1回は辛いなぁ キ: (怖いけど、私と作った世界をアヌが見守ってくれるなら……私は世界そのものになるんだから、それはきっと、私のことをアヌが見守ってくれてる、ってことだよね) アヌ: んー?どうしたの? キ: ちょっと、話があるんだけど キ: (アヌが笑顔で過ごせる世界のためなら、きっとできる。私は、怖くない) キ: 私、消えようと思うんだ アヌ: (ああ……いま、のは……?) アヌ: (キの記憶……?) エンリル: アヌ様……っ! (唐突に生じた光に包まれたヴェルメリオは、それまでにない強力なエネルギーを手にしていた。それはふたりの間に大きな差を生み、そして勝負の帰趨は決したのだった。) ヴェルメリオ: ……人間さんの力が流れ込んでくる感じがした。 でも触れてもいないのに、どうして…… オーディン: そ、それはおかしい、ですよね……? 人間さんの力って、直接触れることで得られるものですし…… アヌ: あなたたちは、まるでμと信民を見ているようだったよ…… (アヌは、それだけ言うと、ついに地面に大の字になってしまった。) エンリル: アヌ様……私のために…… ヴェルメリオ: ……ねえ、それって人間さんが信民になっちゃってるってこと? オトギノクニの住民になったみたいに…… 人間さん: そんなつもりはないんだけどな…… (しかし仕組みがわからない以上、必ず自分の意志が介在するとも限らない。 俺は言い知れぬ不安をおぼえる。) ヴェルメリオ: ……きっと愛の力だよ。ラブマイト。わたしと人間さんにだけ存在するの パイプル: ごめんヴェル姉、ちょっとキモい ティアマト: あんた根暗なわりにポジティブよね ヴェルメリオ: ……根暗じゃないから エンリル: アヌ様……私が不甲斐ないばかりに、こんな…… (一方で、倒れ伏したアヌの傍らで、エンリルがその手を取っていた。 続いてエンキも、そのそばへ向かう。) エンキ: アヌ様、私からもお礼申し上げます。お姉様のために…… アヌ: ん……最初はそう言ってたんだけどね。途中で気が付いちゃった。 私はね、禊がしたかったんだよ アヌ: 世界の礎になると決意した相棒に対し、私はこの地上に残って見守ることを選んだ……。簡単なことだよ、怖かったんだ。だから理由をつけて逃げた ヴェルメリオ: ……キだって、簡単に覚悟できたわけじゃないんだよ アヌ: わかっているよ。貴方を通じて、キの記憶が流れ込んできたんだ。だから…… アヌ: ……私が見守っていると信じてたから。それで覚悟が決まったんだね…… ヴェルメリオ: ……わたしは、そう聞いた アヌ: それも言葉にしてくれていればいいのに…… ずっと罪の意識にさいなまれていた私はなんなんだか…… (アヌは、そのまま静かに目を閉じた。どうやら気を失ってしまったようだ。) (しかし、その表情は何かから解放されたようでもあって――) 60190 - 和解 エンキ: アヌ様は? エンリル: お部屋で休んでいただいているわ。大事はなさそうね エンキ: よかった…… ティアマト: そりゃそうよ。あれで死なれたらあたしが悪者だわ エンリル: 悪者ということで言うなら……まずは謝罪させてください。 アヌ様が弁護してくださったように、いくつかの事情はあります。 しかし結果、私はアプスーを悪と決めつけ、追放しました エンリル: それが誤りであり、貴方を苦しめたことについては詫びなくてはなりません アプスー: う、ううん、大丈夫。その……ボ、ボクが、あんまり、 エンリルのこと助けてあげなかったのは本当だし…… (激闘の後、俺たちはエンリルの城に戻っていた。アヌは部屋で休んでいるが、他のμは勢ぞろいしている。おそらくは、アプスー追放事件以来だろう。) オーディン: なんか……ま、丸く収まりそうでよかったですね。 さすが、人間さんです……! 人間さん: いや今回、俺はほぼ何もしてないだろ ヴェルメリオ: ……もしそうだとしても、何かしようとはしてたでしょ。 それって、周りにいろんな影響が出るんだよ 人間さん: それなら、ちょっと報われるな エンリル: きっと、私たちは合わないと思うんです アプスー: う、うん、ボクもそう思う エンリル: 私は物事をハッキリさせたいし、何を考えているのか言葉で 意見表明できない人にどうしても不信感を持つ傾向にあります アプスー: ボ、ボクはそういうの苦手で……あと、みんなで何かしたりも、 やることの規模が大きすぎるのも、怖くなっちゃう…… パイプル: え、これ大丈夫そ?またケンカにならない? ティアマト: ことと次第によっては…… カプーズ: 大丈夫よ。あれはね、そういうのじゃないの エンリル: でも、今回のことでようやくアプスーのことを知れた気がします。 だから、もう少しだけうまくやれると思うんです アプスー: うん……ボ、ボクは、エンリルのことも独りにしたくないよ エンリル: 正直、隅でこそこそティアマトと喋っている姿は、 何かを企んでいるようにしか思えなくて ティアマト: あんたはネガティブに考えすぎよ アプスー: でもボクたちも、き、気を付けるね……! イルカルラ: どうやら丸く収まったようですね。では、そろそろ冥界に帰ります。 この度は本当にご迷惑をおかけしました イナンナ: まったくですわよねー!?わたくしが止めてあげたから良かったけど、 あのままだと取り返しつかなかったわよ! イルカルラ: …… イナンナ: というか今回の立役者ってわたくしでしょ!?大活躍でしょ!? もっとみんなでわたくしのことを褒め称えてもいいのよ! マルドゥーク: いうほど見せ場ってあった? エンキ: どうだったかしらね イナンナ: マルドゥークのほうが目立ってませんでしたわー!ぶっぶー! マルドゥーク: ええ……?別に目立ちに来たわけじゃないし エンキ: 子どもみたいね、イナンナさん イナンナ: はあ!?こんなアダルティでお色気満載の子どもがどこにいるのよ! ほらっ、ボンッつって、キュッつって、ボンッ! イルカルラ: 誰も見てませんよ。はぁ 人間さん: …… ヴェルメリオ: ……人間さん、見ないで パイプル: おにぃは正直だなぁ ヴェルメリオ: ……うちのダンナがすみません ティアマト: ダンナっていうんじゃないわよ! 人間さん: (なんか、こう賑やかだと余計に……考えてしまうな) 人間さん: (雨依は今頃、どこで何をしてるのか……) 60191 - 線を超えて (薄暗く、湿った空気が支配する狭苦しい洞窟。 私が逃げ込んだのは、お似合いの陰鬱な場所だった。) 雨依: どうして……。どうしてなのよ!! (足元に転がる石を蹴り飛ばすと、音を反響させながら奥へと転がっていった。) (お気に入りだったダブルバックルの靴はとうに表面が剥がれ汚くなっている。 もう、どうでもいい。どうせ汚いんだから、もう少し傷がついたって同じ。) (私みたいに。) 雨依: もう……本当に後戻りできないのよね、私…… 雨依: 人として、とっくに終わってたけど…… 超えちゃいけない線、余裕で踏み越えてたけどさ…… 雨依: 好きな人を攻撃してもいいなんて、あんなことまで言っちゃえる…… 雨依: (きっともう私は化け物なんだ) (それでも声に出すのが怖くて、私は最後のフレーズだけは頭の中で反芻した。) ???: こちらへ……私の声を頼りに進むのです……迷える少女よ…… (反芻したフレーズに割って入るように、声が聞こえた。 涼し気な、余裕のある、ちょっと気取った女の声だ。) (声は透き通ってきれいだけど、落ち着いた話し方からかちょっと年齢を感じる。) ???: 私は……貴方を導く存在……さあ、こちらに来るのです…… 雨依: ……っ、知ってるわよ。あんたの声に従って、 こんな荒れ果てた世界にまで来てやったんじゃないの 雨依: その結果がこれ。期待に沿えなくて悪かったわね。 もうそろそろ、あんたも私を捨てるんでしょ? ???: いいえ……あなたが輝ける場所は必ずあります……。 あなたこそが世界の希望なのですから…… 雨依: 私、別にそんなものになりたくないわ (世界なんて規模の大きなものに必要とされたって、重圧はすごそうだし、ストレスフルになるだけだ。私はたったひとりに必要とされたい。それで十分幸せ。) 雨依: 誰かに愛されたい。ううん、愛したい、のかな…… (私は人間さんのこと、愛してるのかな。よく考えたら、そんな相手はこれまでいなかったから確証がない。愛だと思ったのは、いつだってまやかしだった。) ???: さあ、光の道へ進むのです……あなたを必要とする、希望の世界へ…… 雨依: …… (バカバカしい。こんな言葉に騙されるほどピュアなら苦労はない。 これは地獄への道だし、私を誰も必要としない絶望の世界だ。) (だけど――) 雨依: いいわ、行くわ。どうせここには居場所がないんだから 雨依: すべて壊して、私が私を必要とすればいいの。そうでしょう――? (私は後戻りできない一歩を踏み出した。世界を区切る線を超えて。)