100001 - 物語のはじまり (徐々に、焦点をぼかしていく感覚。) (目の前に実在する物体から意識を切り離すようにしていけば、 境界線が曖昧になっていく。) (彼女はそうしていつも、『視』ていた。) ???: (いつもと……少し風景が違う……?) (燃え盛る炎。) (飛び交う怒号と悲鳴、血に濡れた自分自身の手。) (そこまでは、普段と変わらない恐るべき風景。) ???: ………… (だが、彼女が『視』ている風景の中にいる、彼女自身――) (その前に立ちはだかる者がいた。) ???: だめだ! この子に手出しはさせない! ???: (男の……ひと……?) ???: (この子……? 風景の中のわたしは、いったい誰を捕らえて……) ???: あなたは私を殺したいのね ???: (――っ!?) (風景はそこで急に途切れた。) (襲ってくる頭痛に顔をしかめながら 彼女は『視』たものを反芻する。) ???: (知らない男の人……。 それに、最後の一瞬……出てきたあの子は誰……?) ???: (あの人たちも関係あるの……? 『黄昏』に……) ピュルテ: 人間さん、お疲れ様でした! 皆さん、とっても喜んでくれていますよ 人間さん: そっか。それなら良かった ヴェルメリオ: ……人間さんはえらいよね。 誰かの役に立とうって、いろいろ自分で考えて行動に移して (最近始めた、エルマイト治療。) (その活動のために、コミッティ直轄領からほど近い村に来ていた。) (ピュルテやヴェルメリオも、手伝うといってついてきてくれている。) 人間さん: いや、ふたりこそ本当にありがとうな。 俺に付き合ってもらっちゃって ヴェルメリオ: ……人間さんががんばってるんだもん。 そばで支えるのが妻の役目だから ピュルテ: 私だって同じ気持ちですよ! ピュルテ: つ、妻とまではその、言い切る勇気はありませんけど…… (この世界――オトギノクニにおいて、重要なエネルギーのひとつであるエルマイト。) (俺はそれを大量に身体から生み出すことができる体質だった。) (その能力を活かしながら世界を救うための旅を続け、ようやく腰を落ち着けることができたのだった。) (ピュルテもヴェルメリオも、その旅を共にした仲間たちだ。) ヴェルメリオ: ……わたしたちみたいに物語を持っていない、 こういう普通の村のおじいちゃんとかにも エルマイトってあげられるんだね 人間さん: 最近わかったことなんだけどね。 手をかざせば、ほんの少しだけどエルマイトを送ることができるんだ ピュルテ: ちょっとした肩こりとか腰痛なんかが治るんですよね。 これで1回100ゴールドは破格ですよ! 人間さん: まあ、お金を儲けたいわけじゃないしな (オトギノクニの意思決定機関、インペリウム・コミッティの委員に就任したものの、平時は特に仕事があるというものではない。) (もちろん報酬は支払われるので生活には困らないのだが、 時間だけが余ってしまった。 どうにか有効活用しようと考えた結果が、この活動なのだった。) ヴェルメリオ: ……ならタダにすればいいのに 人間さん: お金を受け取らないと責任感みたいなものが薄れちゃうからな。 『してやってる』みたいな上から目線を持たないようにもしたいし ???: へぇー、なるほどー。 人間さんくんも、いろいろ考えてるってわけね ピュルテ: レオナさん!? それに、雨依さんも レオナ: グリムの屋敷にちょっと顔を出したついでに、 人間さんくんとも遊ぼうかと思ったのよ。 そしたら今日は、この村に出張中だっていうもんだから 雨依: 人間さん……その、ひさし、ぶり…… 人間さん: ああ、久しぶりだな レオナ: なーにもじもじしてんのよ。 いまさらブリッコしたってしょうがないじゃない 雨依: だ、だって本当に久々だから緊張しちゃうのよ! もう、レオナはうるさいっ レオナ: 誰がここまで連れてきてやったと思ってんだか ピュルテ: ふふっ、相変わらずおふたりはいいコンビって感じですね (--) ピュルテ: あれ? なんか薄暗いような…… 住民1: う、うわああっ、あ、あれを見ろ 住民2: えっ? うわ、目が! レオナ: ははぁん、どうやらこれはアレかな? 人間さんくんたち、空を見るならこれを使ったほうがいいよ ピュルテ: これは……双眼鏡? レオナ: 特殊な加工をしてあるの。 じゃないと、太陽なんて直接見たら目が大変なことになっちゃうからね ヴェルメリオ: ……そうなんだ。 見たらまぶしいなと思ってたけど、あれって良くないことなんだね レオナ: 視力が悪くなったりするらしいよ。 それよりピュルテ、どうなってるの? ピュルテ: あー、これ皆既日蝕ですね 人間さん: 日蝕……ってオトギノクニでもあるんだ レオナ: え、マジで!? ピュルテ、ちょっと双眼鏡返して。 私、実際の日蝕をじっくり観察したことないのよ! ヴェルメリオ: ……にっしょく? みんなそれ、知ってるの? わたし、世間知らずだから…… ピュルテ: いえ、オトギノクニではあまり…… 私は人間界に行ったときに知ったので ヴェルメリオ: ……あ、そうなんだ。 人間さんも当然、人間界で知ったんだよね。 あれ、じゃあ…… レオナ: うわ―! これ感動するなぁ! 人間さん: オトギノクニでも太陽と月があってそれぞれ回転してるのかな。 じゃないと日蝕って起きないもんな…… 雨依: 何十年に1回だけ、ふたつの星が重なり合う…… すごくロマンチックだと思わない? そんな場面に居合わせるっていうのもなんだか運命的…… (その夜――) ピュルテ: 見つかったって本当ですか? 村長: ええ、この通り怪我もなく…… 本当にお騒がせして申し訳ない ヴェルメリオ: ……ううん、無事だったならそれでいいの レオナ: 村の子供が行方不明、なんて聞いたときは焦ったけどね。 見つかってよかったわ 子供: ごめんなさい…… ピュルテ: でも、こんな夜中まで何をしてたの? 子供: わかんない。こんなに時間経ってるなんて思わなかったんだ。 大騒ぎになっててびっくりした レオナ: ふうん……? ヴェルメリオ: ……あっ、ねえ、人間さんがまだ探してるんじゃない? 村長: ああ、ご安心ください。村から森に向かってアナウンスを流します ピュルテ: それなら、人間さんもそのうち戻ってきますよね 人間さん: おーい! 聞こえるかー! 探しに来たぞー! 人間さん: いなくなってから、かなり時間が経ってんだよなぁ……。 なんとか夜明けまでには見つけてやりたいとこだけど (だいぶ森の深い場所まで捜索範囲を広げるも、手がかりすら見つからない。 いくら子供とはいえ、迷っている自覚があるならむやみに移動しないと思うのだが……。) 人間さん: 洞窟……? (もしかするとこの洞窟で雨露をしのいでいるかもしれない。 中に入れば捜索の声も聞こえないだろう。 一縷の希望を持って中へと足を踏み入れた。) 人間さん: おーい、いるのかー? 返事をしてくれー! 声を出せないなら物音を立てるだけでもいいからー! (--) 人間さん: !? 人間さん: いまの……まさか入口が崩れたのか……!? くっ……外の光が入ってこないと、暗すぎて方向もわからないぞ。 とりあえず明かりを確保しないと…… (ポケットに入れておいた非常灯を取り出す。 光魔法が込められた魔道具で、スイッチひとつで明かりが灯るという。 捜索開始の際に村から配布されたものなのだが……。) 人間さん: 点かない……? こんなときに故障かよ (何かないかと荷物を探ると小さな箱が指先に当たった。 確かこれは、先日会ったアンナマリアからもらったマッチだ。) 人間さん: 足元に枯草が少し落ちていたはずだ。 これを手探りでなんとかかき集めれば…… (弱々しいながらも明かりがつき、周囲の状況が少しはわかる。 同時に、炎のおかげでわずかな空気の流れも見つけることができた。 魔道具ではこうはいかなかっただろう。怪我の功名だ。) 人間さん: こっちから風が流れてきているみたいだな。 もうひとつ出口があるんだろう…… (どれくらい洞窟を進んだだろうか。) (途中、破壊された非常灯が転がっていた。俺と同じ型のものだった。) (やはり、この洞窟内に子供はいるのだろうか。) 人間さん: (いや、待てよ……あれは捜索隊に配布されたものじゃ……) (はっきりと肌で感じられるほどの風が流れ込んでくる。) (ほとんど消えかけだった炎は吹き消されてしまった。) (だが。) 人間さん: (外の光がうっすら見える……! よし、出口だ……!) (はやる気持ちを抑えきれず、早足で出口へと向かう。) (そして洞窟から外へ出た瞬間――) (--) (巨大な樹木が天を衝くように枝を伸ばす姿が視界に飛び込む。 そして、肌を刺す乾いた空気。) (どこまでも広がる平原と、ごつごつした山がちな地形。 その奥、地平線の向こうに見える稜線。) (それは見たことのない風景だった。) 人間さん: ここは……どこなんだ……? 100002 - 新たな出会い (目の前に広がる風景に、俺はただ唖然としていた。) (ふらふらと歩きだせば、踏みしめた地面は整備されてない自然のままの道だった。) (雪の女王エリーネアが治める雪の国かのような空気の冷たさだが、積雪はない。) (それに、俺がいたのはコミッティ直轄領だ。) (そう簡単に移動できる距離ではない。) 人間さん: じゃあ、ここはどこなんだよ…… (周囲の様子を探りながら、慎重に進む。) (立ち尽くしていても仕方ないし、洞窟に戻るわけにもいかない。) (入口は崩落しているのだし、選択肢はひとつだ。) 人間さん: せめて誰かと会って話ができればな…… これじゃ手がかりがなさすぎる (そうひとりごちたとき――) ???: フシュウウウウ…… 人間さん: おっと…… (見慣れない姿の生き物だが、禍々しい気配を放っている。) (おそらく魔物の類だろう。) 人間さん: 話がしたい、って言ったんだよ。 人間さん: お前は絶対、会話とかできないだろ。お呼びじゃない (腰に挿した剣に手をかける。) (仲間のために自分も戦いたい。その一心で旅の間、鍛え続けた。) (そして最後にオトギノクニの住民となったことで、) (魔物相手にも戦えるようになった。) 人間さん: はあああああっ!! (--) 魔物: グガアアアアアアッ!! (--) (切り結ぶこと、5回。) (--) (--) (ようやく魔物を倒せた頃にはすっかり息が上がっていた。) 人間さん: はぁ、はぁ……な、なんとか倒せたか……。 人間さん: 普段やりあう魔物よりも固かったな…… (ひとたび攻撃が有効になれば俺の持つエルマイトは大きなバフに なり相手に強烈なダメージを与えることができる……はずなのだが。) (今回はほとんどその恩恵が表れていなかったような……。) 魔物2: グガアアアアア!! 魔物3: グオオオオオオッ!! 人間さん: 新手、だと……? しかも数も増えて……。 人間さん: くそ、逃げるしかないか……! (俺はすぐに頭を切り替えて、魔物から距離を取るため走り出す。) (ここで妙なプライドにこだわれば命はない。) (それなりに修羅場をくぐって、これくらいの判断はつくように なっていた。) (しばらく走ったところで、違和感のあるものが目の前に現れた。) (岩肌に備え付けられた鉄扉だ。) (おそらくは洞窟にはめ込んだのだろうが、何故こんなものが……?) 人間さん: でも……迷ってる時間はないな (意を決して扉に手をかけると、開いた。) (そのまま内側へ身を滑らせ、そして扉を閉める。) (--) (すぐに背中越しに扉が派手に鳴る音がした。) (先ほどの魔物が追いついて体当たりをしかけているのだろう。) 人間さん: このまま進むしかない……か…… (扉の内側は予想通り洞窟だった。 天然の洞窟に扉を付けたのだろう。) (しかし、足元は平坦に均されており、ある程度誰かの通行が 想定されていると伺える。) 人間さん: 今度こそ、誰かに会えればいいけど…… (道はひたすら一本道だった。) (どれくらいそこを歩いただろうか。やがてまた、扉が見えた。) (慎重にそれを開けると……。) (--) 人間さん: いや、だからどこなんだよ、ここは…… (先ほどとはまた違う風景だ。しかし、相変わらず見覚えはない。) (俺は溜息をついて、それでもやむなく歩みを進め始めたとき。) ???: 伏せて 人間さん: えっ――? 人が、いたっ…… ???: 早く (彼女の言葉に半ば反射的に従うと、頭の上を何かがかすめていく。) (--) (--) 人間さん: 魔物がいたのか……! (こちらが気づかない間に、背後に魔物が忍び寄っていたようだ。) (どうやら彼女はそれを救ってくれたらしい。 頭をかすめたのは彼女の武器だろうか。) 人間さん: ……骨? (苦しむ魔物の身体に突き立てられているのは、白い棒状の何か――) ???: 動かないで。巻き込みかねないわ (--) (--) (続いて数体の魔物が姿を現すが、あっさりと一掃される。) (俺が戦えるようになったといっても リルやドロシーにはかなわない。) (きっと彼女も手練れなのだろう。) 人間さん: ありがとう、助かったよ。 人間さん: 俺は人間さん。名前を聞いてもいい? ???: 名前……。 ???: ……ヘル、だけど 人間さん: よろしく、ヘル。 人間さん: ちょっと変なことを聞くかもしれないんだけど、 人間さん: ここはなんていう場所なんだ? (初対面の相手が、自分のいる場所がどこだかわからない、) (などと言い出すのは相手からしても警戒してしまうかもしれない。) (できるだけ平凡で無害な人物に見えるように心掛けながら聞く。) ヘル: ……場所? 地名っていうこと? ヘル: もしかして……貴方、迷子なの? 人間さん: かもしれないんだ。 人間さん: 変に思われるかもしれないけど……あてもなく歩いていたら、 人間さん: 知らない場所に出てしまったみたいで ヘル: ……。 ヘル: ここは『ニヴルヘイム』よ…… 人間さん: ニヴルヘイム…… (彼女が発した地名を繰り返してみる。) (どこかで聞いた単語のような気もするのだが……) (明確な記憶は見当たらなかった。) 人間さん: えーと……寒いし雪の国の近く、かな? ヘル: 雪の国? それは、なに? ヘル: 貴方は、その国から来たってこと……? 人間さん: (雪の国を……知らない……?) 人間さん: ……。 人間さん: じゃあ魔法の国かな? それともいばらの国とか ヘル: 悪いけど、どれも聞いたことのない国だわ。 ヘル: まさか、貴方は私をからかってる……? 人間さん: ……!? ヘル: もう、いい? ヘル: これ以上、貴方に関わる理由もないし…… 人間さん: ごめん、ちょっと複雑な事情がある……みたいなんだ。 人間さん: 俺もいま、混乱してるんだけど (魔法の国に、いばらの国――オトギノクニにおける超大国だ。) (人間界の日本で、アメリカを知らないという人がいないように オトギノクニでこの名前を知らないなど、あり得ない。) 人間さん: さ、最後にひとつだけ…… 人間さん: じゃあ、ここはラームス、なのか? (ラームス、つまりオトギノクニ・ラームスエディションとは 最近になって存在が確認された世界の名称だ。) (オトギノクニに似ているようで、どこか違う世界らしい。) (らしいというのは、まだラームスからの来訪者が数名いる程度で 謎に包まれているためだ。) (こちらからラームスに行った例はないが、もしかすると 今回のこれがその第一号になるのでは……とも考えたのだ。) (しかし、ヘルは表情をますます訝しげに歪めるばかりだ。) ヘル: さっきから、わけのわからないことばかり…… ヘル: 貴方は……何者なの……? (警戒感をあらわにしたヘルは、こちらから数歩後ずさり身構える。) (それは先ほど魔物と対峙したときと同じ、つまり攻撃動作――) 人間さん: ま、待ってくれ! 人間さん: 決して怪しい者じゃ……というか、ヘルに危害を加えたりはしない! ヘル: ……なら、少し調べさせてもらうわ。 ヘル: その肉体をね 人間さん: にく、た……? んぐっ!? (ヘルは俺の首元をいきなりつかむ。) (彼女の指が俺の頸動脈を圧迫し、どくん、と 自分の血管が脈打つのを感じて――) 100003 - μという存在 ヘル: ……!? (--) ヘル: 貴方、何者? (いきなりこちらの首をつかんだかと思うと ヘルは怪訝な顔で俺を解放した。) 人間さん: げほっ、ごほっ……な、なんだ、いきなり!? 絞め殺すつもりかよ! ヘル: 少し強く握っただけ。この程度で死んだりしない。 大げさに言わないで 人間さん: 加減してたとしても、他人の首なんかいきなりつかまないだろ。 なんのために……っ ヘル: 分析するため 人間さん: 分析……? (エルマイトを、だろうか。) (ピュルテの感知能力のように、手で触れることで エルマイト量を調べられるのかもしれない。) (……それにしたって、触れ方ってものがあるだろうが。) ヘル: そう。魂の分析。 ヘル: でも結果、貴方はμでも信民でもない……いったい、何者なの? 人間さん: みゅー? ヘル: どちらでもないなんて、ありえないわ ヘル: 怪しい……。怪しいけど、でも……それ以上に気になるわ……。 ヘル: こんな貴重な存在をみすみす逃すのも……あまりに惜しい…… (彼女が何を言っているのかはあまり理解できなかったが どうやら葛藤しているようだ。) (こちらのことは信用できないから近づくべきではない……が、) (珍しい特徴があるので間近で観察してみたい…… といったところだろうか。) ヘル: 貴方、道に迷ってしまったと言っていたわね 人間さん: 道というか……いやまあ、そういうことになるのかな ヘル: なら、私についてきなさい 人間さん: えっ……? (いまの会話の流れでは、正直こちらの身の安全が脅かされそうで、 つい警戒感を顔に出してしまった。) (もちろん彼女もそれは察したようだ。) ヘル: ふん……もちろんどうするかは、貴方の自由よ。自分で決めて……。 ヘル: ただ、ここにはさっきみたいな魔物がうろうろしているわ ヘル: ひとりでも、そこそこ戦えるようではあるけど…… ヘル: 少なくともμではない貴方が、群れに取り囲まれたらどうなるか…… (残念だが彼女の言う通りだ。) (彼女がこちらに危害を加えるのが確実だと仮定しても 彼女と魔物のどちらにやられるかという問題でしかない。) (ならば、100%の悪意を向ける魔物よりは 意図の分からない彼女のほうが可能性はある……。) ヘル: それに、このあたりにいるのは魔物だけじゃないわ。 ニヴルヘイムにいるμに狙われてしまう可能性もある 人間さん: また……ミュー……? ヘル: 貴方だってこんなところで死にたくはないでしょう……? 私を警戒するのはわかるけど 人間さん: (死にたくはないだろう……か。つまり明確に死の概念がある……?) (やはりここはオトギノクニではないのか。) (しかし、ここがどこであるか、あるいは彼女が何者であるかは いまここで考えるべきことではないのかもしれない。) 人間さん: わかった。ついていくよ、案内してくれ (ヘルと名乗った彼女に従い、道なき道をふたりでとぼとぼと進む。) (聞けば数日はかかるというが……。) 人間さん: そんな労力をかけてまで、さっきの場所まで何をしに行ったんだ ヘル: 調査よ ヘル: ニヴルヘイムでは異変が起きている……。 直接ここまで来て調べた結果、異変そのものは確かだったわ 人間さん: ニヴルヘイムのそれに狙われるとかなんとか言ってたな。 異変と何か関係あるってわけか ヘル: ええ。ユグドラシルの循環に異変が起きているの。 ヘル: そのせいでニヴルヘイムはいま、少しずつ土地の力が弱まっている…… ヘル: 必然的に『信民』も弱っているのよ 人間さん: (本当に何もかも聞き慣れない言葉ばかりだ……) ヘル: まさかμも信民も知らないっていうんじゃないでしょうね 人間さん: そのまさかなんだよな……。 なあ、俺を五歳児だと思って説明してくれないか ヘル: 呆れた。異世界から来たわけでもないでしょうに 人間さん: いや、たぶんそうなんじゃないかと思ってる。 ここはオトギノクニじゃ、ないんだろ? ヘル: ……本気で言ってるの? ヘル: いえ、でも実際に異世界から来たのだとすれば μでも信民でもないのは当然ともいえる…… ヘル: 本当に興味深いわね。研究のしがいがある……。 ヘル: いいわ、少し寄り道するわよ 100004 - サイクル 信民1: どうだったの、向こうの山は 信民2: いやあ……ちっとも収穫がなかったよ。 このままじゃ本当に倒れちまう 信民1: ヨルさんが来てくれたときには、もう少しマシだったんだけどね。 あれからなんとかしてくれたのかしら 信民2: そう簡単じゃないんだろ。俺らは待つしかないさ ヘル: あの村の様子、見える? (寄り道だと言ってヘルが案内したのは、小さな集落だ。) (これといった特徴のない寒村に、まばらに住民の姿が見える。) ヘル: あそこにいるのが信民よ。そして私がμ。 ヘル: 見てのとおり、見ただけでは決定的な違いはないわね 人間さん: うーん……確かに。 強いていうならヘルは美人だけど 他のμを見てないから何とも言えないしな ヘル: は? 美人……? ヘル: 何を言ってるの……。ふざけたことを言ってると、置いていくわよ 人間さん: (反応が薄いな……言われ慣れてるのか……? というより男に興味がないタイプかも) ヘル: 何か余計なこと考えてるでしょう ヘル: とにかく……彼らが信民よ。 あの人たちが生命活動を続けていることで 私たちμは彼らからエネルギーを受け取ることができるの 人間さん: (人からエネルギーを……エルマイトとはまた別の力みたいだな) ヘル: あの人たちがいなくなれば、私たちも消滅してしまう…… と、言われているわ。 ヘル: 誰も試したことはないからわからないけど 少なくとも相互関係にあるのは確かよ 人間さん: 試したことはないんじゃないのか? ヘル: 彼らがピンチに陥ったとき、μが弱体化したことはあるから。 ヘル: だから魔物とか、天災が起これば 私たちμは率先して自分の領域にいる信民を守るの ヘル: 私たちμは彼らと違って魔物と戦う力を持っているし 天災に対抗することもある程度できる。 ヘル: それはすべて、信民から受け取ったエネルギーを 使うことで実現する…… ヘル: 両者が持ちつ持たれつで存在している……それがこの世界よ。 ヘル: だから、貴方のようなどちらでもない存在は異端ってわけ (いうなれば、食物連鎖に組み込まれていない生物、みたいな ことだろうか。俺はエルマイトを自己生産しているわけだし……。) (そこで、ふと思い当たる。 では、いまも自身から溢れているエルマイトを 彼女に渡そうとすればどうなるのだろう。) 人間さん: ちょっと試したいことがあるんだ。 触ってもいいかな? ヘル: は? 触るって……どういうことかしら 人間さん: 手を貸して。もし様子がおかしかったらすぐ言って (--) (--) (ヘルの手をそっと握る。) (何か危険が起こらないとも限らないので 慎重に優しく包み込むように触れる。) 人間さん: 熱を感じるのか? なんか、すごく汗をかいているようだけど (--) (--) ヘル: ……うるさいわね。 ヘル: 私は別に手を握るくらいなんでもないわ ヘル: ……あれ? ヘル: これ……何……? 貴方の手のひらから、何かを感じるわ。 ヘル: エネルギーに似た感じだけど、でも……普段の感じとは全然、感覚が違う 人間さん: でも、エネルギーにはなるんだ? ヘル: ええ。たぶん普通に使えるはずよ 人間さん: 問題はなさそうかな。 じゃあ、もっと送ってみるよ ヘル: へえ……! これ、すごいわね。 信民ひとりから得られる量よりもずっと多いわ。 10人分くらいはあるんじゃない? (ヘルはそう感想を言うが、それでも大した量ではないのだろう。) (事象には驚いても 力の大きさに衝撃を受けているわけではなさそうだ。) (オトギノクニであれば、かなりのエネルギーになるはずの量を 渡したつもりだ。 となると、単純に受け渡し効率が落ちているということになる。) 人間さん: (やっぱり世界が違うから エネルギー法則も変わるってことなのか?) ヘル: ……ふうん、なるほどね。 (--) ヘル: これはじっくり研究させてもらわなくちゃ (ヘルは目を細め 好奇心をむき出しにしてこちらへ視線を向けるのだった。) 雨依: はぁっ、はぁっ、はぁっ……ど、どこかに、隠れないと……っ (森の中。) (私は全力で疾走していた。) (といっても、さほど速度は出ていない。) (まだ普通に学校に行ってた頃は走るのも得意だったんだけど すっかりなまってしまったいまの私では大して速くもない。) 雨依: (もう、もたないっ……くっ、ううっ、追いつかれる……!?) (どっちかっていうと、速さより持久力が落ちてることのほうが 問題で、このまま追いかけっこを続けてたら絶対捕まっちゃう。) (後ろを振り返ってみる。 影は見えない。 でも、だからって相手が諦めたとは思えない。) 雨依: なんなのよ、あいつら…… 雨依: ……っ、あった、あそこ! (それは洞窟だった。 私はその中に隠れようとして、中へ進む。) 雨依: きゃっ!? つめたっ…… (暗がりの中、何かに足を取られた。 バランスを崩して思いっきり地面にお尻を打ってしまう。 痛いし、それに何だか冷たい。) (よく見ると、そこは水たまりになってたみたいで 足元は水浸しになっている。 私は気持ち悪さに思わず舌打ちした。) 雨依: もう、なによこれ……どうしてこんなことに…… 雨依: ――っ! (ふと気配を感じて、小走りに洞窟の奥へと急いだ。) (そして岩陰に身を隠す。) (やがて私の視線の先には――) ???: ねえ、お姉ちゃん。いた? ???: ……ううん。 ???: でも、すぐに見つけます。 そして絶対に、始末する―― 100005 - ニヴルヘイムの異変 人間さん: とりあえず信民とμっていう存在の関係性とか 俺が明らかに異端だっていうのはわかったよ 人間さん: 魔物とやり合えるμ……そいつらに狙われたら 俺なんかじゃかないっこないのも想像つく。 けど…… ヘル: どうしてμに狙われなくちゃいけないんだ、って? そうね、貴方からすれば理不尽な話よね ヘル: ニヴルヘイムの異変は、住んでいる信民にとっても 彼らからエネルギーを得ているμにとっても死活問題…… しかし未だに原因はわかっていないはず ヘル: そんなとき異端の存在である貴方が見つかればどうなるか。 ヘル: 想像できるんじゃないかしら 人間さん: ……原因である俺を排除するわけか (本当に俺に原因があるかどうかは、この際関係ないだろう。) (焦ったニヴルヘイムの住民たちにとって、俺は格好の標的だ。) ヘル: 実際に、妙な存在がニヴルヘイムに入り込んだ…… なんていう情報も出回っているらしいわ。 ヘル: おそらく、貴方のことでしょうけど 人間さん: ニヴルヘイムのμはもう、俺の存在を把握してるんだな。 人間さん: でも、同じμなんだろ。ヘルからなんとか言ってくれれば ヘル: 私が貴方に何の義理があって、そんなことを? (ヘルの言う通りだ。) (一縷の可能性にかけてみたが、彼女にとって自分は仲間 でもなんでもなくただの研究対象でしかない。) (危険を冒してまで守る必要はないのだろう。) 人間さん: 義理はないけど、せっかく手に入れた研究対象だし、と思って。 人間さん: でもμどうしだからって、仲が良いわけじゃないのか? ヘル: ええ。そういう馴れ合いはしていないの 妙な期待はしないで。 ヘル: ……ニヴルヘイムさえ抜ければ、交渉なんてしなくても ひとまず安全は確保できるはずよ 人間さん: ……そう願いたいね 雨依: …… (息を殺して状況を見守っていた。) (身を隠している岩陰のすぐそばには、 私を追って来た連中が周りの状況を確認していた。) 雨依: (あいつら……間違いないわ。私をどうするつもり……?) ???: 匂いが……途絶えてる…… ???: どこに行ったんです……!? さっさと、見つけないと……っ! ???: もー、まいっちゃうよねぇ、お姉ちゃん。 ???: ヨルちゃんたちと森で追いかけっこなんて勝てるわけないのに~♡ ???: その通りです。でも、地面に残った匂いが途絶えています。 ???: 洞窟の中にはアイツの匂いがこんなにしているのに…… どの方向に逃げたのか、分かりません 雨依: (匂い……?) (私はハッとして、自分の足元を見る。) (お気に入りの黒い厚底のダブルバックルが付いた靴はぐっしょりと濡れてしまって、 靴下まで水がしみ込んできているのが感覚でわかる。) 雨依: (あいつ……匂いを辿って私を追いかけているの……? だからこの洞窟の中にまで……) ???: うーん、でもこの洞窟って迷路みたいになってるんだよねぇ~。 行き先が分からないと探すのも大変かも ???: それに…… ???: ……っ!? ???: ヨル! (ヨルと呼ばれたやつがふらつくと、慌ててもうひとりが支える。) (私はそれをじっと見守る。) ヨル?: ご、ごめんね~。ちょっとふらついちゃった。 ヨルちゃん、ちょっと疲れちゃったのかも ???: ……異変の影響が出ているのかもしれません。 (くっ、アイツのせいでヨルがこんな……) 雨依: (アイツって、私のことよね。 私が何したっていうのよ……! 知ったこっちゃないわ!) 雨依: (……でも、何かがおかしいのは事実だわ。 道に迷ってから、ずっと変……) ???: ……戻りましょう、ヨル。 ここで無理をしたら取り返しのつかないことになるかもしれません ヨル?: 平気だよ、お姉ちゃん。 ここで戻ったら、またあの子の行方がわからなく ヨル?: ……っ、ううっ ???: アイツは必ず私が見つけ出します。 でも今はヨルを休ませることが何より優先です ???: どっちにしろ行き先はわからなくなってしまいました ヨル?: だって洞窟の中にはあの子の匂いが立ち込めてるって…… ???: 洞窟は通気性が悪いです。 もうとっくにどこかに逃げてしまっているかも 雨依: (やった……これはチャンスだわ……。 さっさとどこか行きなさいよ……) ???: もちろん、いまも物陰からこそこそとこちらの様子を 盗み見ているかもしれませんけど 雨依: (――っ!?) (射すくめるような相手の視線が 自分を捉えたように錯覚し、雨依は思わず息を飲む。) (そこから数秒の間、私は呼吸を止めて身動ぎひとつせず様子を伺った。) ???: 聞いているなら、言っておきます。 ???: 私は必ず、お前を捕まえる。 これは決まっていることです 雨依: …… 100006 - 雨依の境遇 ???: さあ、行きますよ、ヨル。 私にしっかりつかまって ヨル?: ごめんね、お姉ちゃん…… 雨依: (行った……?) 雨依: (ううん、念のためもう少し時間を 空けてから動いたほうがいい……) 雨依: (ほんと、最悪……。 この妙な場所に来てから、ろくなことがないんだから……) (それは半日くらい前――) (私がこの知らない場所に迷い込んで少し経った頃。) 雨依: なんなのよ……信じられない、誰もいないなんてそんなことある? 雨依: 慣れないことしなければ良かった。 人間さんにいい子アピールしようなんて 変な欲を出したから…… (行方不明の子供を捜索するなんて、 普段の私なら絶対スルーしてる。) (でも人間さんが率先してがんばってるのを見ちゃうと 何もしないのはちょっと気まずかったし、 それにアピールにもなると思った。) (そもそもの動機がそんなだし、私はほんと後悔しかしなかった。 余計なことをしたせいで、わけのわかんないこんな状況に なってるんだから。) 雨依: こんなことなら、ごはんもっと食べておけばよかった……。 雨依: 人間さんに会ってからは 吐きグセも治ってきてたんだし…… 信民1: おや? お嬢ちゃん、見かけない顔だね。 こんなところでどうしたんだい? 雨依: ……! う、ううん、別に。なんでもないわ 信民2: おじいさんや、どうしたんだい? あら、なんだいその子 雨依: ……ご夫婦、ですか? 信民1: はあ、そうだけども 雨依: あ、あの……ここはいったい…… (いきなりわけのわかんない状況でテンパったけど、偶然声をかけてくれたおじいちゃんたちが家に連れて行ってくれたおかげで) (私はなんとか屋根のあるところで休むことができた。) (おじいちゃんとおばあちゃんと話して ここがニヴルヘイムという場所だってこと、 「μ」という存在に守られていることを知る。) (たぶん、ここがオトギノクニではなさそうなことも 薄々理解できた。) 雨依: (……まさか、異世界ってやつ? でも、この感じ…… 最初にオトギノクニに入っちゃったときと似てる……) 雨依: (あのときはひどいこともいっぱいあったけど レオナに出会えた。) 雨依: (けど、ここでは誰か助けてくれる人はいるの……?) 信民1: お嬢ちゃん…… 信民2: 起きてるんだろう? 雨依: ……? なんですか……? 信民2: あんた……わたしらの戸棚からカネを盗んだだろう……? 雨依: えっ!? そ、そんなことしてないし 信民1: それだけじゃない……ナイフも見当たらないんだ。 わしらを殺して、この家を乗っ取るつもりだな……っ! 雨依: な、なに言って……きゃああっ!? (おじいちゃんが振りかぶったので反射的に身をかわす。) (見ると薪割り用の斧を手に持っていた。) 信民1: う、ううう、やられるまえに、やるっ……! 雨依: い、いやあああっ!! (もとから大して荷物なんか持ってない。) (近くに置いてたリュックだけ手に取って 私はそのままその家を飛び出して そして近くの森に逃げ込んだ――) 雨依: (その後、森の中に隠れていたら さっきのふたりが追いかけてきて…… 結局こんなところまで追いかけられて……) 雨依: 私が何をしたっていうのよ…… (これまでの出来事を振り返って その理不尽さに私は思わず声に出して毒づいていた。) 雨依: ……戻ってくる様子はないわね。そろそろ動いたほうがいいかな (ふと、汚れた自分の足元を見る。) (水たまりは当然、濁っていて汚い。) (転んだときに濡れたせいでスカートも張り付いてしまって なんだか気持ち悪いし、もちろん泥で汚れてしまってもいる。) 雨依: ……ずっと着てるお気に入りなのに (けど、やるしかない。 私は水たまりに足を踏み入れ、そして泥水を手ですくって 上半身にもかけた。) 雨依: (最悪……) 雨依: さっさと行かなきゃ…… (全身、泥水で汚した私は、途中で見つけた匂いの強い草を潰し、 その汁も自分に擦りつけていた。) 雨依: あいつが匂いで判断して追いかけてるのは100%でしょ……。 雨依: なら、これでかなりごまかせるはず (お気に入りの香水、そのピンク色の小瓶は小さなリュックの中にある。) (人間界にいたときにつるんでた子がみんな付けていたハイブラ。 落ち着いた頃にシャワー浴びて 服もクリーニングとかできれば……) (そう自分に言い聞かせてみるけど、どんどん気持ちが沈む。 だいたい、逃げ切れるかどうかもわかんないのに。) 雨依: こんな汚くて、臭いままで、私は死んじゃうのかな……。 雨依: 誰も知らない場所で、ひとりぼっちで…… 人間さん: ひとりぼっちなのか? ヘル: は? (ようやくたどり着いたのは、かなり大きな屋敷だった。) (ヘルによれば、これが彼女の住処だというのだが……。) 人間さん: いや、人の気配がしないなって。 こんな広い屋敷でひとりなのかと思って…… ヘル: 何人でどこに住もうが勝手でしょ 人間さん: い、いや、そうなんだけど ヘル: ずっとひとりで過ごしてきたわ。 ヘル: それで別に何の不都合もないの。大きなお世話よ 人間さん: (余計なこと言ったかな……?) ヘル: それじゃあ、適当にくつろいで。 ヘル: ここなら誰に咎められることもないわ ???: あぁら、それはどうでしょうね? ヘル: なっ……ロキ!? 100007 - 目撃者・ロキ ヘル: ロキ……貴方、どうしてここに ロキ: どうしてって……鍵は開いていましたから。 ロキ: それにノックもしたし、声もかけたんですよ。 けど応答がなかったので ロキ: ですから様子を見るために入ってきた、というわけです。 ロキ: ほら、広いお屋敷にひとりぼっちだと、聞こえないこともありますよね (明らかに俺とヘルのさっきの会話も聞いていたとわかる。) (謎の女性の登場に、ヘルは忌々しそうな表情を隠そうともしない。) 人間さん: (それにしても……ロキ? それって確か) ヘル: 私が聞いているのは、そういうことじゃないわ。 ヘル: 何の用かってことよ ロキ: 一部始終を見させていただきました。 お節介かとは思いましたが、少々気になりましたので。 ロキ: ええと、そちらの方…… 人間さん: ん? ああ、俺のことは人間さんと呼んでくれ ロキ: この人をここまで連れてきて、どうするつもりです? ヘル: どうって……研究するために…… ロキ: アースガルズの皆さんに報告もせずに? ロキ: このことを知ったらどうなることやら…… ヘル: あの子たちに文句を言われる筋合いはないわ! ロキ: 筋はないかもしれませんが、どういう印象を持たれるかは 重要なことだと思うんですけどねぇ……? ヘル: そんなこと、今更でしょ ヘル: それにこの人、確かに研究対象として気になるから 連れて来たけど、そう悪い存在ではないのよ。 ヘル: 実際、私にエネルギーを分けてくれたりもした 人間さん: (……接し方のわりに、実は好意的に見てくれていたのか……?) ヘル: 何をにやにやしてるのよ。ただの事実を並べただけよ。 ヘル: 私の感想とかじゃないからね (どうやら顔が緩んでいたようだ。 釘を刺すように、こちらへきっと強い視線を向けてくるヘル。) (しかし、そんなヘルに追い打ちをかけるように ロキは大仰にうなずいてみせた。) ロキ: なるほどねぇ。うんうん ヘルさんが他人をこんなふうに評価するのは あまりないことですからねぇ。 ロキ: よほど何か引っかかることがあったんでしょう ヘル: あくまでも研究素材よ。 出会って間もないのに、それ以外の感情がわくわけがない ヘル: 長い付き合いでも上手くいかないのに…… ロキ: そうでしょうか? ヘル: もともと私は異端な存在だから。 いつもμたちの間でも鼻つまみ者なのよ ロキ: と、ヘルさん自身が思っている間は、何も変わらないと思いますよ ヘル: …… (重苦しい沈黙が流れる。) (彼女たちの関係性や詳しい事情はわからないが ロキの一言が芯を食って、ヘルが何も言えなくなってしまった―― という状況だろう。) (そのことを自覚しているのかどうか ロキは笑顔を張り付けたまま 何を言うでもなく直立してヘルの様子を見つめている。) 人間さん: (ロキ……なんか、つかみどころのない人だな……) 人間さん: あのさ、俺はよく事情を知らないから 口を挟むのも良くないかもだけど 関係性ってちょっとしたことで改善したりするものだから 人間さん: 俺の知り合いでも、自分が一族の落ちこぼれだって思い込んで 自暴自棄になってたけど、でもちゃんと向き合ったら 意外と受け止めてもらえた……なんてことが ヘル: いいから、そういうの 人間さん: (う、うーん……やっぱり余計なことを言いすぎたか……。 なんだか放っておけなかったんだけど、お節介だったな……) ヘル: それより人間さん。出かけるわよ 人間さん: え、出かけるって……さっき着いたとこじゃないか ヘル: この屋敷にしばらく滞在してもらうことになるわ。 だったら周辺を案内しておいたほうがいいでしょう 人間さん: あ、ああ……助かるよ、ありがとう 人間さん: (それってつまり、周辺を自由に歩いてもいいってことか? しかも、わざわざ案内してくれるなんて…) 人間さん: (やっぱり印象は悪くないのかな) ヘル: だからニヤニヤしないで。気持ち悪いわね (またしても顔に出ていたらしい。 俺は慌てて表情を引き締める。) ヘル: ロキ。 貴方がこの人のことを誰にどう話そうが、私は何も言わないわ ヘル: どういうつもりか知らないけど ロキ: どんなつもりでも、ないんですけどね (笑顔のままのロキを置いて出て行こうとするヘル。) (少し迷うが、俺もヘルの後へと続いた。) 人間さん: なんていうか、不思議な人だな。ロキって ヘル: 何を考えてるかわからないでしょ。私もよ。 ヘル: それより―― (入って来たときの入口は勝手口だったのだろうか。) (その倍はある大きな扉をヘルが押し開くと、そこには。) (--) ヘル: ようこそ、ヘルヘイムへ。 ヘル: ここは、死者の町よ 100008 - 死者の町 ヘル: 死者は、肉体が朽ちた後……その骨と魂が一度 このヘルヘイムに集まるの (骨だけの人物が、建物の前で何やら作業をしている。) (間違いなく死者なのだろうが その動作自体は生者と何も変わらないように見えた。) ヘル: 生前はそれぞれの住まう土地を治めるμにエネルギーを渡していた 彼らも、死してこの町に来れば……みんな私の信民になる…… ヘル: もっとも、そう長くとどまることもないのだけど。 裁きを下すまでのわずかな間だけ……。 ヘル: 町には生者の信民もいるから、安心しなさい 人間さん: すごいなぁ……この環境で、普通に暮らしている人たちもいるのか (彼女の言葉通り、ちゃんと肉体を備えている住民たちも 見受けられた。) (死者と生者が隣り合う町…… バイレ・アス・ハロウィンともまた違う 神秘的な雰囲気をまとっている。) ヘル: 私の能力は『死者の過去を見通す』ことができるというもの。 ヘル: 死者の魂を通じて生き様を見て、裁きを下すの ヘル: 善き魂なら『ヴァルハラ』へ、悪しき魂ならこの町にある檻に 囚われ、魂が浄化されるまで幽閉することになる 人間さん: なるほど…… (彼女の説明で少し納得がいった。) (表情の分からない亡者はさておき、生者の住民たちは一様に ヘルに対して畏怖の視線を向けていた。) (死後、魂を選別する相手だとわかっていれば おいそれと近づくこともできないだろう。) 人間さん: ……ヘルがひとりなのは、本人の問題だけじゃないよな ヘル: ……っ? ……何よ、大きなお世話だわ。 どうして貴方がそんなこと…… ヘル: ああ、さっきロキが変なことを言ったからね。 ヘル: 別に気にしなくていいわ 人間さん: (のけ者だって言ったのはヘル自身だったんだけどな……) ヘル: だいたいね、私は魂を失ったあとの骸を自由に操れるのよ。 ヘル: 屋敷の掃除だってさせているし 会話はできないけどそばにいてくれるし ヘル: それに身体は動かせるから、組体操だってできるんだから 人間さん: (それにしても……『ヴァルハラ』『ロキ』『ヘルヘイム』……) 人間さん: (いまヘルから聞いた話と併せて考えても これ北欧神話、だよな……) ヘル: 骸にはいろいろ種類があるのよ。信民だけじゃなくて 野生動物の骸なんかも操れるの。 ヘル: そう考えると、私は別にひとりじゃないわけ ヘル: だから、ひとりで寂しそうなんていうのは大きなお世話なのよ ???: あっ!? ヘルちゃん! よかった、ここにいたのね (ヘルが言い終わるかどうかというところで ひとりであることを打ち消すかのように彼女の名前を呼ぶ 声が聞こえた。) (振り返ると、そこには上品に微笑む穏やかそうな女性がいた。) ヘル: バルドル? こんなところまで来て、何をしてるのよ バルドル: こんなところだなんて、ヘルちゃん。 自分の町をそんなふうに下に見ちゃだめだよ ヘル: そういうことじゃなくて、物理的にも遠いでしょ。 ヘル: アースガルズからここまで来るの、簡単じゃないんだから バルドル: ええと、それは……ちょっと、たまたま近くまで来ていたの。 バルドル: そしたらロキさんから変な話を聞いたから なんだか気になって……ヘルヘイムにも足を伸ばそうと思って ヘル: 変な話……? なに、あいつ……本当に話したのね。 しかも、こんな短時間で バルドル: なんのこと? ヘル: 言っておくけど、この人のことなら危険なんてないわよ。 私が管理してるんだから、文句ないでしょ 人間さん: あ、初めまして。人間さんって呼んでくれ。 人間さん: ほんと、ヘルの言う通り無害なやつだから安心してほしい バルドル: ……? バルドル: あ、ヘルちゃん、彼氏ができたの? おめでとう! バルドル: 変わった子だけど、末永くよろしくね ヘル: ち、違うわよ!! どんな誤解してるのよ! この人は私の研究素材!! バルドル: なーんだぁ バルドル: って、それどころじゃないんだってば。 バルドル: ニヴルヘイムのあたりに、妙な魔物がいるのを見かけたって ロキさんから聞いたのよ ヘル: 魔物? ああ、また別件だったのね…… 人間さん: まさか、魔物がこの町の近くに……? だとしたら被害が大きくなる…… (亡者はともかく、生者の住民たちも少なくない。 この規模の町に魔物が押し寄せでもしたら一大事だ。) 人間さん: 魔物に対抗できるのはμだけなんだろ? ここにいるμって、ヘルだけなんじゃ バルドル: わたしもμよ? それに、ヘルヘイムにはあれがあるから、安心して大丈夫 (バルドルが指した先には、町を囲むようにそびえる塀があった。 なるほど、防護壁ということなのだろう。) ヘル: うかつに外に出たら、どうなっても知らないから。 ヘル: 屋敷の外には出てもいいけど、町の外に出たら……わかるわね (1体でも大苦戦した相手だ。 俺は素直にうなずいてみせた。) 人間さん: 住んでいる人たちも、あの塀は超えないようにしてるんだな ヘル: そういうこと。 ヘル: それにしても見慣れない魔物って……ロキは倒さないで 話だけ持ってきたわけ? バルドル: そうなの。それってたぶん、ひとりじゃ手に負えなかった ってことだと思うんだけど ヘル: ロキが手に負えないって…… (会話を聞いていて、ロキもμだということは確実のようだ。) (つまり、μとは…… なんとなく今後、見分けがつけられるような気がする。) ヘル: ちょっと見回りに出たほうがいいのかしら…… (--) (そのとき、けたたましい鐘の音が町に鳴り響いた。) (誰もが手を止めて顔を上げる。) 人間さん: これは!? ヘル: 防護壁に攻撃を加えたやつがいるのよ。 ヘル: おそらくは、魔物―― (言うや否や、ヘルは駆け出した。) (おそらく、どの区画が攻撃を受けているか 彼女には分かるのだろう。) バルドル: ああん、ヘルちゃん! 待ってよ~! (続くバルドル。俺もその背中を追って走り始めた――) 100009 - 異形の魔物 ヘル: ……っ、なによ、こいつは……? バルドル: 大きいし、見たこともない……! (ぱっと見た印象は――ドラゴンのようだった。) (ただし翼は退化しているのか、体長に比してとても小さい。) (その代わり発達した太い下肢で踏ん張り 壁へ体当たりを仕掛けている。) ヘル: ちっ……化け物っ、こっちに来なさいよ! (既に歪みかけている防護壁に一気に駆け上ったヘルは 側面から攻撃を叩き込む。) (鋭く飛んだそれは、長く連なった骨だった。) ヘル: まずは進路を変えさせるのよ! 行きなさいっ! (ヘルが腕を一振りすると、防護壁の上にスケルトンたちが 何体も姿を現す。) (スケルトンたちは臆することなく魔物に突撃していった。) 異形の魔物: グガアアアァァァァッ!! (魔物の薙ぎ払いで、一瞬にしてスケルトンたちは砕け散る。) (効いた様子はない。が、無視できる程度ではないようで 続く第二陣の攻撃に対して、鬱陶しそうに体の向きを変える。) ヘル: よし……向きを変えたわ。 ヘル: このまま町から離れた場所で仕留めるわよ バルドル: ヘルちゃぁん! だ、大丈夫~? ヘル: バルドル? 貴方、戦いは苦手でしょ。 何をしに来たのよ バルドル: そ、そうだけど……でも、ヘルちゃんひとりに任せておくわけには いかないでしょ~? バルドル: お手伝いしなくちゃと思って (それはこちらも同じ気持ちだった。) (なんだかんだと言いながらもヘルはこちらに好意的だ。 何より、自分ひとりだった危機から救ってくれた恩義がある。) ヘル: 歩兵部隊は引き続き注意を引いて! ヘル: 敵の方向はもう変わったわ。やみくもに突っ込むんじゃなくて 都合のいい場所に誘導するのよ! ヘル: 小さい子たちの骨は……私が使ってあげるわ (ヘルが両手を上に向けて何かつぶやくと 彼女の周囲を小さな骨片がぐるぐると円を描きながら 回り始める。) (そして、彼女が魔物に向けて指をさした瞬間――) ヘル: 行くわよ……! 魔物: グガアアアアッ! (魔物の眼球らしき場所を無数の骨片が一斉に狙う。) (直撃した――はずだが、敵もまた異形だからなのか 黒い液体を地面にまき散らし吠えながらも、鋭い爪で薙いできた。) 人間さん: ヘル! 危ない!! バルドル: ここはわたしが! ヘル: バルドル!? (俺が叫ぶと同時に、バルドルはヘルと魔物の間に身を投げ出して いた。) (容赦なく爪を突き立てられたバルドルだが、ほんの少しだけ顔を 歪めながらも、なんともない様子で立ち上がった。) バルドル: 知ってるでしょ、ヘルちゃん。 バルドル: わたし、このくらいじゃ本当になんともないんだってこと (直撃したように見えたのだが、傷ひとつなさそうだ。) (そんなこちらの疑問を感じ取ったのか、バルドルは気恥ずかしそうに微笑んで、答えてくれた。) バルドル: これがわたしの能力なの。ドラウプニルがある限り、わたしは どんな攻撃を受けても傷を負わない…… バルドル: その代わり戦いのセンスはまるでないの だからみんなのこと庇うのが私の戦い方よ。 そんなの、戦ってるって言えないかもしれないけど ヘル: 卑下する必要なんてないでしょ。 ヘル: 貴方はちゃんと、みんなに認められてるんだから (続く魔物の攻撃も、バルドルは涼しい顔で受け止めた。) (確かに傷ひとつない。) (しかし、進路変更には成功したものの、ヘルが操るスケルトンたちの攻撃は魔物にはまるで通用していないようだった。) (このままでは膠着状態に陥ってしまう。 これだけの巨体を誇る相手に持久戦を挑むのは、賢いやり方 ではないだろう。) 人間さん: (ニヴルヘイムではあんなに鮮やかに俺を救ってくれたんだ。 ヘルが弱いはずはない……。 あの魔物が、何かおかしいんだ……) バルドル: ねえ、ヘルちゃん。 この魔物がどんな相手なのか、分析できないの? ヘル: もうやってる! けど、初めて見るパターンなのよ、これ……。 ヘル: こんな魂、見たことないわ。 ちゃんと分析するなら時間がいる 人間さん: ……ここで俺が戦おうとしても、かなうとは思えない。 人間さん: だとすれば、やることはひとつだ……ヘル! バルドル! 人間さん: 俺の手を。 エネルギーをもらってくれ ヘル: さっきやったアレね。 確かに貴方ひとりで信民数人分のエネルギーだけど、この戦いをひっくり返せるようなものじゃないわよ バルドル: え、なにこれ……ちょっと元気が出るみたい…… (ヘルは文句を言いつつも、こちらの手に触れる。) (バルドルは事態をあまり理解しないうちに、それに倣った。) 人間さん: (ヘルの言う通りだ……。 形勢逆転できるほどのパワーじゃない。エルマイトを送ろうと しても、やっぱり効果はかなり薄いみたいだ) ヘル: でも……補給してもらえたから、これを使えそうよ。 ヘル: ”骸を此処に。冥界神の名において、その魂に終焉を――” (ヘルが両手を空中に伸ばす。) (その頭上では、かなり太い骨が何本も集まっては 組み立てられていく。) 人間さん: まさか、ドラゴンの骸……!? ヘル: 大きな相手には、大きな武器で対抗するのよ。 ヘル: ……『蹂躙せよ』 (その声に応え、組み上がったスケルトンドラゴンは 異形の魔物と正面から激突する。) (ヘルは険しい顔で、それを見つめている。) 人間さん: 大丈夫か、ヘル……? バルドル: しっ……動かした後も、骸は勝手に動いてくれるわけじゃないの。 全部ヘルちゃんが操ってるのよ。自分の力を使ってね ヘル: くっ……はぁっ、はぁっ、こいつ、なんなのよ……! (それだけの消耗をしながら呼び出したスケルトンドラゴンだが 異形の魔物を相手に徐々に打ち負け始める。) (これだけの大技をもってして通用しないなら、どうすれば……。) 人間さん: (ここまで、なのか……?) (一瞬だけよぎった弱気な考えを、必死で振り払う。) (これまでも苦しい戦いは何度だってあった。 その度に切り抜けてきた。) (ここで諦めれば、共に戦った仲間とも二度と会えなくなる。) 人間さん: (それに……俺の考えが正しければ、ヘルも、バルドルも 神話に登場する神なんだぞ……。ここで終わるはずがない……) ((きっとまだ、戦うための切り札をもっているはずだ)) バルドル: えっ……? その力は…… 人間さん: ……? なんだ、全身が熱い……? (なんとか不安を押しのけて目の前の戦いに集中しよう、という ところで、バルドルがこちらを見て訝し気な表情を浮かべる。) (気が付くと、全身が火照ったような感覚になっていた。) バルドル: そんな、ここまでの力を持ってるなんて……μでもないのに……!? 人間さん: これって……エルマイト、なのか……? 人間さん: いや、たぶんこれはチャンスだ! (理屈ではなかった。 ほとんどカンで、俺はふたりの手を強引に握る。) ヘル: ちょっと人間さん!? いきなり何するのよ! 人間さん: いいから! お前はヘルなんだろ! そしてお前はバルドル! 人間さん: こんなところでやられるような存在じゃない! 人間さん: 絶対もっとやれるはずだ! 俺の力を使ってくれ! ヘル: な――!? バルドル: うそ、力が……全身に満ち足りていく……っ!? 異形の魔物: グガアアアァァァァッ!! ヘル: ……そうね、理屈は後回し。 まずはこいつを倒さないと! ヘル: バルドル、援護をお願い バルドル: ええ、まかせて! 100010 - 異変の正体 ヘル: はぁ、はぁ……や、やったのね……? バルドル: ええ……倒せた、みたいね…… 人間さん: なんとかなったな。 やれやれ (ヘルのスケルトンドラゴンの骨で全身そこらじゅうを貫かれた 魔物は、黒い霧となって消滅してしまった。) (後には、小型のドラゴンが息絶えているのみだった。) ヘル: これが異形の魔物の本体……? バルドル: 何かがこのドラゴンに入り込んで、暴走させていたってことかしら ヘル: いずれにしても研究の余地はあるわね。 ヘル: ちょっと、このドラゴンの骸を研究室に運んでおいてちょうだい (ヘルが手を打つと、どこからともなくスケルトンたちが現れ 数人がかりでドラゴンを手際よく運んでいく。) ヘル: そして、研究の余地があるといえば、こっちも…… 人間さん: え、俺? ヘル: 俺? じゃないわよ。 当たり前でしょ、なんなのよさっきのは。 人間さん: いやだから、あれがエルマイト…… 人間さん: とも違ったような気がするな……。 人間さん: うん、なんだろうな、あれは ヘル: ほら! 徹底的に全身くまなく調べ上げてやるわ バルドル: そうね~。 確かに不思議だったわ。 バルドル: でもヘルちゃん それより先に彼には言うべきことがあるんじゃない? ヘル: 言うこと? バルドル: お・れ・い。 バルドル: ね? この……人間さんくんのおかげで助かったのは 間違いない事実でしょ ヘル: え、う、あ…… (先ほどまで饒舌だったはずのヘルは、急に口ごもり始める。) (そして、目を逸らしながらたどたどしく言った。) ヘル: あ、あり、ありあり、ありがと…… 人間さん: なんで急にキャラ変わってるんだよ ヘル: だって、お礼を言うってことは……ちゃんと、相手を人として 認めるから出る行動なわけで……そ、そんなの、私…… 人間さん: なるほど、実は人に対しては緊張しちゃうのか? 人間さん: って、待て。じゃあさっきまで普通に話せてたのは? ヘル: な、何度も言ってるじゃない。研究素材だって…… (どうやら比喩でもなんでもなく、モノ扱いされていたらしい。) (うまく話せなくなるくらいなら、それでいいのかもしれないが……。) バルドル: ヘルちゃん、がんばったね。ちゃんとお礼が言えてえらいよ ヘル: う、うるさいわね……。ほら、さっさと屋敷に戻るわよ! ヘル: 町の連中にも片付いたってこと、教えてやらなきゃいけないし…… バルドル: それにしても、こんな魔物が町の近くまで来るなんて…… バルドル: あの子にも教えてあげなくちゃ……。 バルドル: ううん、もう気付いてるのかもしれないけど…… (人間さんたちのいるヘルヘイムから遠く離れた地。) (その一室、窓ガラスがコツコツと叩かれた。) ???: ……あ、ああ……よく戻りましたね、フギン。 ???: ムニンならもう、先に帰ってきていますよ (彼女が窓を開けると、カラスが部屋へと飛び込んでくる。) (それに優しく声をかけながら、そっと腕を伸ばすと カラスはぴたりと止まった。) ???: な、なるほど……見たこともない魔物、ですか……。 ???: やはり事態はひっ迫しているのかも、し、しれませんね…… ???: それにしても、ヘルはいったい……? い、一緒にいた男の人は、結局は何者なのか分からずじまい…… ???: きゅ、急に強い力が生じたことは、わたしも把握していましたが…… ???: わからないことだらけですね ???: い……いずれにしても、フギンもムニンもお疲れ様です。 しばらく、ゆ、ゆっくり休んでください ???: ねえ、オーディン。何があったのよ オーディン: あ、い、いいえ、トール。な、何でもありません。 オーディン: 少し変わったことが起きただけ……です。だ、大丈夫ですよ トール: あっそ……。 トール: なら、いいんだけど オーディン: (最近は異変が立て続けに起きている…… これがやがて大きな渦に発展していくのだとすれば……) オーディン: (わたしが解決するしかない。それが役目なのだから……) (彼女は窓の外に視線を向ける。) (足元に広がる町や野山の風景を眺めながら、人知れず決意を固める。) (--) オーディン: ……黄昏は、近い 100011 - ヘルヘイムでの時間 (ヘルの屋敷で俺が居候するようになってからしばらくが経った。) (あの日、ヘルヘイムを襲った魔物については、結局まだ詳細は わかっていない。) (ただひとつ言えるのは、ヘルもバルドルも初めて見る相手だったということ。) ヘル: ……ただいま。 人間さん: ああ、ヘル。おかえり。 ヘル: ……。 人間さん: ……何? ヘル: ただいま。 人間さん: え、うん。いま聞いたけど……。 ヘル: ……っ、別に何度言ったっていいでしょう。 人間さん: そりゃまあ、いいんだけどさ。 ヘル: 誰かに帰りを出迎えられることに、なんだか違和感があるだけよ。 ヘル: それより、バルドルは? 人間さん: 奥にいると思うよ。 (ヘルの屋敷に居候しているのは俺だけではない。) (別の町から来たというバルドルも、例の魔物の調査のためにとヘルの屋敷に滞在している。) バルドル: あらっ、ヘルちゃん。おかえりなさい。 バルドル: パンケーキ焼いてみたんだけど、よかったら食べない? ヘル: パンケーキ? ヘル: 魔物の調査もほったらかして、貴方は何のためにここに残ってるのよ。 バルドル: ……。そうよね、ごめんなさい…… ヘル: あっ、その…… バルドル: お台所、片づけてきちゃうわね。 (何気ないヘルの一言を、正面から受け取ってしまったバルドルが悲しそうに目を伏せる。) (おそらくヘルにも悪気はなかったのだろう。ハッと表情を変えるが……。) 人間さん: (正直、こういうやり取りも、今に始まったことじゃないんだよな……) (滞在中に、もう何度も見た光景だ。) (圧倒的に言葉や配慮が足りないヘルに対して、素直なバルドルという構図は、相性が悪いとしか言いようがない。) ヘル: な……なによ、人間さん。 人間さん: いや、別に……。 ヘル: ……わかってるわよ。ちゃんと誤解はとくから。 人間さん: (やれやれ……。) 人間さん: (屋敷にずっとひとりだとも聞くし、ヘルはきっと誰かとこうして近い距離で接するのに慣れてないんだろうな) (そんなことを推測できるくらいには、ヘルと時間を共に過ごしている。) 人間さん: (それ自体は悪いことじゃないけど……ここは間違いなく異世界だ。どうにかして戻る方法を見つけないとな……) 人間さん: (俺という存在はひとりだ。こうしてこの世界にいるということは、オトギノクニでは俺が行方不明になっているはず。) 人間さん: (きっとみんなに、心配をかけてしまうから……) バルドル: ねえ、人間くんもパンケーキ食べる? 人間さん: え? 『も』って……。 ヘル: 食べればいいんじゃないの。美味しいわよ。 (キッチンでどういうやり取りがあったのかはわからないが、ふたりは和解したようだ。) (ヘルはいったいどうフォローしたのか、パンケーキは食べることにしたらしい。) (もっとも、バルドルは素直に受け止める分、あまり長く引きずるタイプでもなさそうだが。) バルドル: そうそう。ニヴルヘイムまで足を伸ばしていろいろ調べたんだけどね、ちょっと気になる情報があったのよ。 ヘル: そういう話をまず最初に……いえ、なんでもないわ。 ヘル: それで? (ヘルも、慣れないなりに学んでいるらしい。) (話の腰を折るのを寸前でやめて、先を促す。) バルドル: 信民でもμでもない存在がうろうろしていたみたいなの。これは複数の目撃があったから、間違いないと思うわ。 ヘル: それ、この人じゃないの? (信民でもμでもない、という表現はまさに俺に対して、ヘルが最初に使ったものだ。) バルドル: 女性だった、って声があるのよ。 バルドル: それでね、その人が最近のニヴルヘイムに異変が起きてる原因じゃないかって噂になってて……。 人間さん: 女……? ヘル: 噂っていうけど……それって実際、ニヴルヘイムのμ、ヴァナルガンドとヨルムンガンドは、その誰かさんを疑ってるんじゃないの。 バルドル: たぶんね。ちょっとまだ会えてないから、断言はできないけど。 人間さん: (……俺とは違う、信民でもμでもない誰か……。それって、同じく異世界から、もっと言えばオトギノクニから来たんじゃないのか。) 人間さん: (しかも女……もしかすると、俺の仲間の誰かかもしれない……。) ヘル: 何よ、難しい顔して。別に貴方が疑われてるわけじゃないのよ。 人間さん: いや……。バルドル、頼みがあるんだ。 人間さん: 俺を、ニヴルヘイムに連れて行ってくれないか。 100012 -  μとしての役割 (ニヴルヘイムの森を進むふたつの影。) (その鋭い眼光が周囲を警戒するが、木々は穏やかに葉を揺らすのみだ。) ヨル?: 見つからないねぇ。お姉ちゃんの嗅覚でも探し出せないんだから、もう近くにはいないのかな。 ???: だとしても、どこに行ったんでしょう。 ヨル?: そりゃあ……自分の家、とか? ???: そもそも、どこから来たのかもわかりません ヨル?: とりあえず今日のところは引き上げよっか。これ以上探し続けても、体力を消耗するだけじゃないかな。 ???: そうですね…… (ニヴルヘイムの、とある町――) 信民1: おおい、みんな! お帰りだぞ! 信民の子供1: わあああっ、おかえりなさい! ヨルムンガンド様! 信民の子供2: ねえねえ、ヴァナルガンド様。わたしね、おふたりのお人形をつくったの!お屋敷に置いておいたからね! ヴァナルガンド: はあ、どうも。 信民2: ああっ、ヴァナルガンド様! 侵入者は捕まえられたんですか? ヴァナルガンド: いえ……でも、必ず見つけ出します。 信民1: ヴァナルガンド様とヨルムンガンド様のおふたりをもってしても捕まえられないなんて……どんな敵なんでしょう……。 ヨルムンガンド: 敵って言っちゃうのは早すぎますよ? ヨルムンガンド: まだあの人がニヴルヘイムに起きてる異変の原因だなんて、何の証拠もないんですからね? 信民1: それはそうですが……他にいないのも事実でしょう? ヨルムンガンド: まあまあ焦らない、焦らない。 ヨルムンガンド: これでも食べて落ち着いてください。 信民1: おや、ビルベリーですか?ありがとうございます。 信民2: あ、あんたヨルムンガンド様が採ってきたんだから……! 信民1: すっっっっぱ!? ヨルムンガンド: あははははっ、それはよく似た超すっぱいベリーでしたー! ヨルムンガンド: ね、余計なこと考えなくなれましたよね? 信民1: すっっっっ ヨルムンガンド: いいですね、リアクション100点です♪ ヴァナルガンド: ヨルは相変わらずですね…… 信民1: まったく、ヨルムンガンド様にはかないませんね。 ヨルムンガンド: ヨルちゃん、自由人だから♪ 信民3: そうだ、よかったらうちにいらしてください。 信民3: ちょうどサーモンが手に入りましたんでごちそうしま…… ヴァナルガンド: 結構です。ちょっと疲れてるので (--) ヨルムンガンド: あらら…… 信民3: 相変わらずクールですね、ヴァナルガンド様は。 信民1: そこがまたカッコいいんだよねえ。 ヨルムンガンド: いまのお姉ちゃんのあの態度で、そんな反応しちゃうみんなもなかなかだと思いますよぉ~? 信民1: そりゃあ昨日や今日に知り合った関係じゃありませんから。 ヨルムンガンド: あはは、理解してもらえて助かっちゃう♪ ヨルムンガンド: お姉ちゃん、悪気なくこうなんで……嫌われちゃったら困るのにね。 信民2: とんでもないですよ。 信民2: μのおふたりがいるから私たちの暮らしが守られている……。友達じゃあるまいし、態度がどうこうで嫌うだなんて。 信民1: まったくです。むしろ私たちは守ってもらっていることに、もっともっと感謝しなくてはいけないんですから。 信民3: それがまた、おふたりの力の源になる……と、そう信じておりますのじゃ。 ヨルムンガンド: ん……ありがとうございまぁす♪それじゃヨルちゃんも、ここで失礼しますねぇ。 ヨルムンガンド: ただいま、お姉ちゃん。玄関前に何も置いてなかったけど。 ヴァナルガンド: ああ、私が中に入れておきました。 ヴァナルガンド: 今回もたくさん、差し入れの品が届いていましたので。 (室内にはたくさんの品が置かれている。) (カゴいっぱいの野菜や、タオルなどの生活用品、あるいは手作りの人形――) ヨルムンガンド: ありがとっ、お姉ちゃん。こんなにたくさん、大変だったでしょ。 ヴァナルガンド: ヨルこそ、ありがとう。私はああいう会話のコミュニケーションは苦手です。 ヨルムンガンド: あんなのヨルちゃんが好きでやってるだけだもん。 ヨルムンガンド: 会話しなくたって、μと信民は持ちつ持たれつ、お互いに大事にしていく関係なんだから。 ヨルムンガンド: ま、だからいわゆる友達とは違うんだろうけどね。 ヴァナルガンド: 問題ありません。そんなもの、必要ありませんから。 ヴァナルガンド: 私には……ヨルがいればいい。 ヨルムンガンド: お姉ちゃん……。 ヨルムンガンド: (そう言ってくれるのは嬉しいけど、でも……お姉ちゃんは本当にそれでいいのかな……。) ヨルムンガンド: (立場上、本当の友達を作れるとしたら信民以外、つまりμしかいないんだけど……。私たちは他のμと会う機会も少ないし……) ヴァナルガンド: 信民が懸命に生きて私たちを支えてくれる。その思いに応えることが、何よりも大切なことです。 (ヴァナルガンドは差し入れに混ざっていたぬいぐるみを手に取る。) (それはヴァナルガンドとヨルムンガンド、ふたりを模したものだった。) ヴァナルガンド: ……信民が、魔物の犠牲になることはあってはならないです。 ヨルムンガンド: ん、そうだね……。 ヴァナルガンド: しかし、見失ってしまってからは何日も経っていて、手がかりもないまま……。 ヴァナルガンド: 間違いなくあの女は怪しいです。 ヴァナルガンド: でも……いま、いったいどこにいるのか……。 100013 - 仲間のために 雨依: (もう……何日くらい隠れてるんだろう……。) (時間の感覚もマヒしてるし、ここがどこなのかもわからない。) (結果的にはたぶん、私は逃げることに成功したんだと思う。けど、逃げ切ったと確信はできなかった。) (本当は監視されていて、次の瞬間にも襲われるかもしれない――そんな想像がずっと頭の中でまとわりついていて……。私は誰の助けもなくひとりで逃げ続けていた。) 雨依: ネイル……ボロボロになってる……。まあ、当然か。来週には付け直してもらう予定だったんだし……。 (でも服は……お気に入りだったのに捨てなきゃかな……。) (オトギノクニでも、楽しいことばかりじゃなかった。辛いこともあった。でも人間界のあの町にいた頃に比べれば、マシだった気がする。) (そして、今この瞬間よりは確実に幸せだった。) 雨依: あのときはマキがいたし……オトギノクニではレオナがいた……。なんだかんだ、人には恵まれてたんだよね……。 雨依: 今度こそ、私はひとりぼっち……。 (オトギノクニで出会った人々は、悪人もいれば善人もいて、手を伸ばせば助けてくれることだって少なくなかった。) (だから……この世界でも、私は他人の善意にすがろうとした。) 雨依: (でも……私はこの世界では受け入れてもらえない。そういう存在なんだ。私のことなんて、誰も見てくれない……。) (小さなリュックには、とっくにバッテリーの切れたスホマ、人間界から持ち込んだ財布、香水、ヘアクリップに、メイク道具一式。) (そして傷を拭って血まみれになったタオル。) 雨依: パラケルススの薬……切らしてたんだよね……。 雨依: こんなとき、パキってなかったらやってらんないんだけど…… (身体を投げ出し、ぼんやりと頭上を眺める。) (ふと、視界の隅に光るものを見つけた。) 雨依: 蜘蛛……? (身体が白く光る蜘蛛だ。) (私は反射的にそれに手を伸ばし――) 雨依: ――っ!? (指先を咬まれた。) バルドル: それじゃあさっそく出発よ。お弁当は持った? ヘル: ピクニックじゃないんだから。 お弁当っていうより携帯用食料でしょ。 バルドル: そうだけど、そんな言い方したら味気ないじゃないの~。 人間さん: まあまあ。そういうのは気分次第だし。な? (ニヴルヘイムに向けて出発することになった俺たちは、それなりの旅支度をしてヘルの屋敷を出発した。) 信民1: お、おお……ヘル様だ……! 信民の子供: う、うう、ぐすっ……怖いよぉ……。 信民2: うっかり近づいたりするんじゃないよ。 目が合ったら何されるかわからないんだからね。 人間さん: なんというか、前にも思ったけど……あんまりμって、町で居心地良くないポジションなんだな バルドル: 全員が必ずそうってわけでもないけど、距離感は普通あるのよ。 それにヘルちゃんの場合はどうしてもね。 ヘル: それこそ慣れてなんとも思わないわよ。私が何かして変わるものでもないんだし。 人間さん: そういうもんか…… (そこからバルドルたちの案内で、俺は長い洞窟を再び抜けて――) バルドル: さあ、この先がニヴルヘイムよ。 人間さん: ……ひとつ気になったんだけど。 ニヴルヘイムを縄張りにしているμがいるって話しだったけど バルドル: ええ、そうね。 人間さん: ヴァナルガンドとヨルムンガンドのふたり……。 そいつらに断りもなく、こうして出入りして問題ないのか? バルドル: なぜ? どういうことかしら 人間さん: 俺のいた世界の感覚でいうと、国ってものがあった場合、その境目には関所っていう出入りを管理する施設があるものなんだ。 ヘル: ああ……なるほどね。なんとなく言いたいことは理解したけど、そういう感覚ではないわ。 だから貴方はともかく、他のμが行き来することについては問題ない。 人間さん: ……それって、別に問題視されないっていうだけで、そのヴァナルガンドとヨルムンガンドっていう奴らと仲がいい、っていうのとは違うんだな? ヘル: 何が言いたいのかしら。 人間さん: 土地勘のある協力者がほしいと思ったんだ。ニヴルヘイムといっても、きっとかなりの広さだし。 ヘル: それに目撃情報も把握している……っていうわけね。狙いはわかったわ。でも残念だけど交流はない。 バルドル: ごめんねぇ。私も別に仲良くしているわけじゃないのよ。でも出会えたら、交渉してみる価値はあるかもね。 人間さん: ありがとう。少しでも探し出す確率を上げたくて。 ヘル: ……ずいぶん力が入ってるのね。 人間さん: 当然だろ。仲間かもしれないんだから。 ヘル: 仲間…… 人間さん: 俺にとってかけがえのない存在だ。 人間さん: どんなことがあっても、必ず守り抜く。 ヘル: ふうん……そこまで言わせるほどの相手、ってわけ……。そう……ふうん……。 バルドル: ヘルちゃん? ヘル: ……別に。なんでもないわ。それより、さっさとこのあたりから探していかないと……。 人間さん: な、なんだっ、こいつ!?魔物っ……!? 100014 - ニヴルヘイムの姉妹 (ニヴルヘイムの探索をはじめてすぐ、俺を襲ってきたのは大蛇だった。) (必死に身をかわそうとするが、避けきれずもみ合いになる。) ヘル: 人間さん! (なんとか突き放したところで、再びこちらに牙を向ける大蛇。) (間にスケルトン兵が割って入り、俺の身代わりとして粉々に砕け散る。) (犠牲になってくれた間に、なんとか距離を取ることに成功した。) ヘル: 大丈夫? 人間さん: あ、ああ。なんとか。 (ひとまず牙で咬まれなかったので、毒の心配はないはずだ。 大蛇と言えばやはり、それが一番のリスクだろう。) ヨルムンガンド: オルムの攻撃でダメージを受けないなんて、やりますねぇ。 ヘル: 貴方たちは、μ……? ヘル: ということはもしかして、ヴァナルガンドとヨルムンガンドということ……? 人間さん: (こいつらがニヴルヘイムのμ……?) ヴァナルガンド: 異質な匂いがしたんですよ……お前から。 人間さん: !? ヴァナルガンド: 信民でもなく、もちろんμでもない……。 ヴァナルガンド: 私たちが逃した怪しいやつと同じ匂いのする、危険な存在です。 ヨルムンガンド: だからさっさと潰しにきたんですよぉ? ヨルムンガンド: おふたりは気づいてないかもしれませんけど、危険なんですから。 ヘル: 彼のことなら危険じゃない。 それに信民でもμでもないことくらい、私だってとっくに気づいてるわ。 ヴァナルガンド: 気づいている……? ヨルムンガンド: おかしいと思ってるのに、なんで庇うんですか~? あなたもμなんですよねぇ? ヘル: なんでって、それは…… 人間さん: (会話の流れはよくわからないが、いまなら連中の注意が俺からそれてる。この隙にエルマイトを……。) (俺はヘルの身体にそっと触れ、エルマイトを送るよう念じる。) ヘル: 人間さんっ……?あ、力がまた…… 人間さん: ……ん? (エルマイトを受け渡すことはできている。だがしかし、以前の変異種との闘いで渡せたような膨大な量ではない。 最初に渡そうとしたときのような軽さだ。) ヴァナルガンド: お前、いま何をしたんです。 (しかし、僅かな量だとはいえ力の受け渡しは特殊なのだろう。ニヴルヘイムのμはすぐに勘づき、こちらに厳しい視線を向ける。) ヴァナルガンド: エネルギーが強化された……まさか、そんなことが? ヴァナルガンド: やはりお前、怪しいです。 バルドル: 待って、ふたりとも! ヨルムンガンド: あれ。もうひとり誰かいると思ったら、バルドルさん? ヴァナルガンド: 知り合いですか。 ヨルムンガンド: うん、アースガルズのμなんだ。 ヴァナルガンド: なのに、そいつを庇うんですか。 バルドル: 人間さんくんは、そんなおかしな人じゃないのよ。 ヴァナルガンド: おかしなのは、その性質です。 ヘル: 待ちなさいよ。性質が変わってるっていう理由で、いきなり何もしていない人を襲うの? ヴァナルガンド: それは……。 バルドル: 少なくとも、人間さんくんに誰かを襲ってやろうとか、この土地を自分のものにしよう、みたいな悪意はないわ。 ヨルムンガンド: お姉ちゃん、どうする? ヴァナルガンド: ……。 (鋭い視線がこちらに向けられる。) ヴァナルガンド: ……いい。状況が変わるまでは何もしない。 バルドル: わかってくれて嬉しいわ♪ ヴァナルガンド: 私は、ヴァナルガンド。ヴァンって呼んで。 ヨルムンガンド: ヨルムンガンドだよ。私のことはヨルちゃんで♪ バルドル: 私のことは知ってるわよね。ほら、ヘルちゃん。 ヘル: ……ヘルよ。ヘルヘイムのμ。 ヨルムンガンド: あーっ、知ってる! あなたがヘルさんだったのね。 ヴァナルガンド: なんで、これを? (挨拶の対象外どころかこれ呼ばわりだが、命が助かっただけでよしとするべきだろうか。) ヘル: 研究対象よ。このひとの特殊さは貴方たちもわかってると思うけど。 ヴァナルガンド: なるほど。 ヨルムンガンド: それで、ここで何してたの? バルドル: 実は、信民でもμでもない特殊な存在のこと……。 私たちも気になっていたのよ。 ヘル: だから、そいつを探すためにここに来たの。もしかしたら、この人の仲間かもしれないから。 ヴァナルガンド: 仲間、ね……。 ヨルムンガンド: そういうことなら、ヨルちゃんたちについてくる?ちょっと遠いけど、見たって言う人がいるの。 バルドル: 助かるわ。 ヴァナルガンド: 見つけ出して、保護でもするつもりですか? 人間さん: 俺やそいつを倒して事態が解決するって根拠は? 倒さなくても、元の世界に戻れば解決するだろうし。 ヴァナルガンド: ……。 (ヴァンの視線からは、こちらへの信頼はまったく感じられない。 しかし理屈の通らないまま、衝動的に攻撃するタイプではないようだ。) ヴァナルガンド: ……わかった。とりあえず、それでいいです。 100015 - 世界樹ユグドラシル ヘル: ここで目撃されたって通報があったわけ? ヨルムンガンド: いまニヴルヘイムの信民のみんなには、例の女の特徴を伝えてあるんですよ。 人間さん: そうか、女なんだな。どんな特徴なんだ? ヨルムンガンド: 金髪で、髪はまあまあ長くて、特に太ってたりはしなくて……。 ヨルムンガンド: 服は黒っぽかった。そんなところですね。 人間さん: ……それだけ? 人間さん: (思ってたよりずっとふわっとした情報だな。それで目撃情報があったっていっても、精度は高くなさそうだけど。) ヴァナルガンド: お前が異世界から来たっていうの、本当なんですね。 人間さん: え?どういう意味だ? ヘル: 信民も、目の前の相手が信民かμなのかを見分けられるのよ。つまり、そのどちらでもない存在だってことも。 人間さん: 外見の情報より、その異質さだけで十分、判別できるってことか。 バルドル: これは私たちにとっては常識なのよ。だから、ヴァンさんは人間さんくんのこと、やっぱり異世界の人なんだなって。 ヴァナルガンド: でも……もう移動したのかもしれませんね。周りに、それらしい気配はなさそうです。 ヴァナルガンド: さっさと捕まえなきゃいけないのに……。 ヨルムンガンド: お姉ちゃん……大丈夫、焦っちゃだめだよ。すぐ見つかるって。 バルドル: あなたたちが、その異質な存在を追いかけている理由は、やっぱりニヴルヘイムの異変が原因で……? ヴァナルガンド: 気づいていたんですか。 バルドル: ええ。凶暴な魔物が急に増えて、動物たちが弱り始めている……。 何かが起きていると思って、わたしも調べ始めていたところなの。 ヴァナルガンド: それならもう調べました。 ヴァナルガンド: ユグドラシルの根が、力を失いつつあります。 人間さん: ユグドラシル、って…… ???: 『世界樹ユグドラシル』……。 この地に豊かさをもたらす存在です。 ヴァナルガンド: お前は……。 ヨルムンガンド: ロキさん! ロキ: ヴァンさんやヨルさんだけでなく、ずいぶん大勢集まっていたんですね。 貴方なんて、ヘルヘイムからずっと出ないかと思っていたのに。 ヘル: 研究のためよ。 前からちょくちょくニヴルヘイムまでは来ていたし。 ロキ: へえ……? 何か思うところがあったのでしょうか……? ヘル: 貴方こそ、何をしているのよ。 ロキ: 私も同じく、ユグドラシルの変化について調べていたのですよ。特にニヴルヘイム方面に張られた根には、明らかな変化があります。 ロキ: 世界樹ユグドラシルは、オーディンが自らの血を分け与えています。 ロキ: 故に、ある程度は彼女の意思で操作することができるのです ヴァナルガンド: では、今回のニヴルヘイムの変化はオーディンの意思だと? バルドル: そんな、何のために? わざわざ、人を困らせるようなことをする子じゃないと思うけど……。 ロキ: 現在のユグドラシルは本来の『土地に豊穣をもたらす』というものから、『アースガルズ周辺を守護する』というものへと、役割が書き換えられていると思われます。 ヘル: 力とは常に有限――1つ増やせば、1つ減る。 ヘル: アースガルズのために、ニヴルヘイムは捨てられたと? ヨルムンガンド: そんな、ひどいです! バルドル: 待って、オーディンちゃんがそんなことやるはずない……。 バルドル: 何か事情があるのよ、きっと。 ロキ: もちろんオーディンの意図がどこにあるかまでは、私にもわかりません。 ロキ: ただ、アースガルズに割いた力の分、ニヴルヘイムの恩恵は減っています。 ヴァナルガンド: くっ……そんなこと、許せません。 ロキ: 不服を唱えるのは自由です。ただし相手はオーディン、強大な相手であることはお忘れなきよう。 ヴァナルガンド: ……っ。 ヘル: そういう理由なのだとすれば、ニヴルヘイムだけが不遇なのではなく、ヘルヘイムも影響を受けていると考えるのが自然ね。 ヘル: でも……受けられる恩恵が薄くなっていることが、魔物の変異種が出現することに繋がるのかしら? ロキ: 変異種、ですって? ヘル: ヘルヘイムで先日、これまでに見たことのない魔物が出現したわ。かなり強力で、討伐にも苦労したのだけど。 バルドル: わたしもその場にいて一緒に戦ったわ。あんなの、見たことなかった。 ヨルムンガンド: そんな魔物がいるんですか……! ロキ: なるほど……。 100016 - 同郷の再会 ヨルムンガンド: ヘルヘイムでもそんな変異種が現れてるっていうなら……。 さっきのロキさんの話と合わせて考えても、ここで起きていることはユグドラシルが原因ですよね、きっと。 ロキ: 少なくとも私はそう見ていますが。 ヘル: そしてユグドラシルの変化はオーディンの意思によるもの。 ヘル: この時点で、人間さんやもうひとりの女といった、謎の存在による悪意が原因とは、言えないんじゃないかしら。 ヴァナルガンド: ……確かに、そうです。 人間さん: (ヴァンの、こちらに向ける警戒感が少し緩んだ……かな?すぐ完全に和解ってわけにはいかないだろうけど。) 人間さん: (それにしても世界樹ユグドラシルとは……。 オトギノクニにもイデアの森に住む精霊がいるけど、当然、まったく別の存在なんだろう。) ヨルムンガンド: となると、探索はそこの人間さんって方のお仲間を探すためだけにする、ってことですけど。 人間さん: そう言われると、大勢に協力してもらってなんだか申し訳ないな。 ヨルムンガンド: もう時間も遅いですし、慌てる必要もないですよね? 明日にしませんか? バルドル: それもそうね。人間さんくん、どう? 人間さん: んんー……。 人間さん: (早く仲間の無事を確認して合流したいのが本音だけど……。) 人間さん: (既に何日も経過して今更だし、ヴァンたちに襲われるリスクも消えた。彼女たちの協力は必須だし、機嫌を損なうべきじゃないな……。) 人間さん: 任せるよ。たぶん、みんなも疲れているだろうし。 ヘル: ふうん……? ヨルムンガンド: それなら今夜は、ヨルちゃんたちのおうちに泊まりませんか? ここからわりと近い町にありますよ。 ヴァナルガンド: ヨル……!? ヨルムンガンド: えっ、だめだった?お姉ちゃん。 ヴァナルガンド: いえ……。ヨルがそうしたいなら、私は構わないです。 人間さん: (唯一の心配は、外見的特徴だけじゃ誰なのかさっぱりわからないことだな。大抵の仲間は、ちょっとくらいの野宿は平気だと思うけど……。) ヘル: じゃあ結局、貴方はこの異変を調べるためにうろうろしてて、私の屋敷にも現れたってわけ? ロキ: そういうことです。調べてる途中で、貴方が妙な人―― ロキ: つまり人間さんを連れ歩いているのを、たまたま目撃したのですよ。 ヘル: でも貴方、普段はアースガルズにいるじゃない。 こんなところまで来て調べなくてもオーディンに聞いたら? ロキ: それがそう簡単じゃないんですよねぇ……。 (俺たちはヨルムンガンドの案内で、彼女たちの屋敷へと向かっていた。) (ただでさえ極寒のニヴルヘイムだが、夜になると指先が凍り付きそうなほど冷える。) (俺は、両手を自分の吐息で温めた。) ヨルムンガンド: 人間さん、でしたっけ?なんかあんまり体力なさそうですし、早くおうち行きましょうね。 人間さん: え……なんかナメられてる……?いや実際、移動距離長すぎて足が棒みたいになってるけど……。 ヴァナルガンド: ……っ。ヨル、あれ見て。 (ふいにヴァンが緊張した声音でヨルを呼ぶ。) (その視線の先には、金髪の女性らしき人物がちらりと見える。) 人間さん: まさか、あれが!? ヨルムンガンド: 間違いないです。あれ、ヨルちゃんたちが追いかけてた不審者です。 ヴァナルガンド: いけません、逃げますよ。 人間さん: 待ってくれ! (俺は一目散に走り出した。) (途中、ヴァンとヨルに簡単に追い抜かれはしたが、それでも相手との距離は一時的に縮まる。) 人間さん: 雨依……っ!? この世界に来ていたのは、雨依なのか!? ヴァナルガンド: いない……?一体どこへ……。 (その日、私はミッドなんとかと呼ばれている湖の管理小屋に忍び込んで、食料を手に入れていた。) 雨依: やっとまともな食事が摂れるわね……。食べなさすぎて、身体が受け付けないかもしれないけど……。 (もちろん、それは人間界にいたときの経験からの予想。吐きグセが治ってきたとはいえ、いきなりがっつくと危ない。) (私は湖から離れ、森を抜け、そして――) (そこにいる人に、気づいた。) 雨依: (人間さんっ……!?うそ、人間さんもこの世界に来ていたの!?) 雨依: (けど……あの集団にいるの、あれって私を追いかけ回したふたり……) ((なに、どうなってるの……どうして人間さんが)) (人間さん、そして例のふたりが一斉にこちらに向かってくる。) (もしニコニコして手を振りながら歩いてきてくれたら違ったかもしれない。でも、その必死な表情と走るスピードに私は怖くなった。) (人間さんは知ってるんだろうか。私がオトギノクニでディマイトと呼ばれるエネルギーを桁違いなほど持っていることを。) 雨依: ……オトギノクニにいたときから、あなたはずっと日の当たる場所にいた……。 雨依: やっぱり私とは住む世界が違う……そういうことなの……? (自分の指先をふと見つめる。) (その先端には蜘蛛に咬まれた傷跡があった。) 雨依: (わたしは……) (傷跡は、淡く光を放ち始めた。) 雨依: (え……な、なにこれ……!?) (俺たちは雨依のいたあたりに到着し、周辺を探る。) (しかし既に、彼女の姿は見当たらなかった。) ヨルムンガンド: どこに行っちゃったんでしょう?でも追いかけてるときからこの調子で、なかなかつかまら…… 人間さん: !! (周囲に気を配るなか、ヴァンの近くの樹木がきしむのに気づいた。) (俺はとっさにヴァンを突き飛ばして――) ヨルムンガンド: 人間さん!? 100017 - 迫りくる未来 オーディン: はぁ…… (オーディンは深々とため息をついて、その場で壁に寄りかかりうなだれる。) (もちろん肉体的疲労も重くのしかかっている。) (長時間の未来視を終えた直後はいつも、しばらく座り込んで動けなくなる。だが、そうしたものとは別に――) オーディン: (何も……変わらない……) オーディン: (最初に気づいたときから、何度こうして未来を覗き見ただろう……) ((私なりに打開しようと手を打ってみては確かめ……その繰り返し)) オーディン: 疲労というより、徒労……。このままでは『黄昏』が―― (--) (ふいに部屋の扉が叩かれ、オーディンは我に返る。) オーディン: あっ、えっと……開いています、どうぞ。 トール: ちょっとオーディン、聞いたわよ。 この1週間くらい、ろくに食べてないらしいじゃない。屋敷のみんな、心配してたわ。 オーディン: それは、その……い、いろいろあって……でも、だ、大丈夫……。 トール: あたしだってバカじゃないんだからね。そんなの聞いて、はいそうですか、とはならないわよ。 オーディン: あぅ……。 トール: ……未来のこと? オーディン: えっ!? い、いえ、その、あの トール: このところ悩んでるの、何か変な未来を見たからなんじゃない? オーディン: ……!! トール: やっぱり。 オーディン: な、何も言ってませんよ!? トール: あんたね、隠しごとできる性格じゃないんだってば。 トール: そんだけ目が泳いだりして、バレないとでも思ってんの? オーディン: ほ、本当に……なんでも、あ、ありませんから……。 トール: そうやってまたひとりで抱え込もうとする。あたしのこと、そんなに信用できないわけ? オーディン: ……。 トール: ひとりで悩んでても効率悪いだけでしょ。 オーディン: ……。 トール: とりあえず話を聞かせなさいよ。 あたしがいれば、大抵のことは解決するわ。ほら、どんな未来なの。あたしがいれば、大抵のことは解決するわ。 ほら、どんな未来なの オーディン: いっ……いいですから! 私はじ、自分でなんとかできます!トールには関係ないから!! トール: ……。 オーディン: あ……。 トール: ……あっそ。 わかった。そんなにひとりでやりたいんなら、どうぞご勝手に。 オーディン: あ、あぅ……トール……。 オーディン: (でも……これでいいんです……。トールを、大事な友達を、巻き込めない……。これは私ひとりで解決しなくちゃいけないんですから……。) 人間さん: ……!! (ハッと目覚めると、そこはどこかの室内だった。) (確か、雨依を見つけて、それから……。) ヴァナルガンド: 気が付きましたか。 (すぐとなりにヴァンがいたようだ。) (声をかけられ、俺は慌てて居住まいを正す。) ヴァナルガンド: 何があったか、覚えていますか? 人間さん: 確か、雨依を見つけたけど見失って、周辺を探っていて……。 ヴァナルガンド: 突然、木が私に向かって倒れてきました。お前はそれを庇ったんです。 人間さん: あ、そうだ……いきなり巨大な木が倒れたから、危ないと思って、慌てて飛び出して……。 ヴァナルガンド: ……あんなことしなくても、あの程度なら私は軽傷でした。 人間さん: そりゃそうだよな、μだもんな。 人間さん: はは、情けないな……無駄撃ちして、みんなにこうして迷惑かけて。 ヴァナルガンド: 迷惑ではありません。 ヴァナルガンド: それに……私は一度、お前のことをニヴルヘイムの敵だと疑ってかかり、襲いました。 そんな相手を庇うなんて、普通はできません。 人間さん: いやまあ、反射的に身体が動いただけで、あのときはその辺の事情まで考えてなかったっていうか……。 ヴァナルガンド: それでも、です。 人間さん: まあその、好意は素直に受け取っておくよ。手当てもしてくれて、ありがとう。 人間さん: ん? ってことは、ここは。 ヴァナルガンド: 私とヨルの家です。倒れたお前を運んできました。 人間さん: そうだったのか。ってことはあそこから俺を運んで……重ね重ね、申し訳ないな。 ヴァナルガンド: そんなことありませんから。申し訳ないのは私のほうです。それに…… ヴァナルガンド: 誰かに庇ってもらったの、ヨル以外では初めてで…… 人間さん: ん、なんて? ヴァナルガンド: なんでもありません。それより、気づいたなら何か口に入れたほうがいいです。 ちょうど食事の用意もできてますから。 人間さん: 行っちゃった……。 人間さん: (まあ、最初よりは警戒も解いてもらえたみたいだし、結果オーライ、なのかな……。) 100018 - 賑やかな食卓 バルドル: 元気そうでよかったわ、人間さんくん。とっても心配したのよ? ヨルムンガンド: 人間さんっ、お姉ちゃんのこと守ってくれて、とってもありがとう♪ (ベッドから起き上がってヴァンの消えた扉を開けると、気を失う直前まで一緒だった顔ぶれが揃っていた。) ヘル: まったく。変にカッコつけるから、こういうことになるのよ。 ロキ: いいんじゃないですか?あそこは男の子が身体を張る場面だったと思いますし ヴァナルガンド: 私が受けたほうが影響は小さかったですよ。 ヴァナルガンド: けど、その…… ヨルムンガンド: ま、それじゃ人間さんも復活したことだし、ごはんにしましょう~! 人間さん: おおっ、これはすごい豪勢だな! ヴァナルガンド: じゃあさっそく、いただきます。 ヨルムンガンド: いっただきま~す♪ (テーブルの上にはじゃがいもを使ったグラタンや、ニシンの酢漬け、きのこのキッシュなどが並べられている。) 人間さん: ソテーにスープと、サーモンの登場頻度も高いな。やっぱり、さすが北欧……。 ヨルムンガンド: ホクオー? 人間さん: あ、いや、なんでもない。それよりこれは、誰が用意したんだ? バルドル: あ、わたしが一応……あんまり自信ないけど。 人間さん: いや、すごく美味いよ!キッシュとか絶妙だよ。 バルドル: よかったぁ~。 ヘル: 貴方って、女の子を喜ばせることに慣れてない? 人間さん: えっ?い、いや、そんなつもりで言ったんじゃなくて、本当に美味かったから…… ヘル: ふうん。ま、いいけど。 ヘル: それに今日は、貴方が少しは男気あるってところ見せてくれたし。 ヨルムンガンド: すごかったですよね~。なかなかあのタイミングで動けないですよ。 人間さん: い、いやあ、そうかな……。 ヨルムンガンド: あ、そこは素直に照れちゃうんですね?かーわいっ♡ 人間さん: ……!? ヴァナルガンド: さて、それでこれからどうするか、です。 ヘル: 私は引き続き人間さんにつきあって、例のあの子を追いかけるのでいいかなと思ってるわ。 ヴァナルガンド: 私も恩があるから協力したいですね。けど……。 ロキ: ニヴルヘイムの問題のほうが優先、ですよね。 ヴァナルガンド: そうですね。 バルドル: そのことなら、わたしは明日からアースガルズに戻ろうと思ってて。 ヘル: オーディンに会うつもり? バルドル: ユグドラシルに干渉しているのは、オーディンちゃんで間違いないはず。 バルドル: だとして、どういうつもりなのか、ニヴルヘイムの人々が困っていることもちゃんと把握した上での判断なのか……。 ロキ: そのあたりをきちんと確認するというわけですね。 ヨルムンガンド: それなら答えがわかるまで、ニヴルヘイムのことは一旦保留でもいいんじゃないかな、お姉ちゃん。 ヴァナルガンド: 確かに。 ロキ: そうしてくれると助かりますね。 ロキ: なにせこのヘルは、進んでひとりぼっちになりたがるところがあるので、こういう機会にできるだけ大勢と関わったほうが良いかと。 ヘル: はあ!? ちょ、ちょっと、余計なこと言わないでくれる? ヘル: 誰がぼっちよ、私は自分で望んでそうしてるの! バルドル: って、ロキさんもいま、そう言ったと思うけど……。 ヨルムンガンド: わかります。お姉ちゃんも、そんな感じですから。 ヴァナルガンド: な……私のことはいいんですよ、ヨル……! ロキ: では、ヴァンさんとヘルさんは似た者同士なんですね。 ヘル: な、なに言ってるのよ。別に似てないから! ヴァナルガンド: それはこっちのセリフです。ヘルはただの根暗でしょう。 ヘル: はあ!?それこそこっちのセリフよ! ロキ: ほら。そんなふうに感情的になるヘルさん、珍しいですよね。 ヘル: うるさいわねっ ヴァナルガンド: ああ、もう……私は料理の用意をしてきますから、これで。 人間さん: ヴァンも料理してくれているのか? ヨルムンガンド: お姉ちゃん、ジビエが得意なの。美味しいよ♪ 人間さん: それはすごいな!ジビエかぁ、リッパーの店に行ったとき以来か。楽しみだなぁ ヴァナルガンド: べ、別に大したものは出せませんけど。そ、それじゃ。 雨依: ……。 (私は鬱蒼とした森の片隅で、ひとりナッツをかじっていた。湖の管理小屋から盗んだものだ。) (こんなものでも、ここ何日かではかなりマシな食べ物だ。) 雨依: 人間さん……この世界でやっと会えたひとなのに、どうして私を追う側にいたの……? 雨依: 騙されてるのかな……それとも……? 雨依: それに、さっきのあれ……。 (そっと自分の指先を見つめる。) 雨依: あのとき、木が倒れたけど、あれってもしかして……? 雨依: あっ……? (見つめているうちに、指先がまた淡く光り始める。雨依は次第に息を荒くして……) (私は次第に息を荒くして……) (--) (指先を2度、強く噛んだ) 100019 - 変異種との戦い、再び ヴァナルガンド: どう、ですか……? 人間さん: うん、すごく美味い。 バルドル: ね、まったく臭みとかないし、食べやすくて。 ヘル: なるほど……やるじゃない。 ヨルムンガンド: よかったね、お姉ちゃん。 ヴァナルガンド: べ、別に……。 (--) ヴァナルガンド: ……っ!? ヘル: なに? 地震!? (唐突に激しい揺れが襲う。) (すぐに屋敷の外からは信民たちの悲鳴が聞こえてきた。) (ヴァンとヨルがまず屋敷を飛び出し、俺たちもその後を追って外に出ると――) (--) (ヘルヘイムで見た変異種の魔物だ。それも今回は2体いる。) 変異種: グガアアアアァァァァッ!! ヴァナルガンド: こいつは……!? ヘル: ヘルヘイムに現れたのと同じ魔物よ。私たちが変異種と呼んでいるのが、これ。 ヴァナルガンド: これが……! ヨルムンガンド: お姉ちゃん、行こうっ! ヴァナルガンド: わかってます! ヘル: 援護するわ! ヨルムンガンド: ヘルさん、ありがとっ! (2体の変異種それぞれに、ヴァンとヨルが手分けして対応する。それをヘルが、スケルトン兵の召喚で撹乱して援護を始めた。) 人間さん: 俺もなんとかエルマイトを受け渡してみんなを支援する。バルドル、俺のことを守りながら、ヴァンやヨルに近づけないか? バルドル: わかった、やってみる。 (変異種2体の激しい攻撃にさらされ、町の建物はおもちゃのように吹き飛ぶ。) (そこかしこで悲鳴は上がるが、なんとか信民たちは逃げおおせているようだ。) ヴァナルガンド: ……氷漬けにしてあげます。 (ヴァンが魔物に向かって手をかざすと、白い冷気が集まっていき、魔物の前腕部分を凍らせた。) (動きを封じられた魔物は、バランスを崩し転倒する。) バルドル: すごい……!あれがヴァンさんの能力なのね。 ヴァナルガンド: 終わらせます。 ヨルムンガンド: ――っ! お姉ちゃん、よけて! ヴァナルガンド: !? (--) 変異種: グウウウ……! (動きを封じた魔物を相手にさらにダメージを与えようと間合いを詰めたヴァナルガンド。) (しかし、彼女の鼻先を魔物の攻撃がかすめていった。) (見れば、凍結させられていたはずの前腕も自由になっている。まだ表面は氷が張り付いているが……。) バルドル: 腕力だけでなんとかしたのね。凍らされても、地面に張り付かなければ移動はできる……。 人間さん: 口で言うのは簡単だけど、それって相当なパワーだぞ。 ヴァナルガンド: ……化け物ですね。 ヨルムンガンド: オルム!横から回って! 変異種: グァッ!? (一方、もう1体の魔物に対しては、ヨルが攻撃を仕掛けていた。) (彼女の使役するオルムという大蛇が、変異種の背中へと牙を突き立てる。俺とやり合ったときから予想はしていたが、やはり――) ヘル: 毒ね。あの牙から毒液を相手の体内に注入して弱らせるのよ。 変異種: グ……グウウ…… バルドル: でも、あれ……!牙が完全に刺さってないわ! ヨルムンガンド: いけない、オルム一旦下がって!これ以上無理したら、オルムの牙が折れちゃう! 人間さん: あの魔物の表面は、相当な固さってわけか……。 (ヴァンもヨルも、それぞれの闘い方が通用しないわけではない。ただ、それぞれ力負けしてダメージに繋がっていないのだ。) 人間さん: (それなら、俺のエルマイトで支援できれば勝てるか……。) ヘル: ちょっとロキ!貴方も協力したらどうなの!? ロキ: ええ、わかってますとも (これまでほとんど静観していたロキは、ヘルの声に応じておざなりな援護攻撃を飛ばしつつ、じっと魔物を凝視していた。) ロキ: この魔物を動かしている力は、普通の魔物とは何か違うような…… ヘル: 動かしている力が、違う? ヨルムンガンド: 後ろの人たちっ、くるよ! 避けて! (ヨルの声にはっと視線を移せば、魔物は大きく口を開けていた。その口内には濃い紫をした霧のような球体が発生している。) ヘル: 魔物がまとう瘴気よ。まさか、あれを…… バルドル: うわあああぁぁっ!? (--) (とっさに全員が左右に飛んで身を伏せた。) (魔物は、球体になっていた瘴気を線状に発射したのだ。) (さながらビーム兵器のような弾道に、俺の心臓は早鐘を打っていた。) 人間さん: あ、危なかった…… ヘル: 連射はしてこないみたいで、助かったわね。 ロキ: ええ……。 バルドル: ロキさん、その顔はもしかして……。 ロキ: 複製完了です。 人間さん: なんだって? ヘル: ロキの特技なのよ。敵の技や能力を見れば、高い確率でコピーできる。 ロキ: 相手はやはり、未知のエネルギーを軸にしているようですね。しかし、私たちの攻撃が通用しないわけではない。 人間さん: なら……やっぱり強化して戦うのが一番みたいだな。 ヴァン! ヨル! 今からふたりを強化する! ヨルムンガンド: へ? なにそれ、どういう……きゃっ!? (詳しい説明をする時間も惜しい。俺はヨルの手を強引に握った。) ヘル: ……勝手に行動しないでもらいたいわね (視界の端では、ヘルがため息混じりに腕を振り上げる。) (おそらくまたスケルトンを召喚し、俺がエルマイトを供給する間に魔物を牽制してくれているのだろう。) ヴァナルガンド: お前、何して……ひゃっ! (俺のヨルへの行動を見咎めて、駆け寄ってくるヴァン。 その手を握ろうと、俺は腕を伸ばし彼女に触れる。) ヴァナルガンド: なっ……お前、キモいですね。 人間さん: いいから! 俺を信じてくれ。俺も……ふたりの実力を信じるから。 ヨルムンガンド: あ……な、なにこれ……? ヴァナルガンド: 力が……満ちていく……? 100020 - 他者との関わり ヘル: あと少しよ。バルドル、行って。 バルドル: わかってるわ。さあ、きなさいっ! 変異種: グォオオオオッ! (--) (魔物の攻撃を、持ち前の防御力で弾くバルドル。) (既に何度かにわたるこちら側の攻撃で弱り始めている魔物は、その攻撃にも当初ほどの力がこもっていない。) (ふらつく攻撃をしっかり弾かれれば、自ずと体幹は揺らぐ。) (ヴァンは、その隙を見逃さなかった。) ヴァナルガンド: これで終わりです。凍れっ!! 変異種: グガアアアアァァァァッ!! ヴァナルガンド: ……倒した? ヨルムンガンド: やったよ、お姉ちゃん! バルドル: これで2体とも討伐完了だね。よかった、よかった~ (ほっと一息ついたところで、物陰から大勢の信民たちが駆け寄ってきた。) (湧き上がる歓声に、あっけにとられてしまう。) 信民1: ありがとうございます、ヴァナルガンド様! ヨルムンガンド様! 信民2: あんな脅威からもお守りいただけて、なんと感謝して良いやら……! ヨルムンガンド: うんうん、ヨルちゃんたちすごかったですよね~?とってもがんばりましたっ。 人間さん: なんというか……ニヴルヘイムの人たちはテンションが高いな。 (またたく間に信民たちに囲まれてしまったヴァンとヨルを眺め、俺は思わず口にした。) (もちろんそれは、先日のヘルヘイムと比較しての言葉だった。) バルドル: 信民の特徴って、地域差は間違いなくあるんだけどね。ただ、関係性って他にもいろいろ要因があって。 ヘル: 私は、恐れられているから。あんなふうにはならないわね。 人間さん: そっか……。同じように戦ってるのにな。 ヘル: いいのよ。私の目的は信民が無事でいること。 ヘル: 感謝なんてしなくても……。 信民1: ヘル様! ヘル: えっ? 信民2: それにバルドル様と、ロキ様、そして人間さん様と、お名前を伺いました! 信民2: 私達の町をお救いくださり、本当にありがとうございます! バルドル: 私たちのことを……? (--) (どうやらヨルが俺たちのことも信民に紹介してくれたようだ。) 人間さん: (まあ、手柄の独り占めっぽくなって居心地悪いのはわかる……俺でもたぶん、同じようにするよな。) 信民1: すごかったです!あんなふうに骨を操って戦うなんて!ああいった戦い方もあるんですね! ヘル: え……あ、貴方たちは、あれを見て怖いとは、思わないの……? ヘル: 骨よ? 亡者を使役するのよ? 信民2: 怖い?私たちはなんとも思いませんよ。魔物にとっては怖かったでしょうけどね! 信民3: ヘル様のおかげで、我々の被害も最小限で済みました。本当に感謝しております。 ヘル: かん……しゃ……。私に……? 人間さん: ヘルが、がんばった結果だな。ここは素直に受け止めたほうがいいぞ。 ヘル: わ、わかってるわよ。ちょっと……慣れていないだけ。 ロキ: でも……そうね、この被害を最小限と言うなら、そうなんでしょうけど。 (ロキの視線を辿れば、破壊された家屋が何棟も並ぶ。) (倒すので精一杯の相手との市街戦、人的被害が出なかっただけマシで、建物まで守り切るのは至難の業だった。) ヨルムンガンド: そう、ですね……。仕方なかったですけど、でも。 ヨルムンガンド: 仕方ないとは、言いたくないですね。 ヴァナルガンド: それでも想定よりずっと早く倒せました。それは被害を食い止めたとも言えます。 ヴァナルガンド: ……お前は最低だったけど。 人間さん: な、なんでだよ! ロキ: 気づいてなかったんです?貴方、ヴァンさんのお尻を思いっきりつかんでましたけど。 人間さん: えっ、お尻!? (夢中で掴んでいたのは、彼女の二の腕あたりかと思っていたのだが、どうやらしっかりお尻を鷲掴みにしていたらしい。) 人間さん: そう言えば、だいぶ柔らかかったかも……。 ヴァナルガンド: そんなこと口に出さなくていいです。 ヴァナルガンド: 本当にお前、キモいですね。 ヴァナルガンド: でも……最低だったけど、あれで戦況は変わりました。キモいですが、勝てた要因のひとつです。 ヨルムンガンド: そうだね、お姉ちゃん。私だけじゃなくて、みんなと協力して戦うの……悪くなかったよね。 ヴァナルガンド: まあ、今回は……そうでしたね。 ロキ: しかし……気になりますね。あの魔物は普通とは違うエネルギーで動いていましたが、あれは一体……。 (建物は倒壊し、煙が上がる町。) (人間さんたちの戦いによって脅威は去ったが――) 雨依: はぁ……はぁ…… (そんな町の様子を、私は少し離れた森の中から観察していた。) (指先は血が滲んでいて、ずくん、ずくん、と脈を打つ感覚があった。) 雨依: 間違い、ないわ……。 これは、私が指を……光っているところを噛んだから、起きたこと……。 雨依: 前よりもずっと強く、血が出るほど噛んだから……。木が倒れるだけじゃ済まなくて、魔物が出てきた。……そういうことよね。 (ぞくぞくと、寒気のような感覚が背中を這い上がってきて、思わず自分の身体を抱きすくめる。) (雨依は思わず自らの身体を抱きすくめる。) 雨依: あんなふうに人を傷つけてしまうなんて、絶対に許されない……。 雨依: 私だって倫理観は持ってるわ。これは、いけないこと……。 雨依: けど……いまの私、すごく……満たされてる……。 60031 - ニヴルヘイムでの支援 (――ニヴルヘイムのとある町――) (変異種の突然の襲撃からしばらくして。) (町は連日の復興作業に忙しくしている。) (そして、俺もまた信民たちに加わって作業に汗を流していた。) ロキ: 人間さん……貴方、こんなことまでするのですか? 人間さん: 逆に、ロキたちはやらないのか? ロキ: μの役割は信民たちの暮らしを守ることですから。その後の町の復興までは手を出しませんよ 人間さん: 意外とドライな関係なんだな ロキ: そういう関係だとお互いに理解していますからね。どちらも、そのことに特に感想もないでしょう 人間さん: へえ……まあ俺はμじゃないからな。好きにやるよ ヨルムンガンド: あ、いたいた! お兄さん! ヴァナルガンド: 何をしているのですか? (姿を見せたのはヴァナルガンドとヨルムンガンド。) (ふたりとも、このニヴルヘイムを統括するμだ。) ヨルムンガンド: みんなのお手伝いしてるんですか。えらいですねぇ ヴァナルガンド: お前、変なやつですね。頼まれたわけでもなく、自分の仕事でもないのに 人間さん: 異世界から来たから、μや信民みたいに役割がそもそもないんだよ ヴァナルガンド: なら、私がお前に役割を与えます。街の周りの巡回をするのでついてきてください ヴァナルガンド: お前は戦いの場面でも役に立つことがわかりました。一緒にきて手伝ってもらいます ヨルムンガンド: もし見回り中に何か出てきたとき、お兄さんがいれば安心して戦えるでしょ? 人間さん: それもそうだな。でも見回りなんてこれまでもやってただろうに、なんでいきなり…… ヴァナルガンド: お前、うるさいですね。黙ってついてくればいいんです ロキ: ははあ…… ヨルムンガンド: そういうことだから、お兄さんについてきてほしいんですけどぉ……ダメですか? 人間さん: いや、まあいいんだけど…… ヴァナルガンド: 決まりですね。それじゃあ (--) ヨルムンガンド: あ、ちょっとまってよお姉ちゃん!人間さん、ほら、ついてきて 人間さん: ああ。それじゃロキ、またな ロキ: ええ、いってらっしゃい (--) ロキ: 行ってしまいましたか……。それでは、っと…… (人間さんたちを見送ったロキは、けだるげに周囲を見回す。) (信民たちは復興作業に忙しいが、彼女自身が言ったとおり、ロキは手伝う素振りも見せない。) ヘル: ロキ (その背中に、ヘルの声が投げかけられた。) ヘル: 人間さんは? 見かけなかった? ロキ: ああ……人間さんなら、さっきヴァナルガンドさんたちと見回りに出かけましたねぇ ヘル: ヴァンと? ふうん…… ロキ: ついさっきですから、追いかければ間に合うと思いますけど ヘル: 別に、仲間に入りたいわけじゃないから ロキ: あらあら、そう言わずに。何か思いがけない出来事があるかもしれませんよ? ヘル: ……何よ、思いがけない出来事って ロキ: このままひとりで、ふてくされて部屋に帰るよりは何かの可能性が広がると思いますけどね ヘル: …… 60032 - 姉妹との交流 (ニヴルヘイムを3人で巡回する。) (俺が見る限りは、これといった異状は見受けられなかった。) ヴァナルガンド: 見当たりませんね ヨルムンガンド: お姉ちゃんは、あの変異種には裏があると思ってるんでしょ? ヴァナルガンド: 私たちが追いかけていたあの女……無関係とは思えません 人間さん: おそらく、なんだけど……あの子は、俺の知り合いかもしれないんだ ヴァナルガンド: ……? 人間さん: 俺の元の世界で一緒だった仲間のひとりだと思う。ちょっと変わってるけど、悪い子じゃない ヨルムンガンド: うーん、人間さんが知ってる子だっていう確証もないし、まだなんとも言えないですねぇ ヴァナルガンド: 私の行動はシンプルです。私の信民を傷つけたこと、その報いは必ず受けさせます 人間さん: 責任感が強いんだな ヴァナルガンド: 別に……大したことじゃありません ヨルムンガンド: へえ? お姉ちゃんってば素直じゃないなぁ……♪ (--) ヨルムンガンド: ここはミッドガル湖。ニヴルヘイムの中では一番大きい湖ですよ 人間さん: これはすごいな。琵琶湖より大きいのかな ヴァナルガンド: ビワコ? 人間さん: いや、元の世界の話。元っていってもえーと……ややこしいから、まあいいか ヨルムンガンド: お兄さん、見て。水がすごく透き通ってるから、泳いでる魚が見えるんですよ 人間さん: お、ほんとだ ヨルムンガンド: 奥にはあんな魚もいるんです。見たことないでしょう? 人間さん: ん、どれ? ヨルムンガンド: ほら、もっと奥……てやっ! 人間さん: うわああああ!? ヨルムンガンド: きゃははははっ♪ お兄さんってば、こんなお約束のいたずらに引っかかっちゃうなんてー♪ ヴァナルガンド: はあ……ヨル、またやりましたね 人間さん: すっごい冷たいんだけど!?心臓止まるぞ、こんなの! 人間さん: はあ……まったく、仕方ないな。落とすからにはタオルくらい用意してる……よな? ヨルムンガンド: はいはーい。あと火を起こしますね ヴァナルガンド: ……それだけですか? 人間さん: それだけって、何が? ヴァナルガンド: 普通、ヨルのこういういたずらには、もっと怒るものかと ヨルムンガンド: ヨルちゃんも自分でやってびっくりですよぅ?怒られちゃうかもって思いましたから 人間さん: んー……元の世界での仲間とも、こういうこと多かったしなぁ ヴァナルガンド: ……元の世界の仲間、ですか。そうでしたね、お前はこの世界に迷い込んだ別世界の存在…… ヴァナルガンド: 心細くはないんですか? ヨルムンガンド: うんうん。ひとりぼっちですもんね 人間さん: まったく平気だって言えば嘘になるけどな……でも、ヴァンやヨルも含めて、みんながいてくれるから ヴァナルガンド: ……お前、口が上手いですね ヨルムンガンド: じゃあお兄さん、脱いでください♡焚火の準備ができたので、一緒にあったまりましょ (言われるがまま、下着1枚になって火にあたる。) (と、ヴァンとヨルが、こちらを挟むようにして両脇に座った。) ヴァナルガンド: 風よけです ヨルムンガンド: あれぇー? お兄さん、もしかしてヨルちゃんと密着してドキドキしちゃってます? まさかそんなことないですよね? (動揺しないわけがない。) (が、なんとか平静を保とうと深呼吸をしていると……。) ヘル: 何してるの、貴方 (そこにはヘルの姿があった。) ヘル: ……最低ね (一方その頃、アースガルズにある白亜の宮殿、) (ヴァーラスキャールヴでは――) バルドル: じゃあ、やっぱりオーディンちゃんがユグドラシルに何かしていたのね オーディン: ええ……。ニヴルヘイムに不便をかけてしまっているのは、わ、わたしも申し訳ないと思っています…… オーディン: で、でも、どうしても、必要なことでっ…… バルドル: 大丈夫よ、オーディンちゃん。事情がわかればみんなもきっと納得してくれるわ オーディン: じ、事情、ですか バルドル: 何かが起きているんだよね? それでオーディンちゃんはユグドラシルのエネルギーを操作して…… オーディン: ……ちょ、ちょっとした備えです。き、気にしなくて、大丈夫ですから バルドル: オーディンちゃん…… 60033 - 閉ざされたもの オーディン: そ、それよりバルドル、さっき言っていた異世界の人って……き、金髪の女の子……ですか? バルドル: え? 男の人だけど オーディン: ああ、そっちですか……な、なるほど…… バルドル: ねえ、オーディンちゃん。みんなにちゃんとお話ししないとニヴルヘイムの人たちも納得できないよ? オーディン: い、いえ、本当に大したことではなくて……す、すぐ、終わりますから…… バルドル: ………… バルドル: (……) (結局、オーディンから情報と呼べるものは引き出せなかった。) (バルドルはため息をひとつついて、アースガルズの町を歩く。) バルドル: (結局、何も教えてくれなかったけど……。でもオーディンちゃんとは長い付き合いだから、なんとなくわかる。何か大変なことが起きているはずだわ) バルドル: (それにしても、もともと自分の話はあまりしてくれない子だけど……。わたしって、信用してもらえないのかな) バルドル: はあ…… トール: バルドルってば、ずいぶん深いため息ね? バルドル: あ、トールちゃん…… トール: オーディンのところに行ってきたんでしょう?だいたい、何があったかはわかるわ トール: オーディンがひとりで悩んでいるから助けてあげたいのに、何も言わずに秘密にするものだから、信用ないのかなって落ち込んでる……違う? バルドル: 見てきたみたいにいうのね トール: あたしもまったく同じだったからね。ま、あたしは落ち込んだりはしないけど バルドル: やっぱりそうだよね? トールちゃんも思うでしょ?オーディンちゃん、何か隠してるわよね トール: バルドルは確かニヴルヘイムに何か調べに行っていたのよね?わざわざ戻って来たってことは、そっちで何か見つけた? バルドル: うん、実はね…… (…………。) トール: なるほどね。ニヴルヘイムで、異世界から来た男女……。あたしも金髪の女と、もうひとりの男についてはオーディンからちらっと聞いたのよね バルドル: やっぱり人間さんくんも関係あるのかしら…… トール: バルドルはニヴルヘイムで引き続き状況を見ていて。あたしも何かあれば伝えるから バルドル: ええ、わかったわ ヴァナルガンド: それじゃあお前は、元の世界でも異世界人だったんですね (ヘルが合流し、俺の服も乾いたところでニヴルヘイムの巡回を再開していた。) (その道中、俺は自分の身の上を簡単に話して聞かせる。) (生まれ育った世界からオトギノクニという世界に迷い込み、そして負のエネルギーであるディマイトが増えすぎている問題を、自分が生み出す正のエネルギー、エルマイトによって解決――) ヨルムンガンド: すっごく大変な旅だと思いますけど、よく逃げませんでしたね。だってお兄さんにとって、そのオトギノクニって世界は自分の世界じゃないんですよね? ヘル: そうよね。なんの義理も情もないわけでしょう? 人間さん: 最初は成り行きに流されていたところもあるけどな。でも、誰かと接して仲良くなれば、困っているとき助けたいだろ 人間さん: だから、世界を救うなんて大それたことをしている意識は全然なかったな ヘル: ふうん……。じゃあいまも、そういう心持ちなのかしら? ヘル: ニヴルヘイムの問題にも結局、首を突っ込んでいることには気が付いてるわよね……? 人間さん: そうだな。何ができるかはわからないけど、手助けになるなら…… ヴァナルガンド: ――っ! おしゃべりは、そこまでです (--) 変異種: グガアアアァァァァッ! ヨルムンガンド: 大丈夫、数は1体だけです ヘル: 前回より大きさも少し小さいみたいだし……3人でいけそうね ヴァナルガンド: ええ、当然です 60034 - 雨依との再会 ヘル: ふう……無事に倒せたわね。やっぱり大したことはなかったわ 人間さん: あれは……! ヨルムンガンド: あ、ちょっと、お兄さん!? ヴァナルガンド: 急に走り出したりして、なんなんですか? ヘル: いえ、あそこ。女の子が倒れているわ。もしかして、貴方の知り合い? 人間さん: ああ。雨依って言って…… (倒れているのが見えた場所に到着する。) (やはり倒れていたのは雨依だった。) (慌てて彼女を助け起こす。) (途端に、全身に強い痛みを感じて、思わず顔をしかめた。) 人間さん: うっ!? な、なんだ……? 雨依: んっ……! (それは雨依も同じだったのか、声を上げたかと思うと目を覚ました。) 雨依: え……人間さん……さん……? ヨルムンガンド: あっ! この子! ヨルちゃんたちが追いかけていたのはこの子で間違いないですよ! ね、お姉ちゃん ヘル: かなり衰弱しているみたいね。貴方たちの家に運んでも構わない? ヴァナルガンド: ……いいですよ (倒れた雨依はヴァナルガンドが背負って、町まで戻ってきた。) (屋敷へと向かう道すがら、ヘルはちらちらと周囲を見回している。) ヘル: ……ロキは、どこに行ったのかしら ヨルムンガンド: 大丈夫ですよ。ヨルちゃんたちだけで介抱できます ヘル: ああ、そうじゃなくて。この子、人間さんと同じ異世界人ってことになるじゃない。あの人も何か知っているかと思って話を聞きたかったのよ ヘル: ねえ、ロキを見なかった? 信民: ロキ様なら、ヘル様がお出かけになってすぐ、どこかへふらりと出て行かれましたが…… ヘル: ……そう ヨルムンガンド: どうしたんです? ヘル: いえ……タイミングがちょっと、ね ヘル: 貴方、どれくらい食べていないの? 雨依: 多少は食べてるわ。この3日くらいは、ナッツばかりだけど…… ヨルムンガンド: そんなの食べたうちに入らないですよぅ。お姉ちゃんがいま、美味しいお肉を用意してくれますからね ヴァナルガンド: できました。少し早いですが、私たちも食事にしましょう 人間さん: おお、これは…… (ヴァンが用意してくれたのは、肉料理中心だった。) (豪快に焼いたもの、じっくりローストしたもの、赤ワイン煮……。) ヨルムンガンド: ヨルちゃんたちは森で狩りもするんです。これは、そのとき獲れたものです 雨依: あまり食欲がわいてこないの……こんなに重いもの、食べられるかしら…… ヨルムンガンド: 食べてみると意外と食べれちゃうんですよ ヘル: ん……美味しい。独特の風味はあるけど、臭みはないわね 人間さん: それそれ。いわゆるジビエだろ?これはちゃんとした処理をしてるからかな ヴァナルガンド: ふふん、当たり前です 人間さん: さすがだなあ ヴァナルガンド: お前、もっと褒めていいですよ ヘル: なに、人間さんは元の世界でも食通だったわけ? 人間さん: いやいや、普通だよ。旅の連続だったし。ただ、たまたま料理の腕が最高な仲間がいたおかげで…… ヨルムンガンド: 長旅だと、ごはん作れる人がいると助かりますよねぇ。お姉ちゃん、負けてられないね♪ ヴァナルガンド: 別に対抗する必要ありませんし 人間さん: えーと、これはテリーヌ? へえ、手が込んでるなぁ ヘル: 危険な気配を察して話題を変えたわね。そういうところ、女慣れしてる感じで腹立つわ…… 雨依: ………… ヴァナルガンド: どうしました? ヨルムンガンド: あ、なんだかんだ食べてくれてますね♪言ったとおりでしょう? 意外と食べ始めると進んじゃうんです 雨依: え、ああ、そうね……。うん、美味しいわ ヘル: にしては、浮かない顔だけど 雨依: ううん。人間さんは仲良くなれて、すごいなって 人間さん: ん? なに、3人ともいい子たちだし、雨依もすぐに仲良くなれると思うよ ヨルムンガンド: 湖に突き落としたのに、いい子だなんて。お兄さんは甘いなぁ♡ 雨依: ……。……そうね 60035 - 食卓を囲む輪 雨依: …… 人間さん: でも、こうして会えてよかったよ。ひとりだとやっぱり、心細かっただろ 雨依: うん、そうなの。本当に怖くて、辛くて…… ヨルムンガンド: ヨルちゃんたちが追いかけちゃったせいもありますよねぇ。ごめんね、いじめるつもりじゃなかったんです ヨルムンガンド: ただ……ちょうど変なことが起きていた時期だから、雨依さんが悪い人なんじゃって思っちゃって ヴァナルガンド: その可能性は、まだ完全に消えてませんけど 雨依: ……変なこと? ヘル: 魔物が凶暴化したり、土地のエネルギーが薄れてしまったり……一応、原因の心当たりは見つかってるから安心して 人間さん: 同じオトギノクニから来たんだから、雨依だけが何かの原因になるってのも変な話だからな 雨依: ……それは、わからないけど 人間さん: 俺もさ、本当は心細かったから、こうして雨依に会えてホッとしてるところもあるんだ 雨依: 人間さん……。私に会えて、嬉しい……? 人間さん: ああ、もちろん。何度か見かけたけどうまく会えなくてずっと気になってたんだよ。会えてよかった 雨依: そっか……うん、気になってたんだ。そう…… 人間さん: 俺なんて2回目の異世界転移だからさ、いい加減に慣れろって話なんだけどな 雨依: ………… 人間さん: あれ、言ってなかったっけ? 俺、もともとオトギノクニの住民ってわけじゃなくて、別世界から迷い込んだんだよ 雨依: ううん、それは聞いたことあるわ。そうじゃなくて…… 雨依: 私は……人間さんに、そんなふうに思ってもらえる資格なんて…… 信民1: ヴァナルガンド様、ヨルムンガンド様!どうぞ、お納めください ヴァナルガンド: 開いています。どうぞ、入って 信民1: お客さまも来られていると聞きましたので、ぜひこちらなどお納めいただければ ヘル: 野菜? このあたりじゃ貴重なものなんじゃない? ヨルムンガンド: いつもありがとうございまぁす♡ 信民2: あたしからは、これっ。ヨルムンガンド様にっ ヨルムンガンド: わっ、可愛い首飾りですね。ありがとう、大切にします♪ 信民2: あとねっ、これは人間さん様に 人間さん: え、俺にも? これは木彫りの人形、かな。でもいいのかな、俺はμじゃ…… ヘル: 無粋なことを言わなくても、厚意なんだから素直に受け取っておきなさいよ 人間さん: それもそうだな ヨルムンガンド: ヨルちゃんたちも、たくさんもらってるんですからねー。お兄さんには負けませんよ~ ヴァナルガンド: 張り合うことじゃないですよ、ヨル (ヨルの言うとおり、部屋の棚には装飾品などがところ狭しと並ぶ。) (彼女たちが多くの贈り物を受け取り、そしてそれを大切にしていることが伺えた。) 雨依: 人間さんは……みんなに、信頼されてるのよね 人間さん: 特別なことをしているわけじゃないよ。きっと雨依だって、俺と同じように信頼される 雨依: …… ヨルムンガンド: ほら、お兄さん。このジュエリーケース、可愛いでしょ? ヴァナルガンド: 私がもらったのはこのペン立てです。これもいいでしょう (土地柄なのか、木製のものが多い。どれも器用に装飾がされていてインテリアとしても質が高いと感じられた。) 雨依: ……あなたと私は違うの。同じになんて、なれない…… 人間さん: え、なんて? 雨依: いいえ、何も (ヴァンたちの自慢に気を取られて、雨依の声が聞き取れなかった。) (何を言ったのだろう……?) バルドル: ただいまー。みんな、ごはん中だったのかな? ヴァナルガンド: ええ。バルドルも食べるなら用意します バルドル: あっ、美味しそう! でもまず、報告だけしなくちゃね。オーディンちゃんに話を聞いてきたから ヨルムンガンド: 何かわかったんですか? バルドル: 詳しいことは教えてもらえなかったんだ……。けど、何か大きな問題が起きていて、そのためにユグドラシルのエネルギーを調整していたのは確かよ ヴァナルガンド: じゃあ、一連の出来事はやっぱりオーディンの影響…… バルドル: それと、異世界から来た人のこともオーディンちゃんの未来視で把握していたみたいなの。人間さんくんだけじゃなくて金髪の…… ヘル: ああ、この子? バルドル: そうそう……って、ええっ!? 一緒にいる!? 60036 - 苦悩と誘惑 雨依: ………… (決して派手ではないが活気のある町。) (私はその片隅で、じっとそんな町の風景を眺めていた。) (人間さんはヘルとかいう子に付き合って買い物に出かけた。) (私も誘われはしたけど、そんな気になれなくて丁寧に断った。) 雨依: (一緒にいると……実感してしまうから……) (ふと指先に鈍い痛みを感じ、視線を移す。) (そこにはまた、淡い光が宿っていた。) 雨依: だめ……もう、これ以上はいけない…… 雨依: (けど、私のことを受け入れてくれなかったのは、この世界のほうでしょ? そんな相手になんで気を使わなきゃいけないわけ?) 雨依: だとしても……こんなこと、してたら……私はどんどん、だめになっていっちゃう…… 雨依: まだ、いまなら間に合うはずだから…… 雨依: (もう、間に合わないんじゃないの……?) (『――そう、間に合わない。もう足を踏み外してしまったのだから』) 雨依: ……間違いはあるわよ。誰にだって。まだ私はいまなら (『それは希望的観測。現実は違う。1度でも過ちを犯せば、生涯その呪縛から逃れることはできない――』) 雨依: わた、しは…… (これは頭の中に浮かぶ自分の考えてることなのか。) (それとも本当に誰かの声が聞こえているのか。) (境目があいまいになって、私は指先を見つめ半ば衝動的に――) (噛んだ。) (--) 信民1: うわああああぁぁぁっ!! 魔物だ、またあの魔物がっ……! 信民2: 誰かヴァナルガンド様とヨルムンガンド様にお知らせするのよ! ヘル: なに、この騒ぎは……まさかまた変異種が…… 人間さん: 見ろ、ヘル! あそこに……! (家々の屋根の向こうに、巨大な影がちらついていた。) (間違いない、変異種だ。) ヘル: かなり大きい個体ね。さすがにひとりで倒すのは危険だわ。ヴァナルガンドたちと合流するわよ (ヴァンの家のほうへと急ぎ戻る。) (だが――) 変異種: グゥオオアアアァァ! (屋根の向こうに見えていた影が、こちらに気づいたのか、一気に迫ってくる。) ヘル: ちっ……面倒ね。人間さんは下がっていなさい (迎撃態勢に入るヘル。) (俺は大人しく数歩、後ずさる。) (と、そのとき視界に見覚えのある金髪がちらりと映った。) 人間さん: あれは……雨依!? どこへ行こうとしてるんだ (彼女は町外れのほうへとふらふらと歩いていく。) (俺は反射的に、彼女のほうへ駆け出していた。) 雨依: 人間さん…… 人間さん: 変異種がまた現れたんだ! ひとりでいるのは危険だぞ 雨依: ううん。大丈夫よ、きっと。私たちはね 人間さん: なにを言って…… 人間さん: ……まさか、雨依 雨依: そんな目で、見ないで (そう言い残し、雨依は背を向けて走り去る。) (慌てて追いかけようとするが――) 変異種: グガアアアァァァァッ!! 人間さん: なにっ……!? (背後から聞こえる咆哮に、はっとして振り返る。) (そこには先程見かけたのとは別の個体が、こちらにゆっくりと迫っていた。) 人間さん: (倒すのは無理でも、μが駆け付けるまで持ちこたえられるか……?だが、雨依のことも守らないと……いや、さっきの言い方だと雨依は……) 変異種: グウウウゥゥゥ……!! (変異種はもう、すぐ目の前に迫っていた。) (俺は腰の剣を抜いて身構える。) (だが……。) 変異種: グウウウゥゥゥ…… 人間さん: え……? (変異種は俺のすぐ横を素通りしていった。) (こちらに一瞥をくれたものの、まるで興味がないようだ。) 人間さん: どうして……襲われない……? ヴァナルガンド: 凍れ 変異種: グガアアアァァァァ!? (予想外の事態に呆然としていると、聞き覚えのある声が響き強烈な冷気によって変異種が氷漬けにされる。) (誰の仕業かは明らかだ。) 人間さん: ヴァン! 来てくれたのか ヴァナルガンド: …… 人間さん: ――っ!? (心強い味方に駆け寄ろうとした瞬間、こちらの足元に氷の円錐が突き刺さる。) 人間さん: ヴァン……!? ヴァナルガンド: お前、許さないです……! 人間さん: 待ってくれ、何を誤解して……うわああっ! (ヴァナルガンドは容赦なくこちらに攻撃を浴びせてくる。) ヴァナルガンド: 信じようと、していました……! お前のこと、仲間だって……思っていたのに、こんなこと……っ! ヴァナルガンド: 許しません……! 絶対にっ……! ヘル: 待ちなさいっ!! (どこかでヘルの声が聞こえたと思った次の瞬間、目の前が氷で真っ白になり――) 60037 - 疑惑と責務 ヘル: ……気が付いた? (はっとして身を起こすと、そこは森の中だった。) (ヘルがこちらに気づかわしげな視線を向ける。) ヘル: ここは町から少し離れた森よ。何が起こったかは、覚えてる? 人間さん: いや……急にヴァンが攻撃してきたんだ。それであとは…… (いや、うっすらと記憶の片隅に、氷が直撃する寸前に何かが障壁になってくれたのを覚えている。) (あれはおそらく、何かの骨だった。) 人間さん: ヘルが助けてくれたのか? ヘル: ええ。理由は知らないけど、彼女は明らかに貴方を敵とみなして徹底的に攻撃していたわ ヘル: 私としては、貴方という研究材料を失うわけにはいかないの。かと言ってあのヴァナルガンドを相手に正面から戦いたくはない 人間さん: だから、庇いながら町から離れたってわけか ヘル: この先に行けばヘルヘイムよ。そこまで戻ればヴァナルガンドもむやみに手出しはしないはず 人間さん: ヘルヘイムに? ヘル: 一応、μにもある程度の縄張りはあるのよ。ヘルヘイムは私の本拠地、本来の力が出せる場所よ。逆に言えば敵地は不利。攻め込むのはリスクが高いの ヘル: でも、何があったらあんなことになるのよ。ちょっと目を離した隙に私からも離れていたし 人間さん: それは…… (ヘルには一通りの事情を話した。) (雨依を見かけて呼び止めたこと、その後に変異種が現れたが自分を攻撃しなかったこと、そしてヴァンが現れたこと――) 人間さん: 変異種が自分を攻撃しなかったこと……それで疑われたんだと思う (雨依が言い残したことも引っかかってはいたが、確たる証拠ではない。) (そのことには触れずに、自分の予測を明かした。) ヘル: なるほど……確かにそれだと、変異種を操っているように見えてしまうかもしれないわね 人間さん: ヘルは……信じてくれるのか? ヘル: 巡回のとき言ってたじゃない。仲良くなった人が困っていたら助けたい、みたいなこと……。あんな話をしていた貴方が裏切るなんて考えられないでしょ (ヘルの言葉をありがたく聞いていると、急に彼女はハッとして顔色を変えた。) ヘル: ち、違うわよ。まだ研究材料として利用価値があるから助けたの。さっきもそう言ったでしょ 人間さん: そういうことにしておくよ ヘル: とにかく! 変異種の対処で手一杯で追跡まではできないはず。いまのうちにヘルヘイムに入ってしまいましょう 人間さん: ……そうだったな。変異種が出現していたんだ。あの町に。逃げてる場合じゃない ヘル: はあ? 何を言ってるのよ。貴方は裏切り者扱いされて、攻撃されたのよ? 人間さん: でも町の人は俺をまだ信じてくれている。μですらない俺にまで差し入れしてくれたんだぞ 人間さん: そんな信民の人たちを裏切れないだろ。ヴァンともこのままにしたくないしな ヘル: 呆れた…… ヘル: まあ……こういう人だから信じる気になったんだけど 人間さん: ヘル? ヘル: なんでもないわ。仕方ないわね、最後まで付き合うわよ 60038 - 戦う理由 (人間さんが町を離れていた頃。) (ヴァナルガンド、ヨルムンガンド、そしてバルドルの3人は変異種との激しい戦いを繰り広げていた。) ヴァナルガンド: ヨル、また足止めします ヨルムンガンド: 了解っ! オルム、いっちゃえ! (ヴァナルガンドの氷で変異種の足を凍らせて動きを鈍化、そこをヨルムンガンドが操るオルムで攻撃する。) 変異種: グガアアアァァァァ! バルドル: ヨルちゃん、下がって (そして変異種の繰り出すカウンター攻撃は、バルドルが盾役となって引き受ける。) バルドル: ふん……きっ、効かないんだからっ。そんなのっ! (決して楽な相手ではない。簡単には倒れなかった。) (しかし、パターンにはハマっていて、時間さえかければ倒せるという見通しもついていた。) バルドル: 人間さんくんがエネルギーをたくさんくれたおかげね ヴァナルガンド: ……あれは、裏切り者です バルドル: だとしたら、どうしてエネルギーをくれたの?わたしたちを助ける理由なんてないじゃない ヴァナルガンド: でも、私は見ました。あいつは…… (激しい破壊音が響く。はっと全員がそちらに視線を向けると、別の個体が暴れまわっていた。) ヨルムンガンド: あっ……ヨルちゃんたちのおうちも……! (派手な攻撃で、ふたりの家も破壊され、その外壁の一部などは彼女たちの足元にまで飛散した。) ヨルムンガンド: あ……これ、ヨルちゃんの……ジュエリーケース…… (粉々になった木片。だが、施された装飾を見れば、確かにそれは彼女が信民の子供から贈られた品だとわかる。) ヴァナルガンド: 大切なものを、奪っていくんですよ……こいつらは……! ヘル: もう戦いは終わったのかしらね。静かだけど…… 人間さん: それならそれでいいんだけどな ヴァナルガンド: よく、顔を出せましたね。もっとも、逃げたところで地の果てまでも追いかけるつもりでしたが ヨルムンガンド: お姉ちゃんから聞きましたよ……。どうして、こんなことを 人間さん: 違う、それは誤解で…… ヴァナルガンド: 言い訳なんて聞きたくありません…… 人間さん: うわっ……!? (容赦なく攻撃を放つヴァナルガンド。) (それに対し、ヘルのスケルトン兵よりも早く、俺の前で盾となったのは――) バルドル: ヴァンさんっ、落ち着いて。人間さんくんがそんなことをする理由がないのよ ヴァナルガンド: バルドルも……そっち側につくんですか ヨルムンガンド: どうしてですか、バルドルさん。私、バルドルさんが相手じゃ手加減なんてできませんよ バルドル: 聞いて、ヨルちゃん。人間さんくんは…… ヨルムンガンド: お姉ちゃんがこんなに悲しんでるんです。私が戦う理由は、それで十分ですよ……! (大蛇のオルムが素早くバルドルを絡め取ろうとする。) (いくら防御力が高くても動きを封じられれば意味がない。) ヘル: バルドル、下がって バルドル: ありがと、ヘルちゃん (絡みつく寸前にヘルが、バルドルと蛇の間に骨を数本差し込んだおかげで、僅かに生まれた隙間を使って身をかわすバルドル。) (しかし、すぐにオルムは体勢を切り替えてバルドルに向かう。) (あくまで盾役を封じようという狙いのようだ。) ヘル: させないわよ ヨルムンガンド: いつまでもつかなぁ? オルムっ ヘル: !? (オルムは急に方向転換し、ヘルの身体に絡みつく。) (不意のことで対処が間に合わず、動きを封じられるヘル。) (そこにすかさず氷塊が飛ぶ。) ヴァナルガンド: そこです ヘル: うああああっ!? (咄嗟のことでバルドルのカバーも間に合わず、攻撃はヘルを直撃した。) 人間さん: ヘル!! ヘル: ふん……これくらい、まだまだなんともないわ…… 60039 - 倒すべき相手 ヘル: この蛇は厄介ね…… 人間さん: ヘル、バルドル。俺の手を (ヴァンやヨルと戦うことは本意ではないが、かといってこのまま、自分を信じてくれたヘルとバルドルが傷つくのを見ているわけにもいかない。) (エルマイトを送り込むと、ヘルは力強くうなずいた。) ヘル: 助かるわ。これで……またあいつを呼び出してやるわ。! ! (以前、ヘルヘイムでの戦いでも呼び出したドラゴンの骸がヘルが両手をかざした先で組み上がっていく。) バルドル: 人間さんくんのそれは、本当にすごいよね。パワーだけじゃなくて、気持ちも前向きになれる気がするし…… 人間さん: 気持ちも…… (ふと、ヴァナルガンドの姿を見る。もし、敵対している状態でも直接エルマイトを送り込むことができたらどうだろう。) (何か変化が起きるかもしれない。) (俺はふたりに、その考えを明かす。) (そして援護してほしいと頼んだ。) ヘル: 貴方、直接ヴァナルガンドに……って、危険すぎるわよ バルドル: どっちにしろヘルちゃんの竜骸でオルムは封じられる。なら、わたしがヴァンさんの注意を引けばいいだけでしょ? ヘル: ……このままでは埒が明かないのも事実ね。わかったわ、人間さん。死なない程度にやりなさい ヴァナルガンド: 何をごちゃごちゃと話してるんです。ああ、ふたりをそうやって洗脳しているんですね? (あくまでも疑いを向けるヴァン。) (それにはもう答えず、彼女めがけて一直線に走り出す。) ヨルムンガンド: お姉ちゃんっ……! くっ、何このガイコツっ、どいてよっ ヴァナルガンド: ヨル、慌てなくていいです。バルドルは守りは固いですが、攻撃は私に届かない…… バルドル: 全部、受け止めるっ……。人間さんくん、行って ヴァナルガンド: 人間さんが……? お前に、何ができるんです 人間さん: 何ができるかはやってみないとな…… (バルドルが作ってくれた隙。それを突いて一気にヴァンとの距離を詰める。ヴァンの身体能力ならさっさとかわせるだろうが彼女は相手が俺だからと高をくくって待ち構えていた。) 人間さん: ――っ!? (が、視界にゆっくりと動くものが入る。) 人間さん: (変異種……! まだ完全に倒れていない個体がいたのか!) (ヴァンの斜め後方、瓦礫の中から変異種がゆっくり起き上がる。) ヴァナルガンド: ふん…… (ヴァンはこちらに集中してしまっているせいで、変異種の動きには気づいていない。) (このままでは……。) 人間さん: おおおおおおおおっ!! (剣を抜き、そして振りかぶりながら方向転換する――) 変異種: グガアアアァァァァッ!! 人間さん: ぐぅ……っ、く、はぁっ……!! ヴァナルガンド: ――!? (剣で変異種の攻撃を受け止める――つもりだったのだが、衝撃を吸収しきれず、そのまま跳ね上げられてしまう。) (受け身を取ることもできないまま、全身を強かに地面に打ち、倒れ伏した。) ヴァナルガンド: お前…… (驚きながらも、さすがはヴァン、すぐに変異種から間合いをとりそして目を見開いたまま俺を見下ろした。) 人間さん: ここで争ってる場合じゃない、だろ……?あれを、倒してくれ…… ヴァナルガンド: ……っ!! ヴァナルガンド: …… ヴァナルガンド: …………っ バルドル: 人間さんくんっ、大丈夫!?いま治療するから! (バルドルが駆け寄ってくる気配が伝わってくる。) (おそらくヘルとヨルも、一旦争いを止めてくれるはずだ……。) ヴァナルガンド: ……バルドル。そいつは、任せます バルドル: うん、わかったわ。ヴァンさんは…… ヴァナルガンド: あの魔物に、とどめをさす。それが私の役割ですから (薄れゆく視界の中、ヴァンは変異種に向かって果敢に立ち向かい、強烈な冷気を放つ。) (それを見届けて、俺は意識を手放した――) 60040 - ありがとう (ふっ、と意識が繋がった。) (俺はいったい、どうしていたのか……。) (目を開くと、そこはあまり見慣れない部屋だった。) 人間さん: そうだ、俺は確か……変異種に攻撃を食らって…… ヴァナルガンド: ん…… (ふと見ると、自分が横たわっていたベッドに突っ伏すようにしてヴァンが眠っている。) 人間さん: (ということは無事に倒せたってことだよな。よかった) 人間さん: (きっと、ずっとついててくれたんだな……) 人間さん: ありがとう、ヴァン…… ヴァナルガンド: んっ……? ん、あ……起きた……ですか……? 人間さん: ああ。ずっとついててくれたんだろ ヴァナルガンド: ……これくらい、当然です ヴァナルガンド: 私は……お前のこと、疑いましたから。お前は、信じてくれていたのに、です 人間さん: いや、あれは疑われても仕方ない状況だったよ 人間さん: (それに……実際、雨依の言動は……) ヴァナルガンド: これは、言い訳です (目を伏せ、ヴァナルガンドは絞り出すように言った。) (こちらは疑惑を向けられたことを根に持っているわけではないのだが、ヴァンとしては看過できないのだろう。) (立場が逆ならこちらも同じように捉えるだろうとは思う。) ヴァナルガンド: 私は、ヨルさえいれば、それでいいと思っていました。μのことも、親しくするつもりなんてなくて ヴァナルガンド: だから、この数日……私にとって、初めてばかりでした。ヘルとか、バルドルとか……それにお前も 人間さん: そうだったのか。あまり、誰かと関わることがなかったんだな (信民とは親しいようではあるが、あの関係は友人とは言えないだろう。) ヴァナルガンド: そう。だからわからなかったんです。誰かを信じるってことが 人間さん: ああ、そういうことだったのか…… (友情、信頼、人間関係……そういったものを無視すれば、ヴァンの対応はとても合理的だともいえる。) (疑惑が生じた時点でさっさと排除すればリスクは低い。) (たとえそれが間違っていたとしても、彼女自身や信民たちの安全が脅かされることではない。) ヴァナルガンド: それとたぶん、裏切られることにも慣れてなかったんです ヴァナルガンド: だから裏切られたかもしれないと思ったら、頭に血が上りました。そしてお前のこと、最後まで信じぬくこともできなかった ヴァナルガンド: だから私はお前に、言わなきゃいけないことがあります ヴァナルガンド: 信じてあげられなくて……疑ってしまって、ごめんなさい 人間さん: ん……ヴァンの気持ちはわかった。俺はもう気にしていないから ヴァナルガンド: そんなに簡単に……許せるんですね (ヴァンと目が合う。) (彼女はこれまで見たことがない優しい微笑みをたたえていた。) ヴァナルガンド: 私だったらきっとそんなふうに寛容にはなれないです 人間さん: 疑いたくなる気持ちもわかるから、かな (この世界において俺は守るべき存在はいない。) (一方、ヴァンは違う。) (その差は埋めがたいものだし責められるものでもない。) ヴァナルガンド: でも……たとえどんな理由があっても、私はお前を傷つけました 人間さん: それを俺が許さなかったら何が生まれる?また次の争いにつながるだけだ ヴァナルガンド: そう……なのかもしれません 人間さん: 俺はこうしてヴァンの笑顔を見ることができただけで体を張ったかいがあると思ってるし ヴァナルガンド: そう、ですか……。ありがとう ヴァナルガンド: そ、それと……その……っ 人間さん: ん? 他にも何かあるのか? ヴァナルガンド: えっと…… (何か言いかけたところで、ぴたりと動きを止めるヴァン。) (おもむろに立ち上がると入口の扉へと向かったかと思うと、勢いよく扉を開けた。) ヨルムンガンド: おわあああぁぁっ! (開けるやいなや、ヨル、ヘル、バルドルが転がり出てくる。) (どうやら扉の向こうで聞き耳を立てていたらしい。) ヘル: いったぁ…… バルドル: あらあら、見つかっちゃったわね ヴァナルガンド: バレバレです ヨルムンガンド: お姉ちゃんってば、なんかいい雰囲気だったよね~? ヴァナルガンド: 謝っただけ、筋を通しているだけです ヨルムンガンド: でもなんか、最後に言おうとしてたよね~?もしかして告白だったりしてー♡ ヴァナルガンド: 違いますから。ヨル、適当なこと言わないでください 人間さん: まったく、みんなして覗いてるなんてなぁ ヘル: 誰かさんがデレデレして、調子に乗ってセクハラするんじゃないかと思って見張ってたのよ バルドル: 人間さんくん、ちょっと心配だもんね 人間さん: そんなに信用ないのか!? どんなイメージだよ! ヨルムンガンド: お兄さんの場合は、日ごろの行い、かなぁ? (一気ににぎやかになる室内。) (そんな中、ヨルもまたふっと表情をしおらしくする。) ヨルムンガンド: ヨルちゃんも……お兄さんに、ごめんなさいです。一緒になって信じてあげられなかったから ヴァナルガンド: ヨルは、私の言うことは絶対なのです。半分は私のせいだから、責めないであげてください ヨルムンガンド: お姉ちゃん…… 人間さん: ああ。もちろんヨルのことも責めるつもりはないよ バルドル: さてと、それじゃあ人間さんくんが元気になるように美味しいご飯を準備しようかなっと ヨルムンガンド: ヨルちゃんもお手伝いしまーす♪ (だが、この和やかな空気ほどには、事態は解決していない。) (特に別れ際の雨依のあの態度……。) 人間さん: (雨依に、いったい何が……?) (そんな俺の思考を引き戻すようにヴァンがささやいた。) ヴァナルガンド: さっき、言いかけたことですけど 人間さん: え? ヴァナルガンド: これからも、一緒にいてください……です 人間さん: ……! ヘル: ちょっと、何こそこそしてるのよ ヴァナルガンド: なんでもありません。さあ、ジビエの準備をしますよ 100021 - 手がかりはアースガルズに (食事を終えた後、町に出てみた。) (変異種との激闘はまだ時間にして数時間前といったところか。) (町に突き立てられた傷跡は生々しい。) ヨルムンガンド: お兄さん (--) (ふいに声をかけられ、振り向くとそこにはヨルムンガンドがいた。) (彼女はいたずらっぽく笑い、自然な素振りで腕を組んだ。) ヨルムンガンド: ひとりだと心配なのでヨルちゃんがついていてあげます 人間さん: ああ、ありがとう ヨルムンガンド: 大丈夫ですよ、そんな顔しなくても。普段よりちょっとだけ大変ですけど、信民のみんなは慣れてます 人間さん: え……? ヨルムンガンド: 魔物はたくさん現れます。ヨルちゃんたちはふたりだけなので、いくら強くても全部の町をずっとは守れません (町の被害に心を痛めていたのを見透かされたようだ。) (それはもちろん、信民たちの苦労に寄り添う気持ちもあるが、何よりも――) ヨルムンガンド: 気になっちゃいますよね。雨依さんのせいかもしれない、ですもんね 人間さん: ……こんな大それたことをする子だなんて、思えないんだ (実のところ、雨依との直接の関係は薄い。) (レオナを介して何度か一緒に食事をしたり雑談したり、といった程度だ。) (もちろん関係性を測る指標として性的なものがすべてではないが、それでもひとつの物差しとして語るならば、俺は雨依とは手をつないだことがあるだけだ。) ヨルムンガンド: 同じ世界から来た仲間ですもんね。ヨルちゃんだって同じ立場なら信じたいですもん ヨルムンガンド: でも……それは本人に聞かなきゃだと思いますよ 人間さん: ……そうだな ヨルムンガンド: この後、みんなで作戦会議をします。そのとき、決めましょう (--) (ヨルムンガンドが予告したとおり、しばらくして作戦会議が開かれた。) (主題は変異種事件の真相の追及だ。) ヘル: これを解決しないと、信民もゆっくり眠れないわ バルドル: ヘルちゃんが信民たちのことをそんなふうに言うなんてね ヘル: バルドル、茶化す場面じゃないわよ バルドル: そんなつもりじゃないんだけどなぁ ロキ: 実際、ヘルヘイムでもニヴルヘイムでも起きてるので、アースガルドだけ大丈夫というのは考えにくいですし……範囲が広がる前に原因だけでも突き止めたいですね 人間さん: 原因は……やっぱり、雨依が怪しいよな (俺の手前、誰もがその名前を出しづらいに違いない。) (なら自分から話題にするべきだと口を開いた。) ヴァナルガンド: 私は、そう思っています (ヴァナルガンドは淡々と首肯した。) (もともと彼女を疑っていたからこそ俺のことも疑ったのだから当然の反応だろう。) ヨルムンガンド: 実は……雨依さんの目撃証言が集まってるんです。それらを総合すると、どうやら雨依さんは…… ヨルムンガンド: アースガルズに行ったみたいなんです 人間さん: アースガルズ…… (会話には何度か出ている。バルドルは、そこからやってきたはずだ。) (そして、オーディンも住まうという――) 人間さん: 追いかけるしかないだろう バルドル: あ、待って! それなら、わたしが行くよ~! ヘル: そうね、土地勘があるバルドルに行ってもらうのが一番いいんじゃないかしら バルドル: ヴァンさんとヨルちゃんは、いまはまだニヴルヘイムから離れるのは心配だろうし ヴァナルガンド: その通りですね。助かります 人間さん: なら俺も…… ロキ: じゃあ私が行きますよ。バルドルさんひとりだと、何かと大変かもしれないし ヘル: ロキ……? なんで貴方が ロキ: 私もこの一件は興味を持っているんですよ?それに……人間さんが行こうとしているみたいですが 人間さん: ああ……雨依のことも気になるからな ロキ: アースガルズにあなたが入るのはいかがでしょうね……?オーディンもどう反応するか…… ヘル: 何よそれ、オーディンが人間さんをどうにかするって言うの?やっぱり貴方、何か知ってるんじゃ…… ロキ: いいえ、何も知りませんとも。ただオーディンにも何か考えがあるようですから…… ヘル: ……そう ロキ: ですから人間さんはこちらで待っていてはくれませんか 人間さん: ん……ロキがそういうなら バルドル: 決まりだね。さっそく明日にでも出発するから ヨルムンガンド: じゃあ今日はこれで解散~! (全員が席を立ち、それぞれ勝手に動き始めたところで、視界の端でヘルがロキに近づくのが見えた。) ヘル: ……ねえ、ロキ。ひとつ聞かせて ロキ: あら、何か? ヘル: 貴方、変異種が現れたとき……どこにいたの ロキ: さあ…… ロキ: 現れた瞬間を見ていませんので、なんとも申し上げられませんね ヘル: ……そう (俺はそのやり取りの、なんだか不穏な空気だけを感じながら、ぼんやりと視界の片隅に捉えるのだった。) 100022 - やってみれば大したことじゃない (先日の襲撃以前から続けていたことだが、今日もまた俺は信民たちの復興作業を手伝っていた。) (黙って眺めているのは落ち着かないし、μと違って俺は彼らに何かしてやれるわけでもない。) (ならばせめて……というこの感覚は偽善かもしれないが、やらない善よりマシだろう。) ヘル: 相変わらずね 人間さん: ああ、ヘル。まあね、ヴァンたちの家でぼーっとしていてもなんだか落ち着かないしな ヘル: ……水分はちゃんととっておきなさいよ (ヘルが無造作に水筒を押し付けてくる。中身を覗くまでもなく、水筒本体の温度からよく冷えていることが伺えた。) 人間さん: ヘル…… ヘル: 何よ。言って置くけど、別に深い意味はないから。それより、これどうするの? 運べばいいわけ? (資材を前に腕組みをして見下ろすヘル。) 人間さん: そうだけど…… ヘル: 貴方ひとりでこんなもの運んでたら身体を傷めるわよ。こういうのは人数かけてやらないと (ヘルは、ふいに手を頭上に伸ばして軽く振ってみせる。すぐさまガイコツの兵士が数体、姿を見せた。) ヘル: こいつらなら、いくらでも使えるし。指示してくれれば運ばせるけど 人間さん: あ、ああ。助かるよ。それじゃあ、あの角の家まで頼む ヘル: わかったわ。さ、行きなさい (ヘルの指示に従い、ガイコツ兵士たちは資材を囲み、そして持ち上げ運んでいく。) ヘル: 何よ。そんなに驚かなくたっていいでしょ 人間さん: いや、前に話した感じだと手伝ったりはしないものだと思い込んでて ヘル: 発想がなかっただけで、別に嫌だとは思わなかったし。それに……信民だけじゃなくて、貴方まで働いているのに無視し続けるわけにもいかないじゃない (ヘルが協力してくれるとなれば、特にいまのような人海戦術が有効な場面では、かなり重宝するだろう。) ヘル: でも……実際にやってみたら大したことなかったわね 人間さん: だろ? ヘルヘイムでもやってみればいいよ。きっと信民たちとの距離感も変わる ヘル: ……そうね。いいかもしれない。でも、そんなことであの態度が変わるかしら 人間さん: 本当はヘルが優しいってことが伝われば十分変わるよ ヘル: なっ……!? な、なに言ってるのよ!?私は優しくなんか 人間さん: 俺はそう思ったんだけどな ヘル: バカ……そういうの、本当いらないから…… 私の何を知ってるっていうのよ 人間さん: 付き合いは確かに長くはないかもしれないけど、それなりに知ってるつもりだけどな。たとえば、意外と面倒見のいいところとか ヘル: 私が? はあ? 人間さん: じゃなきゃ行き倒れ同然の俺を拾ってくれたりしないだろ ヘル: あ、あれは実験のためだから!親切でやってるわけじゃないってば 人間さん: ニヴルヘイムまでついてきてくれたし、こうして残ってもくれて、たぶんアースガルズに行くと言えば一緒に来てくれただろうし ヘル: それは変異種の問題があるから!貴方のためなんかじゃないわ。いくらなんでも自意識過剰じゃない? 人間さん: うん、そう。自意識過剰。俺は勝手にそう思ってる ヘル: はあ……ほんっと、おめでたいわね (ヘルはそれっきり顔をそらしてしまった。が、隣に立ったまま、どこかへ行くでもなく。) ヨルムンガンド: あ、いたいたー! (ふいに聞こえた声に視線を向けると、ヴァナルガンドとヨルムンガンドが近づいてくるところだった。) (--) ヨルムンガンド: ねえねえ、今日は……って、あれ? なんか変な空気? ヘル: 普通よ ヨルムンガンド: 顔も赤いような? ヘル: 私のことはいいから用件を早く ヴァナルガンド: 今夜は祭りです 人間さん: 祭り? また急だな。しかも、こんな時期に ヴァナルガンド: こんな時期だからこそ、です。信民が私たちに感謝を捧げる祭りですから ヘル: 感謝を捧げる、ね…… (--) バルドル: ふ~。ついた、ついた~。なんだか、ずいぶん久しぶりに帰ってきた気がする ロキ: いかがです? 久しぶりのアースガルズの空気は バルドル: 空気の味まではわかんないよ~。でも、なんだか胸騒ぎがするんだ ロキ: 胸騒ぎ、ですか バルドル: あ、違うよっ。わたしはオーディンちゃんみたいに、未来を見通す能力なんて全然ないんだから バルドル: だからこれは未来予知なんかじゃなくて…… いろいろ知った上で、わたしが心配で不安になってるだけ ロキ: オーディンさんのことですね バルドル: ちゃんと話してもらえてないから……で、でも、今度こそ。新しい情報だってあるんだしっ ロキ: そうですねぇ…… (--) (ロキはふと視線を上げる。) ロキ: うまくことが運べばいいのですがねぇ…… (その先には、オーディンの居城に相対するように、霊峰ムスペルヘイムがそびえていた――) 100023 - 言ってくれればいいのに (ロキの視線に気づいて、バルドルもその山を見上げた。ここアースガルズのどこからでも見えるほどの象徴的な存在。霊峰ムスペルヘイム――) ロキ: 相変わらず、存在感ありますよねぇ バルドル: そうだね。普段は毎日見るからあまり気にしてないけど、こうやって帰ってきたときなんかは実感しちゃう (白い雪、あるいは木々の緑で彩られていればまだ違うのだろう。しかしムスペルヘイムは赤黒い粘土質の山肌で植物もほぼ生えない。) バルドル: 見た目が厳ついんだよねぇ ロキ: 伝説では、世界に終末をもたらすとも言われていますから バルドル: なんか、久々に見たからかもしれないけど、なんだろ、こんなに赤かったっけ……? ロキ: さあ……どうだったでしょうねぇ…… (ふたりは山から視線を外すと、互いに顔を見合わせる。) ロキ: 手分けをしたほうが効率的だと思うのですが、いかがです? バルドル: いいね。わたしはまず、トールちゃんに会いに行こうと思ってるんだ ロキ: では、私はオーディンさんのところを訪ねてみましょうか。門前払いの可能性が高そうですが、やってみないことにはね バルドル: うん。いい結果、期待してるね!じゃあ、後で合流する場所も決めとこ (地図に印を付けるバルドル。ロキはそんな彼女を、目を細めて見守るのだった。) (--) (駆け寄ってくるバルドルの姿に気づき、トールは顔を上げた。) トール: (わ……転びそう) バルドル: あ、トールちゃん! 久しぶ…… バルドル: ふわぁっ!? (段差にけつまずいたバルドルがすっころんで正面から地面に顔を打ち付け――) バルドル: あらっ? (すんでのところで、次の瞬間にはトールがバルドルを抱き止めていた。) バルドル: トールちゃん、助けてくれたのね? トール: 転びそうって予感が的中したわね。危なっかしい走り方なんだから バルドル: あらら、ごめんね~?カッコ悪いところ見られちゃった トール: バルドルのそれはもう慣れたから今更よ。とりあえず外で立ち話もなんだから……こっち (--) (トールが先導する形で、ふたりは手近な店に入ると、まずはバルドルが事のあらましを伝えた。) (ニヴルヘイムで起きた変異種が出現した事件、それに雨依という金髪の少女が関わっていそうだということ、人間さんという存在のことも――) トール: なるほどねぇ…… バルドル: で、でもね、人間さんくんは関係ないと思うの。だって何度も助けてくれてるわけだし トール: わかってるわよ。あたしだって疑ってないわ (わかりやすく安堵の表情を浮かべるバルドルを眺め、トールはふうん、と鼻を鳴らした。) トール: まだ知り合ってから大して経ってないわよね。それでそんなに信頼しちゃってるの? バルドル: 時間は関係ないと思うの トール: まあね。それはあたしも賛成だけど (付き合ってきた時間の長さと信頼は必ずしも比例しない。でもひとつの指標にはなる。) トール: オーディンとの付き合いも長いはずだけど……あいつ、結局勝手に動いてるし バルドル: オーディンちゃん、何か新しい動きがあったの? トール: 何日か前からエインヘリヤルを招集しているわ。かなりの規模よ バルドル: 変異種が出てきちゃったことと関係あるのかな? トール: そう考えるのが自然ね。でも、あんたたちで倒せた敵のために、わざわざ軍勢を集めるかしら バルドル: どこから来てるのか、本拠地がわかったとか トール: なるほどね。……なんで、オーディンの行動まで予想しなきゃいけないのかしら。一言、あいつが言えば済むことなのに トール: なんの相談もなしに勝手なことばかりして……痛い目見ても知らないんだから バルドル: オーディンちゃんは、どんな未来を見てるんだろ…… トール: さあね (トールはいら立ちを隠そうともせず、冷たく突き放すように言った。バルドルはなんと声をかけるべきか迷うが、答えにたどりつく前にトールが声を上げる。) トール: あ、そういえば バルドル: え、なに? トール: 未来視に金髪の女の子が出てくるっていうのは聞いたわ。たぶんそれって…… バルドル: 雨依ちゃんのことね! やっぱりあの子がカギを握ってるんだわ トール: 結局、そういう結論になるのね。いいわ、あたしもバルドルを手伝ってあげる バルドル: うん、ありがとね、トールちゃん トール: この町は人の行き来も多いし簡単じゃないけど……だからこそ、あたしの実力が必要よね。任せておいて! 100024 - なんのための未来か オーディン: ……何も、変わらない (決して派手ではない落ち着いた調度品。しかし、そのデザイン性ときめ細かな装飾が高級感を演出する。控えめな彼女らしい執務室で、オーディンは思わずうめいた。) (元来、オーディンは変化することをあまり好まない。平時ならイレギュラーは、危険な未来を呼び込む不安因子だ。) (だから生活様式も、未来を見るまでもなく保証された安定したものでそのほとんどを埋め尽くしていた。だがいまは……一刻も早い変化を望む日々が続いていた。) オーディン: ……本当に何ひとつ、変わっていません……が、しかし、ここまでわたしが動けば、必ず未来は…… (縋るような思いで、オーディンは執務室の窓から外を覗く。既にエインヘリヤルの軍勢は続々と集結し、整列しているところだ。) オーディン: ……あとは、前に進むだけ ロキ: あら、お出かけですか? オーディン: ――っ!? どこから……っ (言いかけて、オーディンは口をつぐんだ。廊下に通じる扉がまだ半開きだ。) オーディン: いったい、いつのまに…… ロキ: つい今しがたですよ。ノックしたら扉が開いてしまったので オーディン: ……ロキ。何しに来たんです ロキ: 私はただ、オーディンさんとお話をしに来ただけですよ。たとえば、貴方が見ている未来について、とか…… オーディン: ロキはどこまで知っているんです? ロキ: 金髪の女の子のこと、とか オーディン: トールかバルドルからでも聞きましたか。わたしの未来視に出てくると…… ロキ: さあ、どうだったでしょうか。でも、その言い方だと事実みたいですね オーディン: 何が目的ですか……? ロキ: いいえ、私はちょっとだけオーディンさんにお手伝いしてほしいだけです。その、金髪の彼女のことで オーディン: わ、わたしは、誰かの手伝いなんて、している余裕はありませんのでっ…… ロキ: そうですか……残念ですねぇ ロキ: 残念ではあっても、これがオーディンさんの選択なら致し方ありませんね オーディン: なんですか、それ、ど、どういう意味…… ロキ: では、失礼します オーディン: あ、あっ、まっ…… (あっさりと扉の向こうに姿を消すロキ。オーディンは呼び止めようとドアノブに手をかけ、そしてぴたりと動きを止める。) オーディン: 追いかけてどうするんですか、わたし。あんな言い方されたから気になっただけで、結論は変わりません。お手伝いなんてしている余裕はないんですから オーディン: 一刻も早く未来を変えなくてはいけない……そのために、私はエインヘリヤルを集めたのではありませんか……! (オーディンは絞りだすような声で自分に言い聞かせると、デスクの上のベルを鳴らした。すぐさま背後の扉が開き、兵士がその場で直立する。) オーディン: 準備は、どうですか エインヘリヤル: 順調です。今夜遅くにはご指定の部隊が編制できるかと オーディン: わかりました。すぐ出発することになると思いますから、皆さんそのつもりで エインヘリヤル: はっ! オーディン: (そう……わたしにはもう、立ち止まっている猶予はない……) (--) (アースガルズ 南の町はずれ――) (--) 雨依: じゃあ、これ。いただくわね。ありがとう (テーブル上に置かれた金貨2枚を手に取る。この町で何軒か店を覗いてみたりして、私もこの世界でのお金の価値はだいたい把握したつもりだ。) 信民: もう行くのか? 雨依: もう? 信民: どうせ宿もないんだろ。このまま泊まっていけばいいのにと思って 雨依: 最初から1時間半って約束で決めたでしょ。お泊まりもしないわ (答えながら私は、リュックの奥にしまっておいた小さなピンクの小瓶を手に取り、首筋に吹きつける。そして丁寧に淡い色のリップを引き直す。もちろん、名前も知らないベッド上の男に視線を向けることはなかった。) 信民: ねえ、また会いたいんだけど。だめかな? もっと金貨も弾むし…… 雨依: 連絡先交換もしない主義なの。悪いけど、また偶然どこかで会ったらね。それじゃ、さよなら (私は淡々と答え、部屋を出た。) (--) 雨依: (寒い……けど、コートは高いだろうし。食べていくのがやっとじゃ、無理よね) (宿の建物から出て、上を見上げる。たぶん、いま見えるのが私がさっきまでいた部屋の窓のはず。特に何も変わったことはない。) 雨依: (前に、泊めてくれた夫婦がおかしくなるまでには、少し時間がかかった……やっぱり、これくらいの短時間なら同じ部屋にいても平気みたいね) 雨依: (……いざとなれば、指を噛めばたぶん、また魔物を呼び出すことができる。そして、魔物は私の言うこともある程度聞いてくれる……) 雨依: (あのときも、人間さんを襲ったりしなかった――) (屋台の明かりが見える。条件反射のように、胃が鳴いた。) 雨依: (魔物を使ってお金や食料を奪うことだってできる……でも、そんなことをすればすぐに居場所を見つけられるし、言い逃れのできない悪として討伐されるわ) 雨依: (別に、お金を得る手段は他にあるんだから……これでいい。こんなこと、人間界にいたときからやってきたことだし……) (屋台をのぞくと、何かの肉の串焼きを売っていた。適当に目についたものを注文する。) (焼き上がるまでの間に、ふと町から見える風景を眺めた。ムスペルヘイムと呼ばれているらしい、山の稜線がうっすらと夜闇の中に浮かんで見えた。) 雨依: (これでしばらくは生きていける……でも) 雨依: (生き延びて、それで……私はどこに行こうとしてるんだろう……?) 100025 - そのときが来たら (町はずれにある広場は、普段は子供が駆け回って遊んでいるだけの何の変哲もない場所だ。) (しかし今夜は、外周を囲むように設置されたかがり火の明かりに照らされ、楽器の音色が厳かに響く、なんとも幻想的な空間になっていた。) 人間さん: (オトギノクニも最近じゃ、都会に行けばけっこう夜でも明るいからなぁ。それに比べると、ここはしっかり夜は暗い……) 人間さん: (だからこそ、こういうときの明かりが映えるんだな) ヘル: 近隣の町からも集まってきているそうよ 人間さん: どうりで。やたらと人がいるなと思ってたんだ (ヴァナルガンドやヨルムンガンドをはじめとする、今回の変異種の危機を救ったμに捧げる感謝の宴——それが今夜のこの祭りの趣旨だ。) (μとしてカウントされているのか、俺もヘルの隣に席を用意してもらい目の前にたくさんのご馳走を並べてもらっている。) ヘル: 一応、こういう感謝祭っていうのはヘルヘイムにもあるのよ 人間さん: へえ…… ヘル: ……わかってるわよ。あくまでも形だけよ。私なんて恐れられるばかりで、心からもてなそうなんて誰も思わないんだから 人間さん: いや、何も言ってないって…… ヘル: はあ……ちょっと散歩でもしてくるわ (何かヘルヘイムでの嫌なことでも思い出したのだろうか。さほど深刻でもなさそうなので、そっとしておくことにする。) 人間さん: (おお……) (舞台では、歌と踊りが始まるところだった。信民たちの間でも人気のコンテンツなのか、大きな拍手が起きる。) ヴァナルガンド: お前、楽しめていますか? (隣の席に座る気配を感じて目線を向ける、ヴァナルガンドがひとり、こちらを見つめていた。) ヴァナルガンド: 私たちにとっては楽しいものですが、異世界からきたお前がこれを楽しめるのかはわからないですから 人間さん: いや、楽しんでるよ。歌なんか、すごく上手だしなぁ ヴァナルガンド: ……衣装は、あまり肌の露出がありませんけど 人間さん: そりゃあ寒い中、屋外でやる祭りなんだから ヴァナルガンド: だから楽しめているか心配していたのですが 人間さん: 俺をなんだと思ってるんだ。ちゃんと芸術を愛する心もあるんだぞ ヴァナルガンド: ふふっ……冗談です (おお、と思わず目をみはるが、本人には気づかれずに済んだ。小さな笑いだったが、ヴァナルガンドがこんな表情を見せてくれるなんて。最初に出会ったときから考えると感慨深い。) (もっとも、出会いはそう遠い昔のことではないのだが。) ヴァナルガンド: ……傷は、もう平気ですか? 人間さん: ああ、うん。治癒魔法をしっかりかけてもらったから (服を少しめくり、脇腹を見せる。傷口はしっかり塞がっているが、少し跡が残っていた。) ヴァナルガンド: 跡が残りましたね 人間さん: ……っ ヴァナルガンド: あ……ごめんなさい。痛みますか 人間さん: いや、違う違う。ヴァンの指が冷たかったから (傷口に触れたヴァナルガンドの指の冷たさに、思わずびくりと身体を震わせたことで誤解させてしまったようだ。跡にはなっているが、傷の痛みはもうない。) ヴァナルガンド: あ、なんだ……そういうことでしたか (気恥ずかしそうに、伸ばした手を引っ込めるヴァナルガンド。俺もあげていた服の裾を戻す。) (少しの沈黙の後、ヴァナルガンドはぽつりと漏らした。) ヴァナルガンド: もし……元の世界に戻れなかったら、どうするんですか? 人間さん: 戻れなかったら…… (その可能性は決して小さくはない。もし戻れなかったら、そのときは……。) ヴァナルガンド: こうして会ったのも縁ですから、困ったときは助けてあげます。いまと同じような扱いでよければ 人間さん: ……ありがとな (『扱い』などと表現するが、充分すぎるほどの待遇を受けている。ヴァナルガンドの厚意に感謝しつつ、俺はふと胸にもやもやしたものを感じた。) 人間さん: (オトギノクニに残した仲間のことが気になって、戻ることばかり考えてたけど……もし戻れることになったらそれは、ヴァンたちとの別れってことだよな) (戻りたい気持ちに変わりはない。だが、そのときを迎えることを想像すると胸が痛んだ。それくらいには、彼女たちとの関係が出来上がっている。) ヴァナルガンド: どうしたんです、お前。なんだか元気がありませんが 人間さん: あ、いや…… ヴァナルガンド: 大丈夫ですよ。きっと戻る方法は見つかりますから (きっとヴァナルガンドは、それが別れを意味することを承知の上で、こうして励ましてくれている。俺はそんな彼女に、ただ曖昧に笑うことしかできなくて、少し自己嫌悪を感じた。) ヨルムンガンド: お兄さん、お姉ちゃん、お待たせですよ~ ヘル: ちょうど散歩していたらヨルに会ったのよ……って、なにこの空気 ヨルムンガンド: あれあれ~? もしかしてラブラブ中でしたか?ヨルちゃんたち、おじゃま? ヘル: ふうん……本当に人間さんは八方美人ね 人間さん: い、いや、別に俺は何も ヴァナルガンド: 少し距離が近いだけで妄想を膨らませるのは、人と親密に話した経験が足りないからでしょうか ヘル: は? それ、そのまま貴方に返してあげる。経験が足りないから距離感がわからなくて、そんなに密着してるんでしょう ヴァナルガンド: この程度で密着? 密着というのは、こういうことでしょう (抱き着くヴァナルガンド。が、そういう彼女も無理をしているのか、なんだか顔が赤い。) 人間さん: あはは、ふたりともすっかり仲良くなったなぁ ヴァナルガンド&ヘル: 仲良くない! (ふたりの声は見事に重なったのだった。) 100026 - まだ、何も知らない (すっかり普段の静かな夜へと戻った町。帰路につく俺たちは、さすがに身体の冷えを感じる。ずっと座って歓待を受けていたので、無理もない。) ヴァナルガンド: 人間さん、戻ったら身体を温めてあげます ヘル: は? また妙なことをするつもりなんでしょ ヴァナルガンド: 妙って何です。というか、ヘルの思考が妙なのでは ヘル: だって絶対、距離感わかってないわよ。自分の体温で温めるとか ヴァナルガンド: そんなこと言うわけないでしょう。キモいですよ ヘル: 目そらしたし。図星だったくせに。後出しはずるいわよ ヨルムンガンド: ふたりとも友達少ないんだから、お互い仲良くすればいいのに…… (ヨルムンガンドが身もふたもないツッコミを入れる。まったくだな、と同意しながらも……俺はそんな平和な光景を眺めつつ別のことを考えていた。) 人間さん: (雨依に……何が起きているんだろうか) (タイミングはもちろんだが、本人の言動からしても、あの変異種が出現した原因は雨依にあるのは間違いないだろう。それも、おそらくある程度はコントロールしている。) 人間さん: ………… ヨルムンガンド: ……。ね、お兄さん 人間さん: えっ? あ、ごめん、聞いてなかった ヨルムンガンド: ちょっと寄り道しませんか? 人間さん: あ、うん、いいけど……? ヨルムンガンド: お姉ちゃん、先に戻ってて!ヨルちゃんたち、ちょっとだけ寄り道して帰るから! ヴァナルガンド: えっ!? ヨル、どこへ行くんです!? (ヴァナルガンドの制止をまったく聞くこともなく、ヨルムンガンドはこちらの手を引いて足早にその場を立ち去る。) (やがて、数ブロックほど離れたところで、彼女はようやく足を止める。) ヨルムンガンド: このへんでいいかな。ほら、お月様がきれいに見えますよ 人間さん: あ、ああ……。でも、急にどうしたんだよ ヨルムンガンド: 悩んでるみたいだったからですよ 人間さん: ……! ヨルムンガンド: でもみんなの前では言えないっぽいから……もしかして、雨依さんのことかなぁ、なんて思ったんです (何気なく隣を歩いているだけだと思っていたのに、よく見ている。図星を言い当てられて言葉を失っていると、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。) ヨルムンガンド: お兄さん、結構わかりやすいですよぅ? 人間さん: まあでも……俺が悩むのって、それくらいだもんな ヨルムンガンド: 雨依さんのこと……信じてあげたいんですよね。元の世界の仲間、なんですもんね 人間さん: そもそも、魔物を出現させるなんて、そんな能力は見たことないんだ。だから、こっちに来てから何かあったんじゃないかと思ってる 人間さん: けど、その何かが、一体どんなものなのか……見当もつかなくて ヨルムンガンド: 能力を開花させたとき、もしかしたら悪い奴に操られちゃって本来の雨依さんの意志じゃないのかも…… ヨルムンガンド: そうだといいな、ってお兄さんは思ってるんですね 人間さん: そうだな。希望的観測、だよな ヨルムンガンド: あんな能力はないってことでしたけど、元の世界ではどんなふうに戦う人だったんですか? 人間さん: あ、いや、雨依が戦ってるところは俺も見たことがないんだ (ヨルムンガンドから聞かれて、初めてそのことに思い当たった。断絶の海で起きた空中戦では活躍したとヴェルメリオたちから聞いたが、それも彼女自身の戦闘能力とは別のものだ。) 人間さん: (いつもレオナがそばにいたしなぁ……) ヨルムンガンド: そうなんですね。戦えない、ってわけじゃないんですか? 人間さん: んー、たぶん…… (戦う姿を見たことがないだけではない。そういったことについて話したこともないのだ。) (いや、思い返せば俺は、彼女のことをさほど知らない。ピュルテたちのように一緒に旅した時間があるわけでもないのだ。) ヨルムンガンド: 雨依さんって、お兄さんの特別なひと……とかではないんですか? 人間さん: いや、特別扱いしていたわけではないんだよ。仲間のひとり、っていう感じで…… ヨルムンガンド: そうだったんですか。ちょっと意外です 人間さん: あー……たぶん思い入れが強くなっちゃってるのは、この世界でふたりだけの、オトギノクニ出身者だから、ってことで ヨルムンガンド: なるほどです。だとしたら……なんか、雨依さんは違う気がしますね ヨルムンガンド: たぶんですけど、お兄さんが雨依さんに持っている感情とは、何か別な種類の感情だったんじゃないかなって……この町にいたときの雨依さん見てて、思いました 人間さん: ……そうかもな (別れ際の雨依の顔を思い出しながら、俺も小さくうなずく。きっと、しっかり話し合わなくてはいけない。そんな気がしていた。) 100027 - オーディンの覚悟 (窓からエインヘリヤルの軍勢を見下ろすオーディン。つい先程、予定していた全軍が集結し編制が終了したと報告が上がったばかりだ。) オーディン: もう、後戻りはできませんね…… (立てかけてある自らの武器、グングニルに視線を移す。めったに使うことのない槍だが、ひとたび手に取れば絶大な威力を発揮する。) (普段は控えめなオーディンも、戦闘能力には自信がある。だからこそ、むやみに使うべきでないと自制してもいた。だが……。) オーディン: わたしが出なければ、事態は動かせないのでしょう……もう怖がっている場合ではありません オーディン: この世界の安寧のために、異世界から来た脅威を取り除かなくては (強い決意を胸に、敢えて言葉を口に出す。それは自分を奮い立たせるためでもあった。) オーディン: (それにしても……ニヴルヘイムにいるμはいったい、何をしているのでしょう……) (当然、μなら異物の存在に気づかないはずはない。なぜ危険な存在を排除しようとしないのか?) オーディン: まさか、倒されてしまった……?いえ、そんなはずはありません。μが欠ければユグドラシルにも何らかの影響が表れるはず…… オーディン: (わたしが見た未来……あれはニヴルヘイムではなかったでしょうか……炎が激しく燃え盛っていて、場所はよくわからなかったのですが……) (このまま軍勢を率いてニヴルヘイムに乗り込めば、状況によっては当地のμとの間に禍根を残すかもしれない。その可能性は何度も考えた。) オーディン: (それでも……もう、これ以上は看過できません……) オーディン: そうだ、トール。あなたはニヴルヘイムのμと面識は オーディン: あり……ます、か…… (途中で言いかけて尻すぼみになるオーディン。いつも隣にいた友人は、もうこの部屋にはいない。) オーディン: (わたしが……手を離したのに……何やってるんだろう) (ふと、執務室の棚に飾られた、いびつな形の黒い鍋に視線を移す。取っ手もガタついているし、塗りもムラがある。) オーディン: (あの頃は……わたしたちも……) (--) トール: オーディンはね、心配しすぎなのよ オーディン: ううっ、そ、それは、わかってますけどぉ…… バルドル: まあまあ、みんなでこうやって楽しむのもいいと思うよ (それは、まだオーディンの未来視がいまよりずっと曖昧で危機感もそこまで強くない時期のこと。) (オーディン、トール、バルドルの3人は揃ってとある鍛冶場に足を運んでいた。普段から何かと行動を共にする3人だが、今回は――) トール: そりゃね、あたしだって楽しむのが目的なら別にいいんだけど バルドル: 楽しみながら素敵なお鍋が作れたら最高よ? オーディン: う、ううっ……す、すみませんっ……。どうしても、エルドフリームニルが壊れたらどうしようと思って予備を用意しなきゃって…… トール: 壊れてから考えればいいじゃないの バルドル: あらあらトールちゃん、それはさすがに遅すぎるんじゃない? (エルドフリームニルとは、オーディンが保管している巨大な鍋だ。どれだけ使っても夕方には元に戻る不思議なアイテムなのだが……。) オーディン: そ、そうですよっ……壊れたら皆さん困ってしまいます……。だから、こうして……あちっ! バルドル: ああっ、オーディンちゃんったら。まだ鉄が赤いんだから気を付けないと オーディン: で、でも、冷める前に曲げないといけないですよね トール: もう、貸してみなさいよ。オーディンはぶきっちょなんだから オーディン: あ バルドル: やだ、ぐにゃぐにゃになっちゃったわよ トール: げっ。て、鉄のくせに、なんでこんなに柔らかいのよ! バルドル: 熱々にしたからよぉ? トール: ば、バルドルもやってみなさいよっ。これ難しいんだから バルドル: トールちゃんができないのに、わたしにできるかしら……あっ、あっ、やだ、なにこれ オーディン: ああ……ひん曲がってしまいました…… トール: あたし、木で家具を作ったりはできるのよ!?でも鍋はちょっと慣れてないっていうか オーディン: じゃあ木で鍋を作ると言うのはどうでしょうか バルドル: 燃えちゃうわよ~? (結局、3人がかりで作りだせたのは歪んだ鍋ひとつ。エルドフリームニルの心配はまったく解消されなかったのだが、それでもオーディンは――) オーディン: あははっ、やっぱり本当はトールは不器用なんでしょう? トール: そんなわけないでしょ! 誰に向かって言ってんのよ! 100028 - オーディンの出陣 バルドル: 『神々の黄昏』…… オーディン: そ、そうなんです。いつか、来るかもしれないって言われてる、恐るべき災厄…… トール: いつか? かもしれない? ずいぶん曖昧なのね オーディン: そ、そうなんですっ……。わかっていることは少ないんです。だからこうして書物をたくさん読んでおかないと…… バルドル: 備えあれば憂いなし、ということね。でも、ほどほどにしておかないと疲れちゃうでしょ オーディン: そうですね。まだまだ先のことですから、焦ってはいけません。わたしの未来視でも、まだ本当にぼんやりとしか見えませんから トール: あたしにはわかんないわね。起きたらなんとかすればいいんじゃないの? バルドル: オーディンちゃんとトールちゃんってほんと、正反対ね。ふたりとも極端だから、半分こにすればいいのに トール: なによ、あたしはオーディンがずっと本を読んでるからと思って バルドル: 構ってくれなくてつまらなかったのかな? トール: 違うわよ! 子供じゃあるまいしっ オーディン: ご、ごめんなさい……そうですよね、せっかく来てくれてるのに トール: オーディンも真に受けるんじゃないわよ!……まあ、本なんて後でひとりのときに読めばいいとは思うけど バルドル: それに、心配しすぎちゃうとオーディンちゃんも疲れちゃうでしょ オーディン: でも、いざというときはわたしがなんとかしないと トール: バカね。このあたしがそばにいるのよ? バルドル: そうよ、わたしだってお手伝いできるわ、きっと オーディン: ふたりとも…… オーディン: うん、そうですよね (--) (鍋を見つめたまま、過去に思いをはせていたオーディンは、ハッとして顔を上げた。) オーディン: (わたしの周りには、もう誰も……いない……) (執務室にはオーディンひとりだ。かつてのような賑やかさは、そこにはなかった。) オーディン: (あのときからずっと、『黄昏』が迫ったとしても、ふたりに頼るべきじゃないと思っていました) オーディン: (だから……これでいいんですよ、オーディン) (--) (執務室を出たオーディンは、愛槍グングニルを携え軍勢を待機させている広場へと向かう。) (彼女の姿を見るなり、執務室の入口近くに控えていたエインヘリヤルの兵士2名が素早く両脇に寄り添った。) (たとえ居城の中であっても万一に備えるようにと、それこそ魂のレベルで刻み込まれているのだ。) オーディン: ひとつ、お願いでますか エインヘリヤル1: はっ オーディン: 本隊から先行してニヴルヘイムの様子を探って来ていただけますか エインヘリヤル1: 承知しました オーディン: (さて……何が起きているか次第で、出方を変えなくては……) (--) トール: このあたりはもう、あらかた聞いてみたよね バルドル: そうねぇ。お店の人も見覚えないっていうし、衛兵さんも…… (トールとバルドルのふたりは、雨依の痕跡を求めてアースガルズの町中で聞きまわっていた。) (しかし、成果は思ったようには上がっていない。) トール: 本当に見てないんじゃなくて、覚えてないだけかもしれないけどね。なんせここ、アースガルズの中心だもん。信民がいっぱいよ バルドル: 金髪の女の子ってだけじゃ、いくらでもいるだろうし トール: 他にもっと決定的な特徴があればいいんだけど バルドル: うう……服装をもっと細かく表現できたらよかったんだけど…… トール: わかんないもんはしょうがないって。珍しい服、ってだけでも特徴になるし バルドル: ありがと、優しいね トール: そんなんじゃないわよ。あたしもその子を見つけ出したいだけ トール: 雨依って子を見つければ、オーディンだってあたしの実力を認めるしかないはず。それに情報だって手に入るだろうし…… バルドル: そうよね。ありがと、トールちゃん。あっ、あそこも屋台のおじさんにも聞いてみよっか 屋台のおじさん: 金髪の女の子? トール: そう! ちょっと変わった服装で…… 屋台のおじさん: もしかしたら、あの子かなぁ トール: え、なに!? 心当たりがあるの!? 屋台のおじさん: こんな屋台で金貨出して買って行ったんだよね。細かいのないのか聞いたらこれしかないって バルドル: ここに来て間もないから小銭がない、のかも……。雨依ちゃんかな? トール: その子、どこに行ったかわかる? 屋台のおじさん: 橋の向こうに行ったよ バルドル: ……安い宿屋がいっぱい並んでるとこだね。トールちゃん、行ってみよう! 100029 - 降りだした雨 (安宿が並ぶこのあたり一帯は、その性質もあって人の出入りが激しい。粗末な設備に安価な宿代ということで、別の田舎町から流れ着いた労働者が仮住まいにしていることが多い。) (一方で、その手軽さから男女の逢引きにもよく利用され、そっちの需要に特化させた宿もあるくらいだ。) バルドル: あ…… (聞き込みをしていたバルドルとトールの目の前を、短時間利用でチェックアウトしていく男女が通っていく。思わず赤面するバルドルの脇腹を、トールが肘でつついた。) トール: 子供じゃあるまいし、そんなことでいちいち反応するんじゃないわよ バルドル: あ、うん……! トール: おばあちゃん、聞こえる? あのね、受付でね、金髪の女の子、見なかった? おばあさん: んあー? あんだって? トール: だーかーらー。金髪のー バルドル: ねえトールちゃん。屋台のおじさんの人違い、ってことはないかなぁ? トール: あの証言がなくても、このエリアは身をひそめるのにちょうどいいから調べるべき場所ではあったのよ。ここは賭けてみてもいいのかも バルドル: そっか……そうだよね トール: おばあちゃーん。あのねー、金髪のねー バルドル: ねえトールちゃん、わたしね、ロキちゃんと待ち合わせしてるの。手分けしようってなってて トール: あーうん、そんなこと言ってたわね トール: あ、時間!? そっか、ロキを待たせちゃってるのね バルドル: そうなの。だから一旦待ち合わせ場所に行って合流して、その後3人でここの聞き込みを続けるってのはどう? トール: いいわね。じゃあ、あたしはバルドルがロキを連れてくるまで、この通りの宿を順番に聞いていくわね バルドル: うん、わかった! (--) バルドル: それじゃ、行ってくるわね トール: はーい (宿を出たところで、ふたりはそれぞれの方向に分かれる。) トール: (なんだか怪しい空模様ね) (ふと見上げればどんよりとした曇天。なんだか憂鬱な気分になりながら、トールはバルドルの背中を見送り、次の宿屋へと入った。) (--) トール: ちょっと聞きたいんだけどいいかしら? (すっかり、雨依の特徴を並べるのにも慣れてきて、お決まりのセリフで受付の老人に問いかける。) (と、そこに通りかかった客らしき男が足を止めた。) 男: あんた、μなのに人探しなんてしてるのか トール: いろいろ事情があるのよ。あんたも何か知ってたら教えてよ 男: ……いや、いま聞いた特徴に合いそうなやつを見たんだ。最近、ちょっと噂になってる トール: そうなの!? でも受付の人たちは誰も知らないって 男: 受付は一瞬通り過ぎるだけだし、そもそも会計は男がするだろうから、あまり気づかないんだろ トール: 男が……って、じゃあその子、ひとりでここに泊まってるわけじゃないのね?つまり、その…… 男: 俺も直接は会ったことないが、μでも信民でもない妙な女がいるって聞いたことがある トール: ……どうやら、あたしが探してる相手みたいね 男: ん? あ、待てよ。1時間か2時間前くらいに隣の宿屋に入るのを見たのは……もしかして、そいつだったのか……? トール: なんですって!? 隣の……? (トールは思わず、宿の壁に向かって振り向いてしまう。その壁の向こうは、先ほど彼女が聞き込みをした、耳の遠い老婆が受付をする宿がある。) 男: そろそろ出てくる頃じゃないかな。ほら、泊まるわけじゃないからさ トール: ……! (--) (通りに飛び出すトール。) (しかし、それらしい人影はない。) トール: 雨…… (閑散とした通りが、降りだした雨で少しずつ濡れていた。) (--) バルドル: いけない、もうこんな時間……ロキちゃん、待たせちゃってるわ (町はずれの、やや山がちな斜面になっている道をバルドルは小走りで急ぐ。何があるかわからないから、市街中心部での待ち合わせを避けよう、という判断が裏目に出たことを恨んだ。) バルドル: もう、雨まで降ってきちゃうなんて (強くなる雨足。既にくぼみに溜まった雨水を跳ね上げて、バルドルの足元は泥をかぶっていたが彼女はそれを気にする素振りもない。) バルドル: ロキちゃんがずぶぬれになっちゃうわ。ごめんね、ロキちゃんっ (急いで斜面を駆け上がろうとバルドルはふと顔を上げた。) (その瞬間、空気が揺れるのを確かに感じた。) バルドル: え、なんで―― (彼女の声はそこで、続く轟音にかき消される。そしてそれっきり、声は聞こえることはなかったのだった。) 100030 - 運命の相手 (窓ガラスを、こつん、と叩くような音が聞こえた。ふいに視線を向けると、空は濃い灰色の曇に覆われている。) 雨依: 雨……降ってきたのかな…… 村人: 今日は朝から天気が悪かったからねぇ 雨依: そう……。雨は、キライ…… 村人: だよねー。このあたりはまだいいんだけど、俺の家あたりだと道の舗装が甘かったりするから水たまりがすぐできちゃうんだよね。それで靴とかズボンの裾に泥はねしちゃったりするんだけど (男が何か流暢に喋っているが、私はそのほとんどを聞き流しながら乱れたベッドのシーツに視線を向ける。) 雨依: (全然違う町。全然違う世界、違う人たち……。でも、変わらないものはいくつもある) 雨依: (人の欲望とか、お金の価値とか……ううん、私に求められる価値、かな) (自分が身を置いていたあの町のことを考えて、私は息をついた。行き場のない私を迎え入れてくれた場所であると同時に、ヒビが入った私を跡形もなく叩き壊した場所でもあって。) 雨依: 死にた…… 村人: えっ、リナちゃん!? 急に、な、なに言ってんの!? 雨依: リナ? あ、そっか……ううん、ちょっと嫌なこと思い出しただけ (思い出したんじゃなくて現在進行形の嫌悪感だったのだが、そんなことは些細な嘘だった。名前すら嘘なのに、今更どうでもいい。) 雨依: (生きるためだから……全部、生きていくために必要なこと……) (じゃあ、なんのために生きるの?) (その問いに対する答えを私はすぐに用意できなかった。やがて、少し考えて――あの人の顔を思い出す。) 雨依: (人間さんに……もう一度、会いたいから……) (親友だったマキとよく歩いた通り。そこに面した駐車場には、マキの担当も含めて、顔が良いとされる男たちの看板がいくつも並んでいた。そういう華やかな人たちに比べたら、あの人は特別イケメンってわけでもないのに。) 雨依: (なんで、こんなに気になっちゃうんだろう。やっぱり運命、かな) (別れ際、必死に私の名前を呼んでいた人間さん。倒れていた私を見つけて安心した顔の人間さん。そして新しい仲間と食卓を囲み笑顔の――) 雨依: (もう一度会いたい、けど……あの人の隣に私の居場所はない……) 雨依: (会えなければ恋しくて胸が苦しいのに、会ったら余計に距離を感じてそれもまた苦しい……) (彼と私は違う。誰かにとって代えの利かない存在。自分もそんなものになれるかもしれないと思っていたけど。) 雨依: (ディマイトは、初めて手に入れた……私じゃなきゃダメっていう価値だったのにな) (指先を見つめる。噛み跡で傷ついたそれは、自分の能力を思い出させる。能力を使ったときの爽快感も含めて。) 雨依: (悪いことをしている自覚はある。もう、やるべきじゃないって。あんなことをしたんだから、今度こそ本当に追われてるのも当然の結果だし……) 雨依: (でも、これは……) 村人: あ、それじゃあリナちゃん、これ (男が取り出した金貨の音で、我に返る。どうやら物思いにふけっていた間、男は勝手に喋り倒し、私は無意識のうちに適当な相槌を打っていたみたいだ。) 雨依: ありがとう。じゃあね (金貨を財布にしまい、部屋を後にする。) (--) 雨依: (とりあえずこれで今日も食べていけるし、資金も少し貯まる……とにかくいまは逃げなきゃ) トール: おばあちゃん、聞こえる? あのね、受付でね、金髪の女の子、見なかった? おばあさん: んあー? あんだって? トール: だーかーらー。金髪のー 雨依: ……!? (階段を降りると、受付で誰かが会話しているのが聞こえた。とっさに物陰に隠れる。) 雨依: (私のことだ……。確か、あそこにいるのはバルドルって子……) 雨依: (もう追っ手がここまで……) (バルドルと、もうひとりの女は何やら言葉を交わした後、宿の外へと出ていった。) 雨依: …… (私は慎重に宿を出た。) (--) (宿を出ると、ふたりの女は手分けをするのか別行動を始めた。少し迷ったけど、面識のあるバルドルが町外れに向かうのを見て、そっちの後をつけていく。) (バルドルが向かう場所に心当たりがあったわけではない。人気の少ない山道に入っていったのは本当に偶然。けど、そんな偶然に私は心がざわついた。) 雨依: (これは、運命……なのかもしれない……) 雨依: (いまなら誰にも見られない。ここまで近づいてきている相手は脅威だわ……) (木陰に隠れてバルドルを見下ろせる坂の上へ回り込むと、覚悟を決めて、指を噛んだ。) 100031 - 後戻りはできない (穏やかな午後の空気は、駆け込んできた信民の報告によって一変した。) ヴァナルガンド: エインヘリヤルが……? (さすがに顔色を変えたヴァナルガンドは、受け取った報告をオウム返しにしたきり二の句を告げなかった。) (もちろん青天の霹靂であることは言うまでもないだろうが、それ以上に彼女が感じているのはおそらく――) 人間さん: そんなに危険な連中なのか。そのエインヘリヤルっていうのは ヨルムンガンド: 危険なんてもんじゃありません……。オーディン直轄の、英雄を集めた最強の軍勢です ヘル: 死者の魂はまず私のいるヘルヘイムに集められるの。そこで選別して、善良な魂はオーディンが管理するヴァルハラに送られるわ ヘル: そして、ヴァルハラ行きになった魂の中でも、武人として傑出した能力を持っている者だけが―― 人間さん: エインヘリヤルに組み入れられるわけか。まさに選りすぐりの兵士だな ヴァナルガンド: もちろん、オーディンの加護を受けている存在です。いくら私たちμでも簡単に倒せる相手ではありません ヨルムンガンド: さすがに1対1で負けることはないんですけどね。でもエインヘリヤルは、その数も多いですから…… 人間さん: でも、攻撃するつもりがあるかどうかは別の話だろ?ただ軍勢を連れて向かってるだけなんだから ヴァナルガンド: いいえ。単身ならまだしも、軍勢を引き連れてニヴルヘイムに入ればそれだけで敵対行為とみなします (僅かな希望的観測で可能性を口にしてはみたが、ヴァナルガンドの反応は常識的なものだった。人間界だって、軍隊を予告なく国境線に立たせれば国際問題になる。) ヨルムンガンド: お姉ちゃん……でも、どうすればいいの?私とお姉ちゃんだけで食い止められる……? ヨルムンガンド: 相手はオーディン、あの世界樹ユグドラシルにだって干渉できる、最強の存在だよ……? 人間さん: 世界樹に……? (確か、世界樹は土地の力を左右する存在のはずだ。ということは実質、オーディンがこの世界を統べる存在だと言っていいだろう。) ヘル: それに、未来を見通す力があるとか。それが本当なら直接戦ったところで勝ち目があるかどうかね ヴァナルガンド: やるしかありません。打って出ましょう ヘル: ここで迎え撃つんじゃなくて? ヴァナルガンド: アースガルズからこの町までの間に、信民の住む町や集落がいくつかあります。敵の狙いがわからない以上…… ヨルムンガンド: その人たちも守らなくちゃ。ヨルちゃんたち、μですから 人間さん: (敵、か……) (こうして話している間にもヴァナルガンドの覚悟は固まりつつあるようだ。) (明確にオーディンの軍勢を敵だと言い切った。) 人間さん: (相手はあのオーディン……オトギノクニでも知り合ったことがないが、軍神として有名なあのオーディンだ……危険には違いない。が……) ヘル: ……仕方ないわね。手伝うわ 人間さん: !? ヨルムンガンド: な、なに言ってるんですか? 相手はあのオーディンですよ。無理に付き合う必要なんて…… ヘル: ニヴルヘイムが陥落した後、ヘルヘイムまで手を伸ばさない、なんていう保証はどこにもないわ。だって、狙いがわからないんだから ヨルムンガンド: それは……確かに、そうですけど…… ヘル: そのときにひとりで嘆いても遅いわ。だったらいま、この場の全員で事に当たるほうが勝率は高い ヘル: それに……貴重な実験材料が勝手なことをしそうだから、付き合わざるを得ないことになりそうだし? (ヘルが横目でこちらを一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。どうやら俺の考えはお見通しらしい。) ヨルムンガンド: もしかして、お兄さんも来るつもりなんですかぁ?μですらないというか、別世界の人なのに…… 人間さん: まだヴァンともヨルとも知り合って間もないけど……困ってるときに助けあう関係だとは思ってるよ (それを友達と呼ぶべきか、あるいは仲間なのか。自分が決めてしまうのは気恥ずかしかったので呼び方だけは曖昧にはぐらかしながらも、俺は言った。) ヴァナルガンド: お前…… ヴァナルガンド: わかりました。正直言って、人間さんもヘルも、いてくれたら心強いのが事実です ヘル: ……貴方にそんなふうに言われたら、もう逃げられないじゃない 人間さん: そうと決まれば急ごう。境界線まで行くんだろう?どれくらいの距離があるかわからないけど (でも、もし遅れれば信民が巻き込まれるかもしれない。そう思うとのんびりしてはいられなかった。) ヴァナルガンド: そうですね。話は行く道すがら、ということにしましょう (--) (--) 雨依: ………… (もう、後戻りはできない。そう自分に言い聞かせて――) 100032 - 決戦前 (数時間前――) トール: はあ…… (降りだした雨は、気が付くとやんでいた。) トール: ……結局、収穫はなかったわね (雨依を見かけたという宿屋に再度聞き込みにいったものの耳の遠い受付の老婆以外に情報源はなかった。トールはやむなく他の宿への聞き込みを続けたのだが……。) トール: バルドル、遅いわね。ロキとどこで待ち合わせてるんだか知らないけど、そろそろ戻ってきてもいいはずだわ (気が付くと大通りに面した宿屋はほぼ聞き込みを終えてしまっていた。バルドルと別れてそれなりの時間が経っている。) トール: まさかあたしを見つけられなくてうろうろしてるとか?……バルドルなら、絶対ないとも言い切れないわね トール: ああ、ちょっと 衛兵: あっ、トール様。どうされましたか トール: あなた、このあたりをずっと巡回してるでしょ。バルドルを見かけなかった? 衛兵: バルドル様ならだいぶ前に、町を出て行かれるところを見ましたが トール: んー……それはたぶん、ロキのところに行ったときよね。その後は見てない? 戻ってきたところとか 衛兵: そうですね……出て行かれたときから、ずっと私の当番ですから見落とすことはなかったと思うのですが…… トール: そうね……。ん、ありがと。もし見かけたらあたしが探してたって伝えておいて (敬礼する衛兵に背を向け、トールは考え込む。町を出たっきりということは、ロキと合流した後に何か事情が変わったか。) トール: (とりあえず今は、金髪の女を探すのを優先するか…) (もう大通りの捜索は終えた。今度は、とトールは裏路地へと足を向けるのだった。) (--) (俺たちが急いだこともあるだろうし、相手が大軍ということでそう迅速には動けないこともあるだろうか。どうやらまだまだ、エインヘリヤルは境界線まで遠いようだ。) ヴァナルガンド: 斥候役を務めてくれた信民によれば、ですが ヘル: オーディンひとりならともかく、軍勢を引き連れていて見落とすなんてありえないと思うわ (俺たちもまだ境界線には達していないが、どうやら時間の余裕はありそうだとわかり、まずは安堵する。) 人間さん: なら、いまのうちに……だな ヴァナルガンド: え……お前、何を ヨルムンガンド: いまのうちに、えっちなことしちゃおうってこと!? やだー! 人間さん: そんなわけないだろ! (ツッコミつつ、ヴァナルガンドの手を取るとエルマイトを送ろうと強く念じる。) (もちろんヨルムンガンドはわかってからかっているのだろう。ヴァナルガンドは若干、本気にしてたような気もするが……。) ヘル: エルマイト、ってやつね。貴方のその力が、もしかしたら勝敗を左右するかもしれないわ 人間さん: ほんのちょっとだけどな (謙遜ではなく、本当に微々たるものだと思う。オトギノクニにいたときに比べて、格段に渡せる量が落ちている。) (ただ……エルマイトはポジティブな想像力――と言いつつ、ほとんどの場合、性的な妄想で補ってきた背景もあるので、この物量の差については俺の心にとどめている。) (言い方次第では、彼女たちに魅力がないように受け取られかねない。当然そんな事実はなく、みんな魅力的だと感じているのだが……。) ヴァナルガンド: 量は関係ありません。こうして応援してくれる気持ちが嬉しいですから 人間さん: そうか。そう言ってもらえると……って、え……? ヨルムンガンド: ……お姉ちゃん……? ヴァナルガンド: ん? みんな、どうしました ヘル: 驚いたわね。貴方がそんなに素直にデレるなんて ヴァナルガンド: デッ……!? ち、違います、そんなつもりではなくて! ヨルムンガンド: お姉ちゃんってば、かーわいっ♡ ヴァナルガンド: ヨル……っ! ヘル: やれやれ……ま、気持ちは通じたみたいだからいいとして、貴方は力を受け渡してなんともないわけ? ヨルムンガンド: ヘルさんも心配してるんですね ヘル: 私はただ実験材料を良い状態で持ち帰りたいだけよ (なんだか、普段通りという感じの3人のやり取りに、おもわず表情が緩んでしまう。) ヘル: なによ、いま笑う状況じゃないでしょ。おかしいんじゃないの 人間さん: かもな ヴァナルガンド: そろそろ……お遊びは終わりですよ。笑っていられなくなりますから……オーディンの前では (ヴァナルガンドの言葉に、全員の言葉が緊張感を取り戻す。そう、これから挑む相手はあの軍神なのだから――) (--) オーディン: この町を超えれば、ニヴルヘイムへの境界線は目の前です。こちらの動きを察知しているかもしれない。警戒は怠らないようにお願いします エインヘリヤル1: はっ オーディン: このあたりに異常はありませんでしたか 衛兵: あ、ありませんっ! オーディン: ならよかった。ご苦労様です 衛兵: そういえば、トール様は無事にバルドル様を見つけられたのでしょうか オーディン: ……? なんのことです? 衛兵: あ、いえっ、ちょっと気になっただけです!さきほど、探されていたようだったので……! オーディン: トールが、バルドルを……? 100033 - バルドルの行方 ロキ: これは…… (山道の一部は崩れ、崖側の斜面が崩落している。地面は不自然に抉れており、木々がなぎ倒されていた。) (明らかに、ここで何かが起きた。もっと言えば、戦闘の形跡が見られる。) ロキ: バルドルさん……でしょうか……? (ロキは、抉れた地面に残された白い布切れを拾い上げる。それは引き裂かれたのか、不揃いな断面をみせていた。) ロキ: バルドルさんの服、でしょうか……。ということは、バルドルはここで誰かと戦った…… (ふと顔を上げたロキの視線の先。そこには――) ロキ: ――っ! あれはっ……! (素早く姿を消す彼女。ロキはすぐさまその後を追った。) (--) オーディン: …… エインヘリヤル1: どうかされましたか オーディン: いえ…… オーディン: (この状況でトールがバルドルを探している……?わたしに隠れて何かしているかも、とは思ったけど……何があったの?) オーディン: (まさかとは思うけど……バルドルの身に何かあった……?) (衛兵からの報告に、オーディンは考えを巡らせる。報告内容そのものは、ただトールが探している、というだけのもの。しかし、それに彼女は何故か引っかかった。) (慎重に慎重を重ねてきた彼女だからこそだろうか。その第六感が、これには何かあると告げているようだった。) オーディン: (とはいえ、具体的な出来事は何も起きていないのに、ここで進軍を止めるわけにはいかない……わたしの最大の役目は、黄昏を回避すること……) オーディン: (でも、そのために友達の危機かもしれないのに素通りを……?) (しばしの葛藤を経て。オーディンはエインヘリヤル兵に銘じる。) オーディン: 一部、別動隊を編成します。 バルドルの捜索に向かってください エインヘリヤル1: はっ オーディン: (バルドル……どうか無事で……!) (--) (山道を走りながら、私は痛む肺に顔をしかめる。) (これまでの行動も、許されるレベルじゃないのは十分わかっている。それにしても今回は一線を越えた。) 雨依: (もう戻れない……私の手は汚れてしまった……) (実際に手を下したのは魔物だ。バルドルの身体を薙いで、彼女の姿は崖下に消えた。) 雨依: (吐き気がする……) (例えとかじゃなくて、本当に止まったら吐きそうだった。たぶん、高いところから落ちていくバルドルの姿に、マキのことを思い出したせいだろう。) (バルドルの身体が地面に叩きつけられたらどうなるか。私は確かめるまでもなく、知っている。) 雨依: (こんなことまでして、逃げて……その先に、何があるんだろう……) (もう人間さんのところになんて戻れっこない。じゃあ私はどこに向かってるの?こうして走った先に待ってる未来って何?) (そんなことを考え始めたとき。人影が行く手を塞いだ。) ロキ: やっと追いつきましたよ……。雨依さん、でしたね 雨依: ロキ、だっけ…… ロキ: どこへ行こうというんです? μである私から逃げられるとでも? 雨依: さあ……。私も自分でわからないと思っていたところなの ロキ: ずばりお伺いしましょう。貴方は……バルドルさんを、どうしましたか 雨依: ……答え次第では、私を殺す? ロキ: 私が望んでいるのは、皆さんが平和に仲良く過ごすことですよ。むやみに争いたくはないのです 雨依: そんなふうには見えないけど ロキ: よく言われます 雨依: (つかみどころのない人……。バルドルの安否を気遣っているのか、それとも単に生死を知りたいだけなのか……) 雨依: なら、私も質問にはむやみに答えないことにするわ。口は災いのもと、新たな争いを生んでしまうかもしれないでしょ? ロキ: 困りましたねぇ……。バルドルさんの居場所を知っているとしたら貴方だけなのですが 雨依: なら、私を消したら居場所は永遠にわからなくなるわね ロキ: 消すだなんて。私は雨依さんとも仲良くしたいと思っているんですよ (--) (雨依とロキ、ふたりが対峙して言葉を交わす姿。それを――) エインヘリヤル1: ………… (エインヘリヤルが発見していた。) 100034 - ロキへの疑惑 オーディン: ロキと、そして……金髪の女……? エインヘリヤル: はっ。ふたりは何か会話していました。その内容の全文までは聞き取れませんでしたが、確かにバルドル様の名前を出しておりました オーディン: ……! (オーディンは息をのんだ。金髪の女といえば、まさに黄昏とともにある世界の脅威だ。少なくともオーディンはそう認識している。) (それがバルドルの名前を口にし、そしてロキと行動を共にしている――) オーディン: つまり、ロキが……黄昏を主導していた……? (金髪の女や、それを庇う謎の男。それら異端の存在によって黄昏が訪れる……という筋書きに、いくばくかの疑問がなかったわけではない。) (本当にこの世界のμや信民は、一切関与していないのだろうか、と。) オーディン: だからって……見知った相手を疑いたくなどありませんでした……実際に、わたしも未来視で見たわけでもなかった……けど オーディン: 実際にその女と行動を共にしているからには、少なくとも問い質さなくてはなりません……! オーディン: 全軍に告ぐ (状況は変わった。ニヴルヘイムへの進軍よりも、そちらが優先だ。) オーディン: 進路を変更します。向かうは怪しい金髪の女……そしてロキのいる地点です (--) (雨依の探索を続けていたトールも、町が騒がしいことに気が付いていた。そしてエインヘリヤルの軍勢を目にして、顔をしかめる。) トール: 何よ、この大軍は……オーディンのやつ、どういうつもり?誰にケンカ売ろうとしてるわけ……? トール: ほんっと、勝手なことばっかり……! (--) ヨルムンガンド: え……? 進路を変えた? 信民: は、はい。急に全員が、別の方向に向かってしまったんです。仲間が後を追いかけています (俺たちは顔を見合わせた。あと少しで境界線というところまで来て引き返したのだろうか。しかし、斥候を務める信民の口ぶりではUターンというわけでもなさそうだ。) ヘル: ニヴルヘイムよりも優先しなきゃいけないことが起きた、もしくは見つかった……ってところかしら ヴァナルガンド: ニヴルヘイムに攻め込む理由もわかっていませんから、優先順位なんて想像できませんが……ただ、もしかすると (ヴァナルガンドが気遣うような視線を向けてくる。俺はそれに頷き返した。) 人間さん: 雨依、か (もしかするとオーディンは異世界から紛れ込んだ異物を排除しようと考えているのかもしれない。まずはニヴルヘイムの俺に狙いを定めていて、途中で雨依を発見したとか……?) 人間さん: ……ロキとバルドルが心配だな ヴァナルガンド: 確かに…… (アースガルズに消えた雨依を追いかけたふたりからは、何も連絡は入っていない。雨依を探すふたりは、オーディンの目にどう映るだろうか。) ヘル: 事情はわからなくても、行くしかないんじゃないの?アースガルズに ヴァナルガンド: ここまで来たんですし、手ぶらでは帰れませんからね。珍しく、ヘルと意見が合いました ヘル: 余計なこと言わなくていいのよ ヨルムンガンド: そうですね。じゃあ、案内してくれますか (--) ロキ: 私は……よく誤解されるんですけどね。本当に、何の企みもないんです。ただみんなが楽しく過ごしてほしい 雨依: …… ロキ: それには雨依さん、あなたも含まれているんですよ。きっと貴方も皆さんと仲良くできる、私はそう信じているんです ロキ: 見ていて思いました。雨依さんはあのニヴルヘイムで過ごしていたとき、どこか疎外感を感じていらっしゃいましたよね 雨依: ……! ロキ: けど、それは思い込みですよ。ヴァンさんもヘルさんも受け入れてくれますから 雨依: なんでそんなこと…… (ロキのことを睨みながら、私は思わずそうつぶやいていた。彼女はずっと、さっきから私のことを気遣っている。) (バルドルに危害を加えたと推測することは難しいことじゃない。でも彼女は、私に嫌疑をかける様子もなく、責めたり詰ったりもせずただこうして言葉を投げかけている。) 雨依: (うさんくさいやつだと思っていたけど……) (本人が言うとおり、本当に実は平和を願うだけの無害な存在なのかも。そんな考えが脳裏によぎっていた。) (だって、ここで私を輪に入れようと説得するメリットなんて、どこにもないはずだから。) ロキ: 人間さんと同じ世界にいたんですよね?きっと、元の世界でも人間さんとはそういう、わかりあえる関係だったんじゃないですか? 雨依: ……! ロキ: 人間さんが特別なわけではないですよ。ヴァンさんたちは、異世界から来たからと問答無用で排除したりはしない人たちです 雨依: ……そうは思わなかったけど ロキ: もちろん時間は必要です。でも、時間が解決することなんです。先に心を閉ざしてしまわないでください 雨依: 心を…… (そうなのかもしれない。私はもう、他人と関わるのが怖かったから。) 100035 - 追いつめられて (誰かと関わって、幸せだと思えたことなんてずっとなかった。傷をなめ合うようなマキとの関係も居心地はよかったけど、あれが幸せかと言われると違う気がする。) (誰かに依存して、依存されて、そんな関係しか作れなくて幸せの定義すらおぼつかないのに……どうして楽観的になれるだろう。) 雨依: 受け入れてくれたからって……その先に何があるっていうの ロキ: たくさんありますよ。たとえば、安心……とか 雨依: ……! ロキ: この人は自分に愛情を向けてくれる。無条件でそれを信じられる、そんな穏やかな空間に、いずれ行きつくことができるはずです 雨依: そんなもの、嘘だわ ロキ: 本当ですよ。だから雨依さん、もうみんなから逃げないでください。怖くありませんから 雨依: でも私は……悪いことをしてしまったのよ。それでも受け入れてくれるなんて、虫がよすぎるわ ロキ: いいえ。ちゃんと説明するんです。どうしてそんなことになったのか、何が苦しくて、辛かったのか。それで悩んだからこその、選択だったんですよね……? 雨依: ……そうよ。だって、私っ…… (思わず、ずっと溜め込んでいた感情が流れ出してしまいそうになったとき。背後からガシャン、という金属音が近づいてくるのを聞き取った。) 雨依: ……!? (迫っていたのは甲冑姿の兵士たちだった。とても数えられるような人数ではない。) (その光景に、悟った。なんて私はバカなんだろう。) (人間界ですら、何度も信じては騙されて、すがっては利用されて、それなのに異世界でなら救われるなんて、都合のいい幻想。) 雨依: ……そういうことだったのね。時間稼ぎをしていただけ、ってわけ ロキ: 違います! こ、これは私もなんのことだかさっぱり…… エインヘリヤル1: 見つけたぞ! 取り押さえろ! 雨依: ……っ!? (一斉に兵士たちが剣を振りかぶって攻撃を繰り出す。) ロキ: くううっ!! エインヘリヤル2: ロキ様も同じだ! まずは身柄を押さえるんだ! ロキ: くっ……これでわかったでしょう。私も標的になっているんです。理由は分かりませんけどね 雨依: だからあなたの言葉を信じろ、と言いたいわけ? (私は本当に何も学んでいない。危うくまた騙されるところだった。) (もしロキが騙していなかったとしても、信じなければ傷つくこともない。何が正解かなんて、明らかなのに。) 雨依: 時間稼ぎをして、この軍勢が私に近づくのを待っていた……そうとしか思えない状況よ? 雨依: あなたが攻撃を受けていることだって、言い逃れをするための演技かもしれないじゃないの ロキ: そんなっ……こんな危険なこと、するはずがないでしょう 雨依: 信じられない理由がいくつかあるのはわかるわよね。じゃあ、私がロキを信じる理由は何かある? ロキ: そ、れは……っ 雨依: もしあなたが本当に私を心配していて、仲間にしようと考えて、さっきの話をしていたのだとしても……私の答えはもう決まったわ (ロキが兵士の攻撃をせき止めている。彼女は嘘をついていなかったのかもしれない。) (でも、だからってここで彼女とふたりで心中するの?その価値があるほど、彼女は私に何かしてくれた?) (ならもう、やるべきことは決まっている。クズはクズらしく。私はもう噛み慣れ始めた指先を口元に添えて。) 雨依: 答えはひとつ。ここであなたを盾にして逃げるのよ 変異種: グゥアアアアアアァァァッ! エインヘリヤル1: こ、これは例の変異種っ……!? エインヘリヤル2: 気を付けろ、来るぞっ! 変異種: グガアアアァァァッ!! ロキ: きゃあっ! エインヘリヤル1: ぐわあああぁぁっ!! 雨依: …… (私が呼びだした魔物は、ロキも甲冑の兵士も見境なく、手当たり次第に攻撃を始めた。標的にしないのは、私だけだ。) 雨依: さようなら、ロキ。あなたと話せてよかったわ。目が覚めた気がする ロキ: 雨依さんっ……! 待ってください、行かないで……!貴方は、ひとりになっては……くううっ!? (ロキが何か言いかけていたけど、魔物の攻撃で遮られる。私は彼女たちに背を向け――) オーディン: 待ちなさい (鋭く響いた凛とした声。思わず振り向くと、そこには小柄な少女が強い意志を持った瞳で私を射抜くように睨みつけていた。) オーディン: やっと見つけましたよ。あなたが黄昏を招く最大の原因、世界の異物…… 雨依: 何だか知らないけど、ずいぶんな言いぐさね。あなた、誰なの オーディン: わたしの名はオーディン。この世界を守るため、あなたを排除する者です 100036 - オーディンとの対峙 (これまで何度も未来視でその顔を見ていた。だから、オーディンは人違いなどでは一切ないと確信していた。) オーディン: ついに、この目で見ることができました 雨依: 私を倒す? どうして? (言いながら、その女は指を噛んだ。途端に、魔物が出現する。) オーディン: 魔物を使役する……。 やはり報告にあった変異種とはあなたが生み出したのですね。 エインヘリヤル、守りを (2体目となる魔物が、更にエインヘリヤルの軍勢に襲い掛かる。さすがに精鋭ぞろいのエインヘリヤル、1体目は既に追いつめ、あと少しで討伐というところだったのだが……。) エインヘリヤル2: ぐわあああぁぁっ!! (突如現れた魔物の攻撃を防ぎきれずに倒れる兵士。オーディンはその兵士の身体を受け止める。ふと見ると、オーディンの両手は血に染まっていた。) オーディン: やはり、あなたは危険です…… 雨依: …… (本来は魂という存在ではあるが、エインヘリヤルとして戦うために彼らは仮の肉体を与えられている。当然、傷を受ければ血も流れる。) (とは言っても、彼らが傷つけられる場面などそうそうあるものではない。慎重に戦うオーディンは、相手の出方を警戒する。) オーディン: 魔物を呼び出しても、消耗した様子がない……? (もし無限に次々と呼び出せるなら戦況はまったく変わってくる。しかし、消耗した様子はないものの、彼女は続けて魔物を召喚する様子はないようだ。) (それどころか身を翻し、オーディンに背を向け――) オーディン: 逃がしてはいけません。追ってください (逃げ出す彼女の後を追うように指示するが、その行方を魔物が阻む。明らかに彼女の意図をくんでいる) オーディン: ここで逃がしてしまったら、また見つけられる保証はない…… 必ず確保を (鋭く指示するオーディン。しかし、彼女の足を止めたのはエインヘリヤルではなく……。) (--) ヘル: あれを見て! エインヘリヤルの軍勢を見つけたわ (斥候役の信民から得た情報通りに進むと、しばらくして甲冑に身を包んだ兵士たちの姿を発見した。俺たちの間に緊張が走る。) ヨルムンガンド: オーディンさんもいるでしょうか?さすがにいきなり襲ってはこないと信じたいですが…… ヘル: 待って、こっちに誰かくるわよ 雨依: ――っ!? あ、あなたたちは……っ 人間さん: 雨依!? (オーディンに背を向け駆けていたのは雨依だった。ちょうど俺たちと相対する形になり、戸惑いの表情でぴたりと足を止める。) (そして次の瞬間には、別の方向へと駆け出そうとしたが――) ヴァナルガンド: 逃がしませんよ 雨依: くっ!? (ヴァナルガンドは雨依の足元を凍らせて動きを封じると、素早く彼女の背後に回り込み、羽交い絞めにした。) 雨依: 離してっ……! ヴァナルガンド: 聞きたいことがいくつもあります。でもまずは、おとなしくしてもらわないと オーディン: 黄昏はもう目の前に迫っています。 悠長なことは言っていられません (甲冑の兵士たちが並ぶ間から、小柄な少女がゆっくりと前に進み出る。) (その小さな体から放たれる威圧感に、俺は声を失う。間違いない。これがきっと――) ヘル: オーディン……! (その場の全員が、彼女に集中したまま動けずにいた。迂闊に動けばその槍の的になる――) (そう直感させるほどの威圧感が空間を支配している。) オーディン: その人を使って何を画策しているのですか、ニヴルヘイムのμたちは ヨルムンガンド: 画策だなんて、わたしたちは何もしてませんよっ オーディン: 既にロキが関与していることはわかっています。あなたたちも同じ穴の狢……この世界を黄昏に導こうと考えているのですね 人間さん: 黄昏……? ヘル: ロキのやつ、やっぱり何か妙なことを考えていたのね ヨルムンガンド: ヘルさんも待ってください。ロキさんが何かしたなんていう証拠は何もないじゃないですか……! ヴァナルガンド: ヨルの言うとおりです。根拠もなく疑うことを、私はやめました。人間さんとのことで学んだから ヘル: それは……っ オーディン: 皆さんとロキさんの関係については何とも言えないようですね。しかし、その男性とは明らかに行動を共にしています ヘル: 彼は無害よ! ニヴルヘイムの信民のことも守って……! オーディン: あなたは彼女と同じ世界から来ていますね 人間さん: ああ……そうだ。同じ世界から来た……仲間なんだ オーディン: なるほど。そしてその女性は魔物を召喚し、アースガルズの安全を脅かしました。危険な人物です オーディン: なおかつ……私は未来を見通す能力で、あなたたちふたりのことを『視』ているのです。黄昏が訪れたこの世界の風景とともに…… 人間さん: 黄昏って、まさか……『神々の黄昏<ラグナロク>』のことか!? オーディン: ……どうやら、黄昏のことについても知っているようですね。やはり、それが目的なんですね ヘル: 知識があるだけで疑われたらたまったもんじゃないわよ オーディン: μの皆さん。そのふたりの異世界人の身柄を引き渡していただきます。できるだけ穏便に事を進めたいのです ヴァナルガンド: 人間さんが危険だという証拠は何もありません オーディン: では、こうしましょう。女性だけを渡してください。それなら構わないでしょう? ヴァナルガンド: それは…… 雨依: くっ……ふざけないでよ!! (一瞬の隙を突いた雨依は、ヴァナルガンドの拘束を振り払うと指を口元に運び、何度か噛んだ。途端に、魔物が次々と姿を現す。) 変異種: グガアアアァァァッ!! オーディン: ……ルーンよ、応えて (刹那、凄まじい暴風が吹き荒れ、魔物は一撃のもとに沈黙した。魔物が吐いた焔は周囲の木々に飛び火し、火の手が上がり始める。) エインヘリヤル1: オーディン様をお守りしろ! (新たに現れた魔物を相手にエインヘリヤルの兵士たちが応戦する。対峙する俺たちの周囲で乱戦が始まった。) (燃え盛る炎。飛び交う怒号と悲鳴、血に濡れた自分自身の手をオーディンはちらりと見やった。) オーディン: 未来は……まだ変わっていない……。ここで変えなくては…… 雨依: ……っ オーディン: あなたを自由にさせるわけにはいきません。 多くの犠牲が出る前にわたしの手で確実に―― オーディン: 構いませんね、皆さん 人間さん: だめだ! この子に手出しはさせない! (--) (俺はオーディンの前に立ちはだかる。相手はあの軍神オーディン、恐ろしくないといえば嘘になる。それでも雨依をここで見殺しにはできない。) (もう、目の前で魔物召喚も見た。彼女に非がないはずはない。それでも、やすやすとその身を引き渡すことは見過ごせない。) ヘル: 人間さん…… オーディン: 正気ですか? それはつまり、私と戦うということですよ 人間さん: わかってる。でも、ここで逃げたら……いままで俺が戦ってきたことを否定することになってしまう オーディン: 話が見えませんが……いいでしょう。どのみち、私はあなたもリスクと見なしていましたので……まとめて処分するのみです ヘル: 悪いけど、そういうことなら話は変わるわ オーディン: ……? まさか、μのあなたが邪魔をすると? ヴァナルガンド: ヘル、ひとりでいい恰好しないでください。いま、私がそう言おうとしていたんですから ヘル: 知らないわよ ヨルムンガンド: そうだよね、お姉ちゃん。なら、ヨルちゃんだって……お兄さんの味方するよ! オーディン: できるだけ穏便に進めたかったのですが……仕方ありませんね ヘル: 貴方に義理もないし、人間さんが守るっていうなら私は協力するだけよ オーディン: いいでしょう。ではまとめてお相手します――! 60041 - ロキの防戦 ロキ: やれやれ……さすがにこれは、苦しくなってきましたねぇ……。 (雨依に逃げられ取り残されたロキは、エインヘリヤルの兵士たちに取り囲まれながら、応戦を続けていた。 さすがにμ、複数の兵士たちを相手にしていたのだが……。) ロキ: (オーディンさんも私を警戒しているのでしょうね。 部隊の半分弱くらいは、ここに残していったようです。 確実に私を討ち取るつもりですね。) ロキ: (でも、買い被りすぎですよ、オーディンさん。 私は戦闘が得意ではないというのに……。) ロキ: 私にできるのは、せいぜいこんなことくらいですねぇ……! (ロキの周囲に白い棒状のものが出現すると、次々にエインヘリヤル兵へと襲い掛かる。それはまるで骨のようだった。) ロキ: 私の能力は模倣……ヘルさんの骨を使った能力だって、この通り。 (次々に直撃する骨の前に、膝をついて倒れる兵士たち。 しかし、ロキの呼吸はどんどん荒くなっていく。) ロキ: 問題は……あくまで模倣。劣化コピーになってしまうこと……。 長く続けようとすれば、私のほうがもたないんですよねぇ……。 (生じた隙に反撃を開始するエインヘリヤル兵士。それをなんとか受け流しながら、ロキは普段の笑顔を引きつらせる。) ロキ: それでも……私がここでオーディンさんたちと遭遇したことにはきっと意味があるはずですから…… ロキ: これだけの軍勢がニヴルヘイムの本隊に合流すれば、ヴァンさんたちはきっとますますピンチになってしまう…… (数にものを言わせて、徐々に囲み始める兵士たちの攻撃。ロキは追い込まれながらも、笑みを顔から消すことはなかった。) ロキ: あのオーディンさんが相手なんです……少しでも私がここで時間を稼いでおかなくては……っ (だが、次の瞬間――) ロキ: ぐ……うっ……! オーディン: 皆さんは魔物に集中しておいてください。この人たちは私が対応しますから。 エインヘリヤル1: はっ! ヘル: 言ってくれるじゃない。μ3人を相手にひとりで対応、ですって? オーディン: いきますよ。 (オーディンは手にした槍を振りかぶると、大胆に振り回す。 一見すれば、ただ力任せに振り回しているようにすら見えるが、 的確にμたちに攻撃が降り注いでいた。) ヴァナルガンド: くうっ!? こちらがどう避けるか読んでいるみたいに、先回りして攻撃が飛んでくる……っ!? ヨルムンガンド: きっと未来視だよ……! ほんの少し先の未来を読んで、先回りしてるんだ…… うわああっ!? ヴァナルガンド: ヨル!! ヨルムンガンド: だ、大丈夫だよ、お姉ちゃん……っ (避けそこなって傷を負うヨルムンガンド。 幸い、かすり傷程度で済んだようだが、俺はヨルムンガンドに手を伸ばす。) 人間さん: ヨル、こっちに。 少しずつでも補充したほうがいい。 ヨルムンガンド: あ、ありがとっ……! (俺から渡せるエルマイトの量なんてたかが知れてる。 それでもできるだけ、みんなを万全な状態に維持しようと隙を見つけてはこまめに送ろうとしていた。) 人間さん: (……でも、前よりちょっとずつ要領がわかってきた気がする) (単に彼女たちに触れるというよりも、具体的なイメージを持つとうまく力が渡せるのではないか。 俺は、そんな仮説に行きついていた。) ヨルムンガンド: もう大丈夫ですよ、お兄さん。 まだまだヨルちゃん、戦えるからっ……いきますっ! オーディン: その程度の戦力で、わたしの相手は難しいでしょう。 今からでも遅くはない。 抵抗をやめ、投降してください。 (ヨルムンガンドの気合とともに、オルムが渾身の一撃を繰り出すのだが、それも受け流すオーディン。わかっていても簡単に受けられるものではないだろう。) ヘル: 未来視だけではない、というわけね (圧倒的な実力。でも、俺はヘルたちが勝利するところをイメージする。 オトギノクニでもエルマイトはポジティブな想像力だった。) (このイメージを強く持ちながら彼女たちに触れることで、もっと多くの力を渡せるはず……。 俺はまた誰かが近づくチャンスが来たときに備え、イメージを固めていった。) 60042 - 守る理由 (オーディンはまだ本気ではないのかもしれない。 それとも、ヴァナルガンドたちが健闘してるってことになるのか。) (戦況は膠着状態に見えた。 ただ、表情に余裕があるのは明らかにオーディンだ。) (といっても、私は本来なら戦いなんてまったくできない素人。 ときどき人間さんは彼女たちに触れている。 例の、エルマイトを受け渡しているんだろう。) 雨依: (……人間さんがここから動かないのは、私を守るため、よね……) (エルマイトを渡すために、もっとμたちに自分から近づいたほうがチャンスは多いはず。それでも、μの方から近づくのを待っている。) (その行動の答えは、ひとつだと思った。) 雨依: ……どうして。 人間さん: 何か言ったか? 雨依: どうして私を庇うの。 (私はもう、彼の目の前で魔物を呼び出した。 明らかにまともじゃないことはわかっているはず。 迷わず討伐したって、きっと誰も責めたりしない。) (なのに、それどころか守るとまで言い切った。 私はピュルテやヴェルメリオみたいな身近な存在じゃない。 ギリギリ認知されてる程度の女なのに。) 雨依: 人間さんにとって、私って何? そこまでして守る価値なんてないでしょ? 人間さん: 自分の価値を、自分ひとりで決めないほうがいい。 雨依: そういう話じゃないよ。 だって見たでしょ、私が魔物を呼び出すところ。 人間さん: ……ああ。 雨依: だったら、どうして? ニヴルヘイムのアレだって―― 人間さん: 実行犯ではあるんだろう。 それはさっきこの目で見る前から、可能性は考えてた。 でも……何か事情があるんだろうから。 雨依: そんなもの、ないかもしれないのに。 私が、自分のために魔物を使う悪者だと思わないの? 人間さん: ちゃんと話もしてないのにか? それに俺は雨依を信じてる。 雨依: どうして……私なんかのこと、そこまで信じてくれるわけ? だって、何も知らないでしょう!? 人間さん: 見る目はあるつもりだから。 雨依: (バカね……あなたの目は節穴よ。) (私は自分の破壊衝動や保身のために魔物を呼び出した。 そして町を壊し、バルドルでさえも手にかけて――) (そう、私が殺したんだ。) 雨依: (もう私の手は汚れているのに……。) オーディン: もう戦いの行方は明らかでしょう。投降してください。 ヴァナルガンド: ぐうううっ……!? ヘル: く、はぁっ…… ヨルムンガンド: ま、まだまだっ……いける、よっ…… (オーディンの攻撃を受けて、ダメージを負うヘルたち。 私の目では、どんな攻撃がどう効いたのかすらわからないけど、少しずつダメージが積み重なっていることは察せられた。) 雨依: (私のことなんて何も知らないくせに信じてる人間さんと、その人間さんを信じて傷ついてる人たち……。) 雨依: (全部、私のせい……こんなことになるはずじゃ、なかったのに……。) (ただ逃げおおせればいい。そんな考えだった。 なのにどうして、こんなにたくさんの人を犠牲にすることになってしまったんだろう……。) (一方、オーディンは内心で焦りを感じ始めていた。 戦況はいたって順調、危なげなく展開されており、もう間もなく雨依、ないしは人間さんを捕縛できるはず。) (しかし、圧倒的に優勢でありながらも押しきれない。 これは、いつもの彼女の弱気とは違う。 覚悟を決めたオーディンは普段の自分を捨てきっている。) オーディン: (純粋に……これは戦闘経験からくるカン……。 慢心せず警戒しなくては、という第六感のようなもの……。) オーディン: (それに……エインヘリヤルのうち4割をロキの対応に割いた。 それが未だに合流してこないのも気がかり……。 オーディン: そろそろ諦めてはいかがですか。 これ以上は、手加減できませんよ。 ヘル: おもしろいじゃない。やってみなさいよ。 いろいろ言ってるけど、私たちはまだ誰も倒れていないのよ。 オーディン: ……。 オーディン: (そう、彼女の言うとおり……。 手加減しているつもりはないけど、彼女たちだってμです。 倒すのはそう簡単じゃない……。) オーディン: (ですがユグドラシルを操作して、ニヴルヘイムへはエネルギー供給を止めていました。信民もμも弱体化しているはず。) オーディン: (なのに、どうしてここまで……。) (オーディンはふと、遥か彼方に見えるユグドラシルのシルエットに視線を飛ばした。) 60043 - 援軍 人間さん: ……? (戦いのさなかではあるが、俺は俯瞰して状況を見ていた。 オーディンがまずはμの3人を倒そうと絞り込んでいることもあって、自分の身を守ることをあまり意識せずに済んでいたのも幸いした。) (だから、オーディンの視線がふいに明後日の方向に向くのを見逃さずに済んだ。) 人間さん: (なんだ……? 何を見た……?) ヴァナルガンド: 凍れっ……! オーディン: この程度で…… ヨルムンガンド: ありがと、お姉ちゃんっ。いくよ、オルム! (ヴァナルガンドがオーディンの足元を凍り付かせる。 すぐさまオーディンは氷の拘束を破壊してしまうが、ほんの僅かな隙をつこうとヨルムンガンドが攻撃を繰り出す。) (結局、それもあと少しでかわされてしまったが、彼女たちはこんな攻防をずっと続けていた。) (まさに一進一退。 こんな状況で、あのオーディンが戦闘中によそ見? 俺は注意深く、彼女が見ていた方角に向けて目を凝らす。) 人間さん: (あれは、樹……。 そうか。ユグドラシルか……!) 雨依: 人間さん……? 何を見てるの……? 人間さん: 世界樹ユグドラシルだよ。 あの樹がこの世界のいろんな場所に、エネルギーを送り込んでいるんだ。 エルマイトに似ているけど違う、この世界に存在するエネルギーを。 雨依: へえ……。 人間さん: オーディンはあれに干渉できる。 それでニヴルヘイムへの供給も止めていたって、確かバルドルが言ってた。 雨依: バルドル……っ! 人間さん: (ということはユグドラシルは結局、正常ってことだよな。 そしてここは、鏡界線ギリギリだがアースガルズだ。) 人間さん: (ということは、あの張り出した枝からエネルギーを回収することができるかもしれない……?) ヘル: 骸の、傀儡よ……! オーディン: 何度やっても同じです。 (オーディンは、ヘルが呼びだした無数の骨片が襲い来るのを槍先で器用に叩き落としていた。) 人間さん: (確証はない……だが、枝を折って中からエネルギーが流出したら、俺のエルマイト体質ならそれを吸収できるかも……。) (より純度の高い、この世界のエネルギーに即したものを提供できればこの互角の戦いを変えられる。 俺は覚悟を決めると、雨依に一言だけ言い残した。) 人間さん: 雨依、俺は賭けに出る。 一瞬だけ守ってやれないから、身を低くしてどこかに隠れていてくれ。 雨依: えっ、賭けって、ちょっと、人間さんっ……!? (俺は、大きくこちらに向けて張り出している枝へと全力で走り出した。) オーディン: ――っ!? (人間さんが走り出した瞬間、オーディンはハッと意識を向けた。そして瞬時に、彼の狙いを理解する。) オーディン: まさか……? それは、させませんっ……! (半ば反射的に人間さんが走る方向へと身体を向けた。 その瞬間。) オーディン: くうううっ!? (氷柱がオーディンの脇腹にめりこむ。) ヴァナルガンド: やっと……隙を見せましたね……。 どういうつもりか知りませんが、人間さんのおかげです……。 ヨルムンガンド: ヨルちゃんだってやりますよ! ヘル: ここが勝負どころね……! オーディン: なっ……!? (たとえ実力差があろうともμどうしの3対1の戦闘。 それでオーディンが優勢を保っていたのは、相手の攻撃に対して適切な対処を常に続けてきたから。) (一度、対処を失敗したとみるや彼女たちは続けざまに攻撃を繰り出す。 当然オーディンの対応も後手に回り続ける悪循環で、防ぎきれない攻撃がオーディンの身体を打った。) オーディン: くっ、わたしと、したことが……っ。 オーディン: (冷静に考えれば、あの男のスピードで枝まで到達する時間は、短くないとわかりきっていた……泳がせてもよかったのに……っ) (未知の存在、人間さんを警戒するあまりの判断ミス。 3人からの怒涛の連続攻撃に、オーディンは徐々に体力を削られていく。) (いかにオーディンといえど、一度崩れたリズムを立て直すのは容易ではない。一呼吸おきたいところだが、ヴァナルガンドたちはそれを許さない。重要な局面だと理解しているのだ。) オーディン: ま、まさか、わたしがここで……っ、ぐっ、かはっ……!? (下っ腹をしたたかに打ち付けてくる白い骨。顔をゆがめたオーディンの眼前に、ヴァナルガンドが飛びかかる。) ヴァナルガンド: これで、終わりです オーディン: ――……っ (その瞬間。) ???: ―――赤雷よ! ヴァナルガンド: うあああああっ!? オーディン: え……。 (赤い雷撃がヴァナルガンドに直撃した。 吹き飛ばされ、倒れるヴァナルガンド。) ヨルムンガンド: お姉ちゃんっ!! オーディン: あなた、は……。 (オーディンの視線の先にいる、彼女は――) 60044 - 放ってはおけないから (赤い雷撃というだけで、オーディンはその主が誰か理解していた。しかし、頭で理解はしていても、本当に彼女がそこにいるとは信じられなかった。) オーディン: トール……どうしてここに……。 トール: さあ。たまたまよ。 (状況が変わったことを察したのだろう。 人間さんも足を止め、トールのほうへ注意を向けている。 もちろん、いま彼が動けば赤雷の餌食になる。) ヘル: トールですって……? また、とんでもないのが出て来たわね……。 ヨルムンガンド: お姉ちゃん、大丈夫!? ヴァナルガンド: 不意打ちでしたが、直撃はなんとか避けました。 でも……これでまた形勢が変わりますね……。 (立て直す時間が作れただけでも、オーディンにとってはかなり大きい。 加えて、もしトールがこのまま戦闘に参加するのなら、それはかなりの戦力になる。) (だが……。) オーディン: ……なぜ来たのですか、トール……だって、あのとき、わたしは……っ トール: ……あたしには、何が正しいかなんて分からない。 でも、これがあたしの選択よ。 誰にも――― トール: あんたにも、文句は言わせないわ、オーディン。 トール: ……抱え込みすぎなのよ。いつも。 オーディン: そう、ですか……。 オーディン: ……ありがとう、トール。 トール: ふん……てか、別に助けに来たわけじゃないし。 あたしはたまたま、散歩に来たの。 トール: だいたい、一緒に戦う? いまのボロボロになってるあんたなんて足手まといにしかならないって、わからない? オーディン: (回復に専念しろ、ということですね……。) (言い方は乱暴だが、その意図するところをオーディンはくみとり、そして感謝を込めて彼女にうなずき返した。) オーディン: 大丈夫です。 多少、追いつめられていたのは認めますが、まだまだ戦いに支障をきたすほどではありませんから。 トール: あっそ。まあ、好きにすれば。 トール: あたしは散歩の邪魔になるこいつらを片づけるだけ。 でも、あんたが手伝いたいなら、それは自由。 オーディン: ええ。好き勝手させてもらいますね。 トール: ……いくわよ。 (言うやいなや、トールは地面を蹴って一気に距離を詰めると、手にした巨大なハンマーを振り回した。) ヨルムンガンド: きゃあっ!? ヘル: くうううっ、な、なんてパワーなのっ……。 ヴァナルガンド: これがトール……っ。 (誰を狙ったというわけでもない雑な攻撃だが、3人とも、その動きを一瞬封じられてしまう。) (その隙を逃がすことなく、オーディンの槍がヴァナルガンドを的確に狙ってくる。) ヴァナルガンド: ぐっ、うあっ、こ、このっ……ああああっ!! (オーディンの連撃を弾きながら、なんとか押し戻して距離をとるヴァナルガンド。 その表情に、余裕はまったく見られない。) ヘル: トールがあの攻撃を繰り出すとわかっていたように、追撃を仕掛けて来た……。 ずいぶん連携がとれているみたいね……。 ヨルムンガンド: このレベルのふたりに連携攻撃なんてされたら……。 ヴァナルガンド: そうか、未来は何も私たち敵に対してだけじゃない……味方の動きも読めるということ……? トール: 何か言われてるけど、オーディン。 あんた、未来なんか視なくたってあたしがどう動くかくらい、わかるわよね? オーディン: ふふっ。ええ、もちろん。 長い付き合いですからね。 (オーディンは口元に小さく笑みを浮かべて答える。 それは勝利を確信した余裕というよりも、トールとこうして共に戦えることそのものを楽しんでいるかのようで。) トール: そのわりに、あたしが来たときは驚いてたわね。 オーディン: そ、それは……。 トール: ま、散歩コースを予測するのは難しいのかもしれないけど。 (巨大なハンマーを軽々と肩に担いで、トールは不敵に笑った。) トール: さてと、散歩の続きといきましょうか。 60045 - オーディンの実力 (トール、そしてオーディン。 俺たちの前に現れた最強といって差し支えないであろうふたりのμは、ヴァナルガンドたちの体力を少し削っていった。) (既に、雨依が呼び出した魔物はエインヘリヤルたちに討伐されている。) (だが彼らは戦況を静観している。 迂闊に入りこめば足手まといどころか、巻き込まれると自覚しているのだろう。) トール: 休んでる暇はないわよ! 食らいなさいっ! オーディン: そこですっ!! (苛烈な攻撃を涼しい顔で繰り出し続けるトールと、そこで生じた隙を緻密に突いてくるオーディン。そしてどちらも攻撃力は高い。) (防ぎきれずに疲弊していく一方だ。反撃の糸口も見当たらない。 もちろん俺からエネルギーを補おうと何度も試みているが、焼け石に水といった状態だ。) ヴァナルガンド: くっ……このままではジリ貧です……。 しかし、どうすれば……。 ヨルムンガンド: せめて、こっちに来たままのロキさんとバルドルさんがこの場にいてくれれば……。 (ロキの模倣もさることながら、高い防御力を誇るバルドルがいれば反撃の糸口も見つかりそうなものなのだが。) 雨依: ふたりとも……来ないと思うわ。 人間さん: 何か知っているのか? 雨依: 私とロキが話しているところに、オーディンのあの手下たちが大勢現れたのよ。 私はなんとか逃げ出したけど……。 (ロキは雨依を庇って逃がしたということか。 となると、彼女はひとりでの戦いを強いられていることになる。) 人間さん: (戦っているロキを、雨依は見捨ててきた……ということか……?) (涼しい顔をして報告する雨依だが、その心中はわからない。 俺はうかつな発言をしないように自制しながら、オーディンたちの背後に控える軍勢に視線を送った。) 人間さん: でも、ここでオーディンと会ってから、軍勢が大量に合流した様子はない。ということは……まだ持ちこたえているのか ヘル: あるいは、軍勢への抵抗は最初からポーズだった可能性もあるわ 人間さん: ロキが俺たちを裏切ってるってことか? ヘル: 可能性の話よ……。 (後方に下がり距離をとったヘルは、俺と雨依の会話に口を挟む。 そのついでに俺はヘルの背中に触れるが、やはり大したエネルギーは与えられない。) 雨依: どうかしらね。 本人は誤解されやすいだけ、なんて言ってたけど。 ヘル: あんな怪しい言動をしておいて? 雨依: 私も同じようなことを疑ったわ。 会話していたのは、私を足止めして兵士たちに引き渡すためじゃないかって。 人間さん: でも、違った? 雨依: 私はまだ疑っているけど、客観的に見れば……兵士たちがここに未だに合流してこないのは不自然かもしれない。 雨依: そうだとしたら、私よりよっぽどいい人だと思うけど。 人間さん: それじゃあ、バルドルは? そっちも何か知っているんだろ。 雨依: それは……っ。 (バルドルの名前を出した瞬間、雨依は顔色を変えて言葉を詰まらせた。 ロキを置いて逃げたことにまったく罪悪感もなさそうだった彼女がそんな反応をみせたことは、どういう意味を持つのか考えを巡らせる。) 人間さん: (いったい何が……?) ヨルムンガンド: みんな! 気を付けて!! (思考を中断させる、鋭い声が響いた。 ハッと注意を戦場に向けると、トールの振りかぶったハンマーが赤い稲光のようなものをまとっていた。) ヨルムンガンド: 強烈なの、きますよ! トール: そろそろ、終わりにしないとね! トール: 雷槌、解放ッ! 打ち砕け!ミョルニィィィルッ!! (トールがハンマーを振り下ろす。辺りに赤い稲光が迸った。) ヴァナルガンド: うあああっ……!? (しかし、周辺の地面が激しく揺れていることは伝わってくるが、俺たちの身体そのものには衝撃が届かない。) (その前に、トールが放った赤雷は、せき止められていた。) バルドル: ふう……よかった、間に合って。 (バルドルの防御壁によって――) 60046 - 一進一退 バルドル: みんな、無事?……って、このふたり相手に無傷なわけないだろうけど ヘル: バルドル……? ヨルムンガンド: よかった! 無事だったんですね! (待ち望んだ援軍。それは守りのスペシャリストとも呼ぶべき、バルドルだった。 戦況の変化もさることながら、彼女の無事が確認できたことに安堵する。) 人間さん: よかったよ。何かトラブルに巻き込まれているのかと。 バルドル: うん、実はちょっと魔物と戦うことになっちゃってね、そのときうっかりしちゃったんだけど……待たせちゃったよね。 ヨルムンガンド: ううん、いいんですよ! こうして来てくれたんですから。 雨依: そんな……どうして…… (雨依がぽつりとつぶやく。見れば、顔色も良くないようだ。) (だが、そのことに俺が触れるよりも早く、地面が揺れ動く。ハッと意識を戻すと、トールがハンマーで地面を叩いたところだった。) トール: バルドル……! あんた、なんでそこにいるのよ。 バルドル: トールちゃん……それにオーディンちゃんも。 もうこんなこと、やめよう? オーディン: ……わたしが原因なんですよね。 バルドル: えっ? オーディン: わたしがちゃんとバルドルに相談しないで、ひとりで全部やろうとしたことに怒っているんですよね? オーディン: だから、そんなふうに敵側に回って……。 バルドル: 待ってよ、オーディンちゃん。 敵とか味方とかじゃないよ~! トール: なに言ってるのよ。 オーディンがこうして戦ってるってことは、このμたちが庇ってるそこの男と金髪の女が、世界にとって良くない存在なわけでしょ。 オーディン: ……その通りです。 トール: だったらそれは、世界の敵じゃないの。 雨依: 世界の敵、ね……。 トール: ねえ、バルドル。気持ちはあたしだってわかるわよ。 オーディンは勝手すぎる。 トール: でもそれは、全部終わってからお説教でいいんじゃないの? バルドル: わたしは感情的になってここに立っているわけじゃないよ。 自分が正しいと思ったことをしているだけ。 オーディン: それは……本心、なんですね。 (声のトーンを落としたオーディンの問いかけに、バルドルは無言でうなずいた。) オーディン: バルドルとは戦いたくありません。 ……しかし、決意が固いのなら。 オーディン: わたしにも、役目があります……! (オーディンは手元の槍を構え直したかと思うと、俺たちに向けて強烈な攻撃を繰り出す。しかし、バルドルはそれをすべて弾いていった。) バルドル: みんな、反撃を! ヘル: わかってる、いまやるわ! (再び激しい戦闘が繰り広げられる。 しかし、さっきまでとは違い、バルドルの展開する盾はオーディンとトールの強烈な攻撃を無効化する。) (そして、防御に手一杯にならないことで、ヴァナルガンドたちにも余裕が生まれ、反撃する機会が徐々に増え始めた。) 人間さん: (世界の敵……) (そんな戦況を見守りながら、俺はひとつのフレーズを頭の中で反芻する。 そもそもオーディンの狙いは判然としないままだった。) オーディン: くっ……やはり、バルドルを敵に回すのは厄介ですね……! しかし、ここで止まるわけにはいきませんっ……! トール: さすがに力押しは通用しないわね……。 さっきと逆よ、オーディンがかき回して隙を作って! オーディン: わかりました! 人間さん: (ターゲットが雨依、ないしは俺というのは確実みたいだ。 面識はない。おそらく未来視での風景で判断したんだろう。) 人間さん: (世界の敵、そして黄昏という単語から……オーディンはおそらく、『神々の黄昏<ラグナロク>』を阻止しようとしている。) 人間さん: (問題は未来視の内容と、その確度だ……雨依は確かに魔物を呼び出すが、でも……その程度。 こんなことでラグナロクなんて起きるものか……?) ヘル: はぁっ、はぁっ、やっと……反撃できるようになってきたわね。 ヨルムンガンド: けど、ここから巻き返せるでしょうか……はぁっ、はぁっ……! ヴァナルガンド: やるしかありませんね。 60047 - 孤独な戦い (バルドルが加わってからは、まさに一進一退。 互いに決め手を欠いたままじりじりと体力を削り合うような展開になっていた。) ヴァナルガンド: 持久戦になりそうですね……。 こうなると、お前のこれが大きいです。 (ヴァナルガンドは俺からエルマイトを受け取りながら、疲労に顔を歪めつつもそう言った。) (元々の実力差はもちろん大きいが、彼女たちは俺からエネルギーの補充ができる。 戦闘が長引くにつれて、彼我の差は縮まり始めているようだった。) (しかし……。) ヨルムンガンド: はぁっ、はぁっ……きっと、あと少しがんばれば……っ (バルドルはきっと懸命に急いでくれたに違いない。だから口には出せないが、既にヘルたちは蓄積したダメージが大きい。 勝負を決する段階までたどり着けるかどうか。) オーディン: わたしは……っ、こんなところで、立ち止まるわけには……っ、く、ふぅっ、はぁっ…… トール: ……バルドルの守りが一級品なのは分かってたけど……。あたしとミョルニルを前に、ここまで持ち堪えるとはね……! バルドル: みんなっ、大丈夫……っ? はぁっ、はぁっ、まだここからだよ……守り抜いて見せるから……っ (ヘルたちだけではない。 オーディンたちの動きも目に見えて鈍くなっている。) 人間さん: (いまこそ……ちゃんと話し合うタイミングのはずだ。) 人間さん: オーディン。聞きたいことがある。 ヘル: ちょっと、人間さん!? な、何やってるのよ! バルドル: 大丈夫だよ、ヘルちゃん。 わたしが責任もって守るからっ ヘル: だとしても、いきなり前にっ…… オーディン: ……なんですか。 わたしが使命を遂げられないことを嘲笑おうとでも? 人間さん: その使命について、もう一度ちゃんと聞きたいと思ってるんだ。 人間さん: オーディンは何を『視』たんだ? ラグナロク――黄昏とは、具体的に何が起きている状態なんだ? オーディン: ……。 オーディン: ……『神々の黄昏』とは、世界の終末です。 天は裂け、地は割れ、霊峰が震え、里は焔に飲み込まれる―― オーディン: その伝承通り、火の海となった世界の中で、わたしはその金髪の女性と、それを庇うあなたを追いつめていました。 オーディン: そして邪悪な気配が満ち、世界は焼き尽くされる―――。 これこそが、わたしがこれまで幾度も視た、世界の終末です……! 人間さん: 幾度も、か……。 (手を震わせるオーディンを見つめる。その震えはきっと恐怖ではない。 恐るべき末路を知りながら、未来を回避できずここまで来てしまったことへの怒り、ではないだろうか。) 人間さん: ……辛かったな。 オーディン: え……? 人間さん: それをひとりで何度も見続けて、なんとかしようとしてきたんだろう? 孤独な戦いだ。 (かつてオトギノクニで仲間だった、ヴィネのことを思い出していた。 彼女もまた未来視能力を持ち、そして悲惨な未来を回避するために唯一ベリアルという仲間にだけ打ち明けて、孤独に抗っていた。) オーディン: ……同情など、不要です。 (俺の反応が予想外だったのか、微かな動揺を見せるオーディン。 そんな彼女に俺は畳みかけた。もしいま聞いた事実がすべてなら。) 人間さん: なあ。俺も雨依もラグナロクに立ち会ってはいるのかもしれない。 だが、何をしたんだ? 具体的に何を引き起こした? ヴァナルガンド: お前、何を言って……? 人間さん: 雨依は変異種を呼び出して使役する。でも、所詮は魔物だ。 エインヘリヤルの兵士たちで倒せる存在だ。それがラグナロクなのか? オーディン: それ、は……。 人間さん: 確かに俺たちは異世界から来た。世界の異物だ。 でも、だから終末を引き起こす、っていうのは飛躍しすぎだろう。 トール: けど、あんたたちが来てから全部おかしくなってるのよ! 変異種のことだって、おかしいことには違いないんだから! オーディン: そ、そうです、確かにあのときわたしは…… ヘル: 人間さんの言うとおりね。 具体的な場面を見ていないのなら原因と断じるのは早計じゃないかしら。 バルドル: それにっ、人間さんくんは変異種との戦いでもがんばってくれた! いなかったら、勝てなかったかもしれないんだよ! トール: ……どうなの、オーディン。 あたしには、未来が視えないから……あんたの言うとおりにしてあげるけど。 オーディン: わたしが……未来視に囚われすぎていた……? 確かに今の時点では、あの世界が燃えるような黄昏の光景にはほど遠い……ですが……。 オーディン: ――まさか、既に回避できている……? (オーディンは明らかに迷っている。 実際、俺の主張は正しいと思えた。あまりに証拠に乏しい。) (きっと、彼女の責任感と終末への恐怖、そしてひとりで抱え込んでいた辛さがあいまって、わかりやすい結論に飛びついてしまったのだろう。) オーディン: ……しかし、人間さん、でしたか。 あなたは確かに、魔物と戦ったのでしょう。 オーディン: ですが、そちらの女性は……。 雨依: ……! 雨依: ……私が、なに? 60048 - 雨依の反発 オーディン: ……あなたは変異種を呼び出した側。 魔物と戦ったのだから世界を終わらせる存在ではない、という人間さんの主張をくむのであれば…… オーディン: ……あなたは、何者なのですか。 人間さん: 俺は、魔物と戦ったからシロだなんてことを言いたいんじゃない。 魔物を呼び出した程度で終わる世界なのか、ここは。 トール: あたしがいるのに、そんなことになるわけないでしょ。 人間さん: だったら魔物を呼び出す能力は別問題で――― 雨依: もう、いいよ。 (私は短く言って、人間さんの言葉を遮った。 自分でもそんなに通ると思っていなかった声はしっかり響いて、その場が一気に静かになった。) 雨依: もう……いいって。 この人はどうあっても私を悪者にしたいのよ。 オーディン: そのようなことは…… 雨依: 善人ヅラするのやめたら? 使命だか役目だか知らないけどさ、自分が何か精一杯やりました、っていうアリバイが欲しいだけでしょ。 オーディン: なにをいって…… (まるで私が私じゃないみたいに、口が動いて。 目の前の相手を傷つける悪辣な言葉が、滑るように紡がれていく。) 雨依: 本当に世界を良くしようと思ってるんなら、もうちょっと頭使わない? これで空振りだったとき、もう終わっちゃうんだけどわかってる? トール: あんたねぇ……! オーディンは逃げなかったのよ! 未来が視えたって知らないフリをすることだってできたのに、そうしなかった! 雨依: 自分だけ未来が視えるっていう優越感に浸りたいからね。 オーディン: 違います! 雨依: (あーあ……やっぱり我慢できなかった。私だけ、なんでこうなるんだろ。 どうして人間さんは信じてもらえるのに、私だけ疑われちゃうんだろう。) (いつもそうだった。何もかもうまくいかない。 家族のことも、友達のことも、恋愛も、お金も。) 雨依: (何が……違うっていうの……?) オーディン: 優越感などではありません。わたしはこれが、自分に与えられた責任だと…… 雨依: それが優越感だよ? 自分にしかできない、自分だけが特別だ、そう思ってるから責任なんて言葉が出てくるんじゃないのかな。 雨依: 世界の終わりなんて、ひとりで抱えるものじゃないでしょ。 オーディン: ……っ 雨依: (よくわかる……。私だって……自分だけが特別に、なりたかったんだから……) ジャコヴァ: なるほど、ディマイトか レオナ: そうなの。計測器なんて使わなくても、禍々しい気配がわかるでしょ 雨依: あの……ディマイトって? (レオナと出会ってしばらくして。 私にはディマイトというエネルギーが大量に眠っていることがわかった。 それを知ったレオナは、私をある場所に連れて行った。) (当時もまだオトギノクニに大きな影響力を与えていた組織、『インぺリウム・コミッティ』の本部に――) ジャコヴァ: ディマイトは、最近になって発見された概念だが……現在、この世界では忌むべき力としてみなされている 雨依: 忌むべき……良くないものってことよね。 そんなの持ってたら、私はどうなっちゃうの? ジャコヴァ: 社会の認識は天空神殿という組織によって歪められたものだ。 ディマイトを駆逐せよ、とな。それによって自分たちの立場を確固たるものにし支配体制を強化する目論見…… 雨依: 難しい話はわからないわ。 レオナ: ちゃんと必要としてる人もいるってことよ。 全員に嫌われるわけじゃない。 ジャコヴァ: そういうことだ。 だが、お前のディマイトがあれば我々が再び支配力を取り戻すことも可能だろう…… 雨依: お前? ジャコヴァ: む…… 雨依: 要するに私の力が欲しいのよね? それでいい思いをしたいのよね? なのに、私に対してお前って言い方はおかしくない? ジャコヴァ: こ、これは……! 雨依: 確かに人生終わってるけど、好き勝手にされたくないんですけど。 レオナ: 雨依、落ち着いて。 ジャコヴァはなんていうか、誰に対しても偉そうにしちゃうだけだから。ね? ジャコヴァ: まさか……これほどのディマイト量を抱えているとは……これはまさに世界がひっくり返るぞ……。 雨依: (結局、私は誰かに利用されるばかりの人生なのね……幸せになんて、なれないんだ……) トール: ……こいつは確かに、ひとりで迷って、抱え込んで、暴走して……迷惑なやつよ。 トール: ―――けど。 何も知らないあんたに、どうこう言われたくはないわ……! ヴァナルガンド: 雨依……私も、あなたのことはあまり信用できない。 その理由が、わかりますか? 雨依: ほら。やっぱり。 ロキは間違ってたわ。この人に私を受け入れるつもりなんてない 人間さん: 雨依。そんなに攻撃的になるな。 気持ちは分かるけど、ここは…… 雨依: ……分かる? ……ううん。 人間さんは、何も分かってない (口を挟む人間さんに心がざわつく。 会話するだけでこんなに胸が締め付けられるくらいには。 好きになってたかも。でも、だからこそ。) 雨依: 私、あなたがうらやましかった。私とは違うから。 私にないもの、手に入れられなかったものをあなたは持っているから。 雨依: ……だからこれ以上、見ているのが辛い。 (私は強く指を噛んだ。 血が、滲むほど。) 60049 - 黄昏の始まり (俺たちの目の前で雨依は指を噛んだ。 それが変異種を呼び出す合図だろうということは既にわかっている。) ヴァナルガンド: またっ……やめなさい! 変異種: グガアアアァァァッ! (動作を止めようとするヴァナルガンドだが、現れた変異種に割って入られその身体を吹き飛ばされる。普段ならあり得ないが、既に疲弊しきっている彼女は受け止めることもできなくなっていた。) バルドル: ヴァンさん! ごめんなさい、わたしがカバーしなくちゃいけなかったのに……! ヴァナルガンド: いえ、突然動いたのは私の方ですから……くっ……! (そしてバルドルもまた、仲間を庇う身のこなしができなくなっている。全員がギリギリなのだ。) 雨依: オーディン。あなたは半分正解で、半分間違いだったわ。 オーディン: 半分……? トール: こんなやつの言うこと、これ以上聞かなくていいわよ! 雨依: 確かに私は『黄昏』を引き起こすことができるわ。今からそれをやる。 オーディン: なんですって!? 雨依: でもね。オーディン、あなたが私を信じてくれて、受け入れてくれたら……何もしなかったわ。 できるけど、やらなかった……。 (雨依が再び、ひときわ強く指を噛む。 それと同時に、地面が激しく揺れ始め、どこからか轟音が響き渡る。) ヘル: これ、何の音……!? 雨依: さようなら、人間さん。 人間さん: 待て、雨依っ……! (雨依はヴァナルガンドを突き飛ばした変異種の背に乗る。 そして悲しげな瞳で、こちらに笑みを向けた。) 雨依: ごめんなさい 人間さん: 雨依!! (雨依を乗せた変異種は、あっという間にその場から走り去る。 トール、そしてヴァナルガンドが追いかけようと試みるが――) ヴァナルガンド: うあっ!? トール: 何これ、ただの地震じゃないっ……? (激しい地面の揺れにバランスを崩す。もう俺も立っているのがやっとだ。) バルドル: あれを見て! 山が……! オーディン: 霊峰ムスペルヘイム……!? (バルドルが指す方に視線を向けると、荒々しくそびえる山が赤く染まっていた。確かに、山そのものが振動しているようにも見える。) 人間さん: まさか、火山の噴火……!? 普段からあんな感じの山、ってわけじゃないんだよな? バルドル: う、うん……! トール: 最近、少しずつ赤くなっていたとは思っていたけど、こんなタイミングで……! ううん、あいつの言うとおりならあの女のせいでこんな…… オーディン: これが……黄昏……っ!? (これまでとは比較にならないほどの、すさまじい轟音が響く。 そして山頂から、真っ赤に灼けた焔の奔流が降り注いだ。) ヘル: なっ……!? (普段のμなら防ぐ手立てがあったのだろう。 だが、こちらだけでなくオーディンたちも含めて満身創痍の現在、誰もがその場で立ち尽くしていた。) トール: ……っ、こんなところで、このあたしが……っ! (焔が目前に迫った瞬間――) 人間さん: ……!? (青紫色の魔力結界が俺たちの周囲を包む。 それは降り注ぐ焔をことごとく弾き返した。) ヘル: 貴方……ロキ……!? ロキ: やれやれ、ですねぇ。 私、戦いは得意じゃないんですが……。 60050 - 総力戦 (俺たち全員を庇うように立ったロキは、何度も手をかざして魔力を放出する。 そのたびに焔の直撃で歪んだ結界が修復されていく。) 人間さん: ロキ……! オーディン: ロキ、あなた…… ロキ: 私、こうやって現場で戦うの、苦手なんですよねぇ。 だから、貴方のエインヘリヤルたちに大人しくしてもらうのにも、ずいぶん時間がかかってしまいました。 オーディン: あの軍勢を相手に、ひとりでねじ伏せたんですか……! ロキ: いえいえ、必死に逃げて来たんですよ。 (それが彼女独特の言い回しではなく、事実だということは彼女から滲む疲労の色で推測できた。) オーディン: では、エインヘリヤルたちは…… (オーディンが言いかけたところで数体の兵士がこちらに駆けてくるのが見えた。) ロキ: なんとか突破できたんですけど、ずっと追いかけられてまして。 ただ、ご覧の通りちょっといま忙しいんで、止めてもらえませんかね。 オーディン: わ、わかりました……! オーディン: 全軍、ロキへの攻撃を停止。火砕流への回避行動を続けながら本隊に合流してください! (エインヘリヤルたちが駆け足を止め、仲間たちに合流していく。 しかし、さすがのロキもエインヘリヤルたちまでは守り切れず、火山から降り注ぐ焔がなだれ込む。) (見守っていた彼らは消耗度合いが低いからか、ある程度はかわせているが、何体かは焔の直撃を受けて倒れる者もいる。) (オーディンはそれを悲痛な表情で見守っていた。) オーディン: 私が間違えてしまったせいで、こんなことに……! トール: ……後悔はあとよ、オーディン。 来るわ。 オーディン: え……来るって、まさか。 (ひときわ強い衝撃とともに、焔がまた降り注ぐ。ロキは分厚い魔力障壁を展開してそれを受け止め――) ロキ: くっ……はぁっ、な、なんとか……防ぎきれました、かねぇ……。 ヨルムンガンド: ロキさんっ……無茶しすぎですよ……。 そのおかげで、私たちは助かったんですけど、でもっ……! バルドル: 人間さんくんっ、こっちに来て! 少しでも、ロキさんに力を……! 人間さん: いま行く! (力を使い果たしたのだろう、倒れこんだロキをヨルムンガンドとバルドルが支える。 俺もそこに走り、ロキの手をとった。) ロキ: よかった……バルドルさん、無事だったんですねぇ……。 崖から落ちたかと思いましたよ……。 バルドル: 落ちたけど、でも私、頑丈だから。 ヘル: え、落ちたの……? バルドル: うん! ヘル: いや、笑顔でいうことじゃないからね……? ロキ: 私はただ……みんな、平和的に、仲良くしてもらいたくて……それだけだったんですけど……。 ロキ: なんだか、大げさなことになっちゃいましたねぇ……。 ヴァナルガンド: ロキの気持ちは、伝わりましたよ。 人間さん: ああ。みんなまとめてロキに守ってもらったんだ。 ロキが争うなっていえば、もう誰も反論できない。そうだろ? トール: ……わかってるわよ。 あたしだって、もうあんたたちとは戦う理由もないかなって思ってるし。 ロキ: ふふっ、よかった……やっと私の想いが通じたみたいですねぇ……。 ただ……人間さん、もう力はとっておいてください。 人間さん: え? だってまだ全然……。 ロキ: ここからが、本番ですから。 (ロキがそう言った瞬間、背後から何かの気配が迫ってきて、ぞくりと寒気が走った。) (ただの人でしかない俺でも感じるのだから、μたちも当然それは察知していたようで、全員が表情をこわばらせていた。) ヴァナルガンド: あ、あれは……! ロキ: おそらく……彼女こそが、この世界の終末に顕れ、その焔ですべてを焼き尽くす存在――― ロキ: ―――すなわち、”スルト”。 人間さん: スルト……! そうか、霊峰ムスペルヘイムって……ということは、もうラグナロクは……! オーディン: ……ええ、そうです。 神々の黄昏<ラグナロク>は、訪れてしまったんです。 60051 - 焔の中で (もう霊峰ムスペルヘイムから火砕流が噴き出すことはなかった。) (その代わり、飛び散った無数の焔の塊がそこらじゅうで燃え盛り、周辺は赤く、そして熱く、まるで火口近くにいるようだった。) (そんな中をゆっくりと、こちらに近づいてくる者がいる。 ロキによれば、それがあのスルトだと――。) 人間さん: ラグナロクのとき、世界を焼き尽くす存在……だったか……? オーディン: よくご存じですね。その通りです。 オーディン: この世界が存在するに値しなくなった、終末の刻……。 霊峰は赤く燃え、”スルト”が顕れる。 それが神々の黄昏<ラグナロク>が最後に迎える結末です。 オーディン: 伝承によくある、比喩の類と思っていましたが――― (スルト、とされる少女が歩みを止める。その顔には何の感情も浮かんでいなかった。) スルト: 条件、確認。黄昏を、始める。 (発した言葉も無機質で、まるで機械のようだと思ったそのとき。 スルトは手にした剣を無造作に薙ぎ払う。) バルドル: くっ……! みんな、私の後ろにっ! (スルトは薙ぎ払っただけのはずだが、すさまじい焔が周辺を包む。バルドルが前に出て防いでくれたおかげで助かったが……。) バルドル: く、うっ……こ、これは……あと3回も、受け止められないかも……! ヴァナルガンド: なら、私が氷で対抗します。いくらかは相殺されるのでは トール: やらないよりはマシ、っていう程度でしょうね。 あれはただの焔じゃない。 (悲観的なことを言いつつ、トールは武器を構え直す。 この状況でも、最後まであがく覚悟のようだ。) スルト: ――― ヘル: 来るわ! バルドル: まだ、防げるはず……っ! ヴァナルガンド: 私も手伝います。 (襲い来る焔にヴァナルガンドの生み出した氷柱がいくつも飛んでいく。 しかし、あっという間に蒸発してしまった。 バルドルがうめきながら、それを防ぐが……。) 人間さん: うあっ!! ヘル: 人間さん! (飛び火した焔が腕に飛んできた。 思わず反射的に振り払ったものの、焔はしっかり俺の腕を灼いた。) ヨルムンガンド: お兄さんっ、大丈夫!? 人間さん: ぐ、く、ううっ……! たかが火の粉が飛んできただけで、なんでこんなに痛むんだ? それに、息苦しい……っ? トール: さっき言ったでしょう。ただの焔じゃないのよ。 ヘル: とんでもない代物ね……。 人間さん: 本当にな……バルドルがいなかったらと思うと……。 (俺は自分の二の腕をじっと見つめる。 しっかり火傷の跡になっていた。だが、付着した焔はもう片方の腕で振り落とすことができた……。) (ただの焔ではない。では、どんな性質があるのだろうか? もしかしたら……?) 人間さん: オーディン、教えてくれ。このラグナロクに関することだ。 オーディン: ……なんです? 人間さん: 世界が存在するに値しないとき起きるって言ってたけど、何か基準はあるのか? どうなると存在価値がないことになる? ヘル: そんなこと、ここで聞いてどうするのよ。 ロキ: いえ……やはり人間さんは面白い人ですねぇ。 オーディン: 伝承によれば、ですが。 (オーディンは前置きをひとつしてから、スルトの動向に注意を払いながら口を開く。) オーディン: 私たちμだけでなく信民も含め、争い、欲望、そういった醜い部分が蓄積していくことでムスペルヘイムは赤く燃えていくと言われています。 オーディン: 徐々に焔が強くなり、山の内側の焔が強く燃え上がり、山肌が赤くなる。 そして限界を突破したとき、先ほどのように…… ヘル: 争い、ね。じゃあ最後の最後、大きな争いを繰り広げたのは、この場にいる私たち……ってこと? 皮肉なものね。 ロキ: ですねぇ。防ぐための戦いだったのに……。 オーディン: ……未来に怯えるあまり、争いを招いて終末を早めてしまった……ということですね……。つまり、私が…… トール: そんなもん、後からならいくらでも言えるわ。 反省は生き延びてからするのね。 オーディン: トール……。 バルドル: そうだよ、オーディンちゃん。 ね、ここからなんとか脱出する方法、一緒に考えなくちゃ! オーディン: バルドルも……巻き込みたくないと思っていたのに、結局最悪な形で巻き込んでしまいましたね……。 (彼女たちの会話を横目に見ながら、俺は一歩前に進み出る。 そして、腰にさしていた剣を抜いた。) ヴァナルガンド: 人間さん? 何をするつもりですか 人間さん: 試してみたい。 60052 - 開かれた活路 ヘル: 人間さんっ、戻りなさい! 無茶よ! トール: なに、あいつ。おかしくなったの? (危険は承知だ。でも、確かめなくてはならない。 俺は剣を手にして、足元の燃え盛る茂みを薙ぎ払った。) (草とともに焔も切り裂かれ、その一部分だけの焔が消える。 焦げた地面を見下ろし、俺は確信した。やはり、そうか。) ロキ: あの……? 何をやってるんです? ヘル: 恐怖で頭がおかしくなったんじゃないでしょうね。いいから戻ってきなさいってば。 (俺が仮説について説明しようと振り返ると、呆れ気味だったヘルたちとは対照的に、オーディンとトールは言葉を失ったまま俺を見つめた。) トール: うそでしょ……あんた、いま何したのよ……。 ヨルムンガンド: 剣で草を切ったら火が消えたんですよね? 何か不思議なことあります? オーディン: では、見ていてください。 (オーディンが剣を構え、俺と同じように草を薙ぐ。 一瞬、吹き散らされそうになりながらも、焔は元のように燃え盛っていた。) ロキ: え……? スルト: ―――! バルドル: ……っ! みんな、私の後ろに!! (オーディンの剣が草を薙いだことを攻撃とみなしたようだ。 すぐにスルトの焔が周囲を赤く染める。バルドルが残された力を振り絞って、俺たちを守ってくれたが……。) バルドル: はぁっ、はぁっ、も、もう……無理、かも…… ヴァナルガンド: 待ってください。いまのは オーディン: スルトが放つ焔、ムスペルヘイムの劫火は決して消えないと言われています。でも人間さんはそれを…… 人間さん: 何人かには説明したと思うけど、元の世界ではエルマイトというのがあって (俺はそこで簡単に、自分の持つ特殊な能力について説明した。ポジティブな感情から生まれるエルマイトというエネルギー。それを俺が先天的に大量に保有していること。) (自ら生み出すこともできること。そして、その対極にあるディマイトという存在。) 人間さん: 世界の終わりについて聞いていて思ったんだ。争いや欲望で判定しているのなら、ラグナロクはディマイトに近い特性があるんじゃないかって ロキ: だから人間さんのエルマイトで相殺できた……? (もちろん別世界だから、まったく同じものではないだろう。しかし特性に共通する部分があるなら、自分のエルマイトでディマイトに似たものに対抗できるかも。) (そんな仮説に、ヴァナルガンドは声を荒げた。) ヴァナルガンド: でも、それを試すということは、お前があのスルト相手に斬りこんでいくことになります ヨルムンガンド: そんなの危険すぎませんかぁ!? 人間さん: だから協力してもらいたいんだ。 (距離を保って大人しくしている現在は様子を見ているスルトだが、武器を手に近づけば確実に敵とみなし攻撃に出るだろう。それをかいくぐる能力は、俺にはない。) トール: つまり……あたしたちに自分の露払いをやれってわけ? オーディン: ……。 ヘル: ……いいわ。私は協力してあげる。 人間さん: ヘル……! ヘル: どっちにしろ、このままじゃ何もできないまま終わるでしょ。 可能性に賭けてみるのもいいんじゃないかしら。 ヴァナルガンド: そうですね。私もお前の賭けに一口乗ります。 ヨルムンガンド: お姉ちゃんがそう言うなら。 バルドル: 押し切られてぼろぼろになる前にやらないとね。 ロキ: どうせ良い案があるわけでもありませんし。 人間さん: みんな……ありがとう。 ロキ: 失敗しても気にしなくて大丈夫ですよ。早く死ぬか、遅く死ぬかの違いですから。 人間さん: う、うん……。 ヘル: プレッシャーかけてどうするのよ。 (まとまりつつある中、オーディンとトールは互いに顔を見合わせる。) トール: ……仕方ないわね。 あたしが切り込んで道を作ってあげるわ。 あたしくらいじゃないと、そんな突破力ないでしょ。 オーディン: 人間さん……。わたし、あなたを……信じてみます。 人間さん: ああ。 トール: 作戦は? オーディン: バルドルとトールでペアになって、道を切り拓いてください。 ロキとヴァナルガンドさんは囮役として、側面から攻撃を。 ヨルムンガンドさんとヘルさんで、援護をお願いします。 オーディン: わたしはギリギリまで人間さんの護衛をします。 攻撃はすべてわたしが受け止めますから、人間さんはわたしから離れないようについてきてくださいね。 人間さん: わかった。みんな……頼む。 ヘル: 貴方なら、なんだかんだうまくやるって、信じてるわ。 (自分の身体にエネルギーが満ちていくのを感じる。 エルマイトとはまた違う何かのような。μから何か受け渡されたわけでもないのに、不思議だ。) トール: それじゃ……いくわよ!! (そこからは夢中だった。 ものすごい速さで距離を詰めるトール、その後をたどるオーディン、それに必死についていった。) (後方からの援護で、たびたび迫る炎の舌が弾かれる。 それでも目の前に迫る劫火の熱は想像以上だった。) 人間さん: (けど……ここで怯んでる場合じゃない……っ!) スルト: ――― (気が付けば目の前にスルトがいた。彼女が焔を俺に向けるのを感じる。しかし避けていたら、このチャンスをものにできない。) (俺は迷わず剣を振り抜いて――) 60053 - 黄昏の行方 人間さん: やった……のか? スルト: ………… (俺の一太刀を浴びて、スルトは無言で動きを止めてしまった。 焔が俺を灼くことはなかったが、こちらの攻撃が効いたようにも思えなかった。) オーディン: いったい何が……? スルト: 基準値の低下を確認 ロキ: 基準値? それってもしかして、世界の……? スルト: 黄昏を、終了する ヘル: え……? それって、つまり…… オーディン: 黄昏を、阻止できた……? スルト: 再始動を開始…… スルト: 機能停止―― 人間さん: おっと (無防備に倒れこみそうになったスルトを、俺は反射的に抱き留めた。) ヴァナルガンド: よく触れますね。火傷するかも、とか考えないんですか。 人間さん: いや、なんとなくとっさに。 ヴァナルガンド: お前、バカなんですか。 ヨルムンガンド: っていうふうに心配してるんです。お兄さん、許してあげてくださいね。 ヴァナルガンド: ヨルは余計なことを言いすぎです。最近、特に。 バルドル: でもあの、本当に人間さんくん大丈夫? そんな、よくわかんない子、だっこしちゃって。 人間さん: 俺は別になんともないけど……おい、大丈夫か? スルト? (腕の中で急に眠ってしまった少女に呼び掛ける。 と、突然彼女が目を見開いた。) スルト: !! トール: 動き出したわよ! (相変わらずスルトは無表情だが、先ほどまでのような威圧感はない。 すぐさま攻撃してくるとも思えなかった。) 人間さん: えっと、大丈夫か、スルト。 スルト: 機能復元。初期設定、登録完了。 人間さん: なんだって? スルト: よろしく、マスター。 (そういうなり、スルトは俺に抱き着いてきた。) 人間さん: えっ!? オーディン: これはいったい……!? トール: いまのうちに倒したほうがいいんじゃないの!? 人間さん: マスターって、あの、俺か? スルト: うん。 人間さん: ……。 ……なら、頼みがある。スルトはいったい何者で、さっきまで何が起こっていたのか、説明してくれないか? スルト: 了承。わたしは、スルト。 ムスペルヘイム最奥部で、休眠状態にあった。 スルト: ―――“終わるべき時”に世界を灼くのが、私の役目。 オーディン: 終わるべき時……やはりそれは、伝承のようなことが原因で……? スルト: …… トール: は、無視? 人間さん: えーと、この場のμたちの質問にも答えてもらえないかな スルト: 了承。 スルト: 世界で争いや醜いことが起きれば、終わりが近づく。 基準が決められている。特にこのエリアで、急激に高まっていた。とても強い争い。 オーディン: そ、それはやはり…… トール: ま、あんたとか、エインヘリヤルたちの戦いでしょうね オーディン: うう……やはりわたしが余計なことを…… スルト: 最後に、とても大きなエネルギーがあった。 そのとき、黄昏の条件は満ち、わたしが起動した。 ヴァナルガンド: とても大きな……やっぱり、最後のあの雨依の行動が、トリガーになったってことですね。 人間さん: ……そうなんだろうな。 スルト: でも、ついさっき、基準を大きく下回った。 だから、黄昏は中断。わたしは役割を終え、再始動が始まった。 ロキ: それで気を失ってしまったんですね。 でも、人間さんのことをマスターと呼ぶのは? スルト: 始動時にわたしを所有している存在が、マスター。 人間さん: 所有……。 ロキ: 確かに両手で抱えてましたからねぇ。 所有といっても差し支えありませんね。 スルト: マスター。 (スルトが抱き着いてくる。 それはまるで小さな子供のような無邪気さだ。 といっても外見は立派な大人の女性なので……。) 人間さん: ま、まあ、距離感はその、な? ほどほどにというか。 ヘル: なにデレデレしてんのよ。 さっきまで殺されかけた相手よ? 緊張感なさすぎじゃないの。 ヨルムンガンド: あれー? まさかこんな子に嫉妬しちゃってるんですかぁ? ヘル: はっ? な、ば、バカじゃないの。 嫉妬なんてするわけないでしょう? コレは実験材料だって言ってるじゃない! ヴァナルガンド: ……マスター、ですか。 ヨルムンガンド: 嫉妬してる人、こっちにもいた! ヴァナルガンド: 違います、断じて。 人間さん: はは……。 人間さん: (……最後の一押し、か。 やっぱり雨依のあの指を噛む行為が、決め手になったんだよな。) 人間さん: (変異種を呼び出すだけじゃないんだろうか。 あの動作にどんな意味が……というか、誰かが能力を与えたのか、それとも元々……?) 人間さん: (なによりも……雨依はあのとき、どこまで自覚していたんだろう。 逃げるため、変異種を呼ぶために噛んだのか。 それとも……ラグナロクが起きる可能性を自覚して……?) トール: なに暗い顔してんのよ。 人間さん: え? あ、いや オーディン: あ、あの……胸を、張ってください……。 あ、あなたは、この世界を、す、救ってくれたんですから……。 (威厳に満ちた先ほどまでの表情とは打って変わって、なんだかぎこちない笑顔を浮かべ、オーディンはそう言ってくれたのだった。) 60054 - 取り残された種 (――あれからしばらくして。) (俺たちはオーディンの城に招かれ、くつろいでいた。 そもそも、激しい戦闘の結果、誰もが負傷し力を失っていた。 回復しなくては、それぞれの拠点に戻るのもままならない。) (現場からもっとも近く、設備が整っている場所がオーディンの城で、かつ当主がなんとしても招いてもてなしたいと訴えた結果だ。) オーディン: ほ、本当に……いろいろとご迷惑をおかけしてしまいました……。 ロキ: いえいえ、オーディンさんはがんばって打開しようとしたわけで。 バルドル: 反省も必要だけど、オーディンちゃんひとりが悪いわけじゃないよ~。 ヘル: というか……貴方、戦ってたときとずいぶん態度が違う気がするんだけど。 それは申し訳ないって気持ちから、そうなってるわけ? オーディン: はひっ!? い、いえ、その、あの トール: これが本来のこいつよ。気が弱くて、自己主張なんてできないの。 あのときは世界のため!って気を張ってただけ。 バルドル: やるときはやる子なんだよね~。 ヨルムンガンド: ギャップがすごいですねぇ。 ヴァナルガンド: ちょっと、いまなら仲良くなれる気がします。 ヘル: そうね。コミュニケーションに難ありってことで共通点があるからね。 ヴァナルガンド: その筆頭はあなたでは? ヘル: な、なに言ってんのよ! 私はヘルヘイムで毎日、魂の相手をしてるんだから! オーディン: あっ、そ、そうですよね。 お名前は存じ上げてたんですが、ちゃんとご挨拶できなくて、そ、その、いつもお世話になっています ヘル: え、あ、ど、どうも。 ヴァナルガンド: 難あり……。 トール: 目くそ鼻くそって知ってる? あんたたち。 (ムスペルヘイムが噴火する直前まで、本気で戦っていた相手だとは思えないくらい部屋は和やかな空気が支配していた。) (オーディンの豹変ぶりが貢献しているのは間違いないだろうが、それでも……本気でぶつかりあったからこそ、そして一緒に死線を超えたからこそ不思議な信頼関係が出来上がったように思う。) 人間さん: しかし……その、なんだ。 スルト?ちょっと離れてくれないと、うっかり筋を痛めそうなんだけど。 スルト: マスターのそばにいたい 人間さん: いや、うん、いろいろ当たっちゃったりするし、ね? スルト: 当たったらいけない? 人間さん: うっ……そ、そうなんだよ……。 そんな目で見られると言いにくいけど。 (そんなやり取りをしている間に、食事が運ばれて来た。 これもまた、オーディンからのみんなへのお詫びの印だという。) ロキ: そんなにお詫びばっかりしなくていいんですよ。 皆さんがこうして楽しく過ごせているのですから、それで十分です。 オーディン: そ、そうはいっても……。 ロキ: あまり主が恐縮していると、ヘルさんやヴァンさんも居心地悪いでしょう。 ヘル: あーうん、まあね。 ロキ: ただ単に人の家に来たことがないから挙動不審なだけかもしれませんが……。 ヘル: ……うるさいわね。 オーディン: あ、あの、それで……例のあの人は、エインヘリヤルが調査中です。 きっと、そ、そのうち、目撃情報も集まるはず、ですから……。 人間さん: うん……ありがとう。 (例のあの人。つまり、雨依のことだ。 結局、現在に至ってもその行方は杳として知れない。) 人間さん: お詫びというなら、俺のほうも謝らなくちゃいけない。 あれだけオーディンたちに啖呵を切っておいて、結局、雨依は……。 バルドル: 謝るのは早いよ。まだ雨依ちゃんの事情もわからないんだから。 人間さん: ……そうだよな スルト: マスター、元気がない? (ラグナロクは回避された。ユグドラシルのコントロールもオーディンによって元通り。 ニヴルヘイムは再び潤うだろう。) (変異種の出現はまだ予断を許さない状況ではあるが、今回のことでμたちの連携もとれるようになった。この世界の問題はあらかた、片付いたといえる。) (だからこそ……雨依のことだけが、取り残されているような感覚になる。 何も、解決していない……と。) ヴァナルガンド: お前があれこれ悩んでも何も解決しません。 人間さん: そうだよな。わかってるつもりなんだけど。 ヴァナルガンド: それより、スルトを平然と膝の上に乗せるほうが問題です。 ヘル: 思った。諦めたとかじゃなくて、普通に隣に座らせなさいよ。 マスターなんだから言うこと聞かせられるでしょ。 人間さん: えっ、いやまあ ヨルムンガンド: お兄さん、えっちな顔してますよ~? ロキ: ふふっ、最低ですね。 人間さん: さらっと一言で辛辣なこと言わないで!? トール: まったく……こんなのが世界を救ったなんて、信じられないわね。 って、あんたは何やってんの。 オーディン: バルドルが、わ、わたしもがんばったからって……褒めてくれてるんです。 バルドル: よくがんばったね、オーディンちゃん。よしよし トール: まーったく、あたしの次に強い軍神が聞いて呆れるわ。 ま、これくらいがバランス取れていいんだけど。